古代ギリシアの大哲学者。ソクラテスから受けた決定的な影響のもとに〈哲学〉を一つの学問として大成した。イデア論を根本とする彼の理想主義哲学は,弟子アリストテレスの経験主義,現実主義の哲学と並んで,西欧哲学思想史の全伝統を二分しつつ,はかりしれぬ影響と刺激を与えている。
アテナイの名門の家柄に生まれた。父はアリストンAristōn,母はペリクティオネPeriktiōnē。かなり年長の兄にアデイマントスAdeimantosとグラウコンGlaukōn,姉(または妹)にポトネPōtōnēがいて,彼女の息子スペウシッポスSpeusipposが,プラトンの死後アカデメイアの学頭を継承する。父アリストンは早逝したらしく,ペリクティオネは彼女の叔父ピュリランペスPyrilampēsと再婚し,プラトンの異父弟にアンティフォンAntiphōnが生まれている。母方の叔父カルミデスCharmidēsとその従兄クリティアスは,早くから〈ソクラテスの仲間〉であり,有能な人物でもあったが,前404年の〈三十人僭主〉の中心人物となり,内乱においてともに戦死した。プラトンが生まれたのは,大政治家ペリクレスの死の直後であり,長期にわたるペロポネソス戦争のさなかに青少年時代を過ごした。すでに幼いころから家族とともに親しんでいたソクラテスの人格と生き方は,たえず彼に大きな感化を及ぼしつつあったが,当時のアテナイ人青年の一人として,彼もまた当初は,やがて政治家となって国政に参画することを当然の将来として志していた。しかし現実の情況推移は,しばしば彼を失望させた。とくに,ペロポネソス戦争敗北直後に樹立された政権がたちまち寡頭独裁政権と化して崩壊してしまったこと(前404-前403),さらには,次いで回復された民主政体のもとでソクラテスが不当な告発を受け処刑されるに至ったこと(前399)は,いやしがたい大きな衝撃を彼に与えた。
ソクラテスの死から12年間ほどは,内外両面にわたり彼の〈遍歴時代〉がつづく。処刑の直後,一時メガラに赴いたのをはじめ,この間にキュレネやエジプトにも旅行している。同時に,生前のソクラテスの言行の指し示していた意味の究明が,彼を主人公とする対話編の執筆という形で始められた。この活動と多様な現実体験の蓄積との重ね合せの中から,最終的に彼が到達したのは,政治権力と哲学的英知の一体化という〈哲人王〉の思想であった。前388(または387)年,プラトンはこの構想を抱きつつ,南イタリアとシチリア島への旅に出る。この旅行の途次,タラスにおいてアルキュタスを中心とするピタゴラス学派に接し,シチリア島のシュラクサイにおいては専政君主ディオニュシオス1世,およびその義弟にあたる青年で政治改革に情熱を示すディオンと運命的な出会いがなされた。アテナイに戻ったプラトンは,自分の理想と目的にかなった人材の養成を終生の事業と見定めて,学園アカデメイアを創設する。彼は後半生は,おおむね,この学園の運営と対話編の執筆の継続によって,〈哲学〉を人間の営みの中に確実に位置づけることに捧げられた。しかし〈シチリア事件〉がこの充実した〈学頭時代〉に波乱をもたらす。前367年,ディオニュシオス1世が死去し,同2世が王位を継ぐと,かつてプラトンに深く共感したディオンが,この若い君主を教導することによって哲人王の理想が実現できると考えて,プラトンに協力を要請してきたのである。結果は,プラトンの予測どおり不首尾に終わり,ディオンも後に暗殺(前354)されることになるが,プラトンはその間,高齢をおして2度(前367,前362)もシュラクサイに渡り,生命すらおびやかされながら,ねばり強い努力を傾けている。晩年のプラトンは,現実をさらに厳しい目で見つめつつ,アカデメイアでの研究教育と対話編の執筆という本来の仕事に専念し,その旺盛な思索力は80歳で世を去るまで,少しも衰えを示さなかった。
プラトンの著作は,古代の思想家や作家の中では例外的に,長期にわたる伝承上の困難をのりこえて,一つも失われずにほぼ完全な形で今日まで伝えられている。伝承の基礎となったのは,後1世紀のローマにおいてトラシュロスThrasyllosがプラトンの全対話編に書簡集を加えて編集した九つの〈四部作集〉である(ただしそのうちの数編は偽作)。最初期の近代活字本の一つにステファヌス版(1578)があり,プラトンの原典個所を引照する場合には,この版本のページ付けと約10行ごとに付されたA~Eの段落分けによって指示し,現行校本にも必ずこの数字と記号が明示されている。19世紀以来の古典文献学,とくにL.キャンベルが始めた文体統計学的研究によって,各著作の執筆時期の三大別が可能となった。前期著作:《ラケス》《リュシス》《カルミデス》《エウテュフロン》《ソクラテスの弁明》《クリトン》《エウテュデモス》《プロタゴラス》《ゴルギアス》《メノン》など。中期著作:《饗宴》《ファイドン》《国家》全10巻,《ファイドロス》《パルメニデス》《テアイテトス》(ただし文体研究による区分とは別に,〈イデア論的対話編〉である前4者のみを中期著作と呼び,《パルメニデス》以降を後期著作とする場合もある)。後期著作:《ソフィステス》《ポリティコス(政治家)》《フィレボス》《ティマイオス》《クリティアス》《法律》全13巻,《エピノミス(法律後編)》。プラトンの著作は,書簡集と《ソクラテスの弁明》を別にすれば,すべて対話編であり,ソクラテスの問答の過程を活写した前期著作や,そこに内包されていた可能性を積極的に展開させた中期著作では,ソクラテスがおもな話し手となり,また主題の内容が明白に実在のソクラテスを逸脱した若干の後期対話編では他の人物が主役の位置につく。したがって,プラトン自身が直接一人称で語ることをしていないが,しかしその全体は,まさしく彼自身の思想の展開と発展を表明したものにほかならない。
ソクラテスの言行の指し示していた意味の究明,とくに問答を通じて倫理的徳目(勇気,節制,美など)を明確に定義しようとした努力の継承・発展が,プラトン哲学の基本的動因となっている。ソクラテスの問い,例えば〈美とは何か〉を満たすべき〈まさに美であるもの〉が,プラトンによって人間の真の知の対象となり理想となる真実在として積極的に措定されるようになる。これがイデアである。イデア論は,倫理や価値の領域をこえて,広く自然・世界解釈全般に適用され,存在と生成の問題すべてにわたる統一的な説明原理となってゆく。これと並行して,〈何よりも魂をたいせつにせよ〉というソクラテスの主張は,〈イデアを認識するために魂・精神をできるだけ身体・感覚の影響から純化せよ〉という要請として継承され,魂・精神は永遠不滅のイデアと類縁関係にあって,本来不死なるものであるという確信となる。イデア界とその認識努力の究極には,〈学ぶべき最大のもの〉として,〈善のイデア〉がある。仮説・前提を廃棄しつつ上方の原理へとさかのぼり,〈善のイデア〉の直知にまで到達することを目ざす,純粋思惟によるイデア界の探究が〈ディアレクティケdialektikē〉と呼ばれ,哲学的営為の最上位におかれる。以上がプラトン哲学の基本構想であるが,中期末から後期にかけての著作においては,それをより強固なものとするための論理的反省や認識論的基礎の批判的考察がなされるとともに,多くの新しい発展的要因が付加される。魂概念は,〈自己自身を動かすもの〉という新たな規定を介して,〈世界霊魂〉の考えへと発展し,〈範型〉としてのイデアおよび生成の場としての〈空間〉とあわせて,プラトンの自然観,宇宙像を支える基本原理となる(《ティマイオス》)。また,《ソフィステス》や《ポリティコス》において定義のために用いられる〈分割法〉や,《フィレボス》に見られる存在の構造への新視点,すなわち〈限〉と〈無限〉および両者の〈混合〉,そしてその混合をもたらす〈原因〉によって存在を分析する手法なども,晩年の思想の特色である。彼の哲学は,ソクラテスの言行に示唆されていた可能性の究明から出発して,価値と認識と存在とを統一的に把握する一つの形而上学を目ざしたものといえるが,その発展はつねに理想的な国家社会の実現への努力と一体をなしている。理想国家を大胆に描いた《国家》や,よりリアルな国制改革を論じた《法律》の二大著作は,政治の書としても,後世に大きな影響を与えている。
→ギリシア哲学 →新プラトン主義 →西洋哲学
執筆者:藤澤 令夫
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古代ギリシアの哲学者。アテネの名門の生まれで、若いころは政治に志したが、ソクラテスの処刑を転機として、暗愚なアテネの政界を見限り、人間の存在を真に根拠づけうるものを求めて、愛知(フィロソフィアー)(哲学)に向かった。紀元前385年ごろ、アテネの近郊、英雄アカデモスに捧(ささ)げられた神域に学園アカデメイアを開き、各地から青年を集めて、研究と教育の生活に専念し、80歳の高齢に及んだ。その間二度までもシチリア島に渡り、シラクサの僭主(せんしゅ)ディオニシオス2世を教育し、理想の政治を実現しようとして挫折(ざせつ)したが、その試みは彼の哲学の向かうところを示している。
生前に公刊されたほぼ30編に及ぶ著作は、そのまま今日に保存されているが、ほぼすべて一種の戯曲作品であって、いろいろ論題をめぐり哲学的論議が交わされ、「対話篇(へん)」とよばれている。ソクラテスが主要な登場人物である。執筆年代によって、〔1〕ソクラテスを中心にして、主として徳の何であるかが論ぜられ、たいていアポリアaporiā(行き詰まり)に陥って終わる前期対話篇(『ソクラテスの弁明』『クリトン』『ラケス』『カルミデス』『プロタゴラス』『ゴルギアス』『メノン』など)、〔2〕魂の不滅に関する壮麗なミュートスmythos(物語)に飾られ、ソクラテスによってイデア論が語られる、文芸作品としてはもっとも円熟した中期対話篇(『パイドン』『パイドロス』『饗宴(きょうえん)』『国家』など)、〔3〕哲学の論理的な方法への関心が強く、魂とイデアの説がソクラテスの姿とともにしだいに姿を消していくかにみえる後期対話篇(『パルメニデス』『テアイテトス』『ソピステス』『ポリティコス(政治家)』『ピレボス』『ティマイオス』『法律』など)に分かれる。
[加藤信朗 2015年1月20日]
プラトンにとって愛知(哲学)とはソクラテスの愛知であり、ソクラテスは「哲学者」そのものであった。前期から中期にかけての「対話篇」の多くがソクラテスの追憶を保存し、ソクラテスのうちに体現される「哲学者」を弁護・称揚しようとするのはこのゆえであり、ソクラテスの裁判の模様を記す『ソクラテスの弁明』、死に面する哲学者のあり方を描く『パイドン』はもとよりのこと、『饗宴』や『国家』もまた、その意味でのもっとも優れた作品の一つである。ソクラテスにとって愛知とは、もっともたいせつなことを知らないという自分の無知をわきまえることにあった。知らないことを知っていると思うことなく、知らないとおりに知らないと思い、このアポリア(行き詰まり)において問われているものを問うてゆく道が愛知にほかならない。前期の対話篇において、対話がいつもアポリアに収斂(しゅうれん)し無知の告白をもって終わるのは、このことを示している。アポリアから出るためのではなく、アポリアにとどまるための愛知の術策が、ミュートスとディアレクティケーdialektikē(問答法)である。
[加藤信朗 2015年1月20日]
時とともに移ろうことがなく、同一のものとしてとどまる永遠不変なものを、プラトンはイデアidea(形相)とよんだ。イデアは生成に対する存在、多に対する一、他に対する同であり、肉体の感覚によりとらえられず、魂の目である理性によって観(み)られる。生成の世界(可視界)は存在の世界(不可視界)を分有し、模倣する限りにおいて、これに基づいて存在し、両世界の間には実物と影、本物と模像の比例がある(『国家』の線分の比喩(ひゆ)、洞窟(どうくつ)の比喩、太陽の比喩、『ティマイオス』の宇宙創成論など)。
人間が生誕と死によって限界づけられる「この世(ここ)」と「あの世(あそこ)」の別を、プラトンはこの2世界の別に応ずるものとして構想し(『パイドン』『パイドロス』など)、この両界を遍歴する不滅な魂に関する光彩陸離たるミュートス(物語)をもって、これを飾った。魂はもとは天上にあって真実在の観照を楽しんだが、邪悪な思いのゆえに地上に転落し、土(肉体)中に埋められ、生物となった(「肉体=墓標」説)。愛知は、魂が地上の事物のうちに天上の事物との類似をみいだし、真実在を想(おも)い出して(「想起説」)、これに焦がれることである(「エロース説」)と説明される(『メノン』『パイドロス』『パイドン』『饗宴』)。しかし、イデアの措定とミュートスの構想を教説(ドグマ)とし、そこから固定した哲学説ないし世界像を構成することは、プラトンの意とするところではない。イデアの措定は、アポリアの内にある者の間に問いと答えの運動を起こす始点となる同意であり、問いと答えの運動を不毛な饒舌(じょうぜつ)と争論から守り、問答者を真理のうちに固めるための保証である。またミュートスは、アポリアにある者が、己の置かれてある境位を確かめるために描き出す、自己の「在りか」の見取り図であり、アポリアとして凝固して示されている「根源へのかかわり」を形象として、宇宙論的な規模のうちに枠どり、投影するものである。
[加藤信朗 2015年1月20日]
アポリアにある者がミュートスの形象を排除して、アポリアにおいて問われている存在そのものに向かい、その「何であるか」を「ことば」のうちに尋ねるところにディアレクティケー(問答法)が成立する。ことばは互いに絡み合って一つの連関を形づくり、また、この連関は他の絡み合いから生まれる他の連関とさらに絡み合って、新たに別の連関をつくる。単一な連関がそれだけで単独に取り出されるとき、全体の真実は失われる。一つの連関が他の連関との間につくっている類比関係において、この類比関係を構成する範型項と実例項の間の複雑多岐な連関の全般に分け入り、そこに編み成される真実と虚偽の絡み合いを解きほぐしてゆく術策が、ディアレクティケーであり、それにより問答者は多(=他)を通じて一(=同)なる真実のうちに固められる(『パルメニデス』『テアイテトス』『ソピステス』『ポリティコス』『ピレボス』)。
プラトンは、知識が固定した体系として文字に記されうることを信じなかった。人間の生がかかわる事柄そのものをことばを通じて明らかにしてゆくことによって、われわれ自身のあり方を真実のうちに固めてゆく道程が哲学である。
[加藤信朗 2015年1月20日]
『田中美知太郎他編『プラトン全集』全15巻・別巻1(1974~1978・岩波書店)』▽『加藤信朗著『初期プラトン哲学』(1988・東大出版会)』
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前429頃~前347
ギリシアの最大の哲学者。ペロポネソス戦争のうちに成人し,政治的関心が強く,民主政治にも権力政治にも批判的で,特に師ソクラテスの処刑に刺激されて,哲学者が政治をとらなければ,国家は救済できないという哲人政治の思想をいだいた。そういう哲学者はいかなる哲学を持つのか,それを問題にしたのが代表作『国家』で,晩年の大作『法律』とともに,彼のポリスへの関心の深さを物語るものである。彼の哲学はイデア論といえるが,主として対話形式で書かれた文学的なその作品は,あらゆる哲学的問題を含み,「哲学史はすべてプラトンに施した注釈にすぎぬ」という言葉さえある。
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…代表的なものの一部を,比較のために要約すれば,つぎのごとくである。
[エロスとアガペ]
プラトンの説く,〈エロスerōs〉の愛は,自己に欠けたものへの欲求である点,上記の〈欲求説〉に近い。しかし,その欲求が,対象自体よりも,対象に発現する,より高い美しさ,完全さ,価値に向かい,究極は〈一者〉との合一を目ざすというのは,〈イデア説〉と同根である。…
…前387年ころ,アテナイの北西郊外にある公共体育場アカデメイアを利用するかたちでプラトンによって開設された学園。教育カリキュラムなど不明だが,数論,幾何学,天文学などが最重要の予備学として教授研究されたことは確実である。…
…この場合,教父たちの間には二つの考え方の対立があった。一つはプラトンの宇宙形成説に近い考え方である。プラトン哲学では形相と質料の二元論をとる。…
…
【遊びの歴史】
[神しか遊ばなかった時代]
古代では遊びは神の行うことであった。プラトンはいう,〈最高のまじめさをもって行うだけの価値のあるものは,ただ神にかんすることがらだけであり,人間はただ神の遊びの玩具になるようにつくられている〉。たとえば,ギリシアにおけるオリュンピアの競技,それは人間が神の玩具となって競われるものであった。…
…プラトン晩年の対話編《ティマイオス》と《クリティアス》とを唯一の典拠とする伝説で,おそらく彼の創作と考えられる。かつてアテナイの政治家であり詩人でもあったソロンがエジプトに旅行した折,その地の神官が昔のアテナイ人の勇敢さをたたえ,古い記録に基づいて彼に語って聞かせた体裁をなしている。…
…もともとは動詞idein(見る)に対応して〈みめ〉〈姿〉〈形〉を意味するギリシア語。プラトン哲学において〈エイドスeidos〉(この語も同根同義)とともに〈真実在〉を指すのに用いられ,これに関するプラトンの学説がイデア論と呼ばれる。ただし,〈イデア〉や〈エイドス〉がその意味での哲学用語として固定化されたのはアリストテレス以降のことであり,プラトン自身は専門用語として統一的に使用しているわけではない。…
…アリストテレスの時代になると,コスモスの解釈学にはいくつかの流れが読み取れるようになる。原理的には無限の空虚な空間の中をさまざまな原子が運動するという宇宙イメージを立てたデモクリトス,ノモスnomos(法)の概念を媒介に,人間の倫理をも自然の合理的秩序の中に含ませつつ,独特の宇宙論(そしてギリシア哲学においては数少ない宇宙開闢説)を展開するプラトン,おそらくはデモクリトスを最大の論敵として仮想しつつみずからの宇宙論構築の道をたどったアリストテレスを,そうした流れの中心に見ることができる。 コスモスの編成原理としてどのようなものを立てるにせよ,ごくまれな例外を除いて,そうした秩序の及ぶ範囲は有限となるのがふつうである。…
…イデアは元来,見られたものごとの形,姿などの経験的,具象的な対象を意味した。しかし,プラトンによって,それは経験的な個物を超越した不変,永遠の存在の意味を負わされるに至った。イデアには数学的対象や今日一般に抽象概念と呼ばれるものも含まれるが,とくにプラトンでは倫理的概念が重視され,その頂点に位するのが万人の究極的に追求すべき善のイデアとされることによって,イデアは同時に理想,理念の意味をも担う。…
…タレスは三角形が2角とそれらのはさむ辺によって定まることを利用して間接測量することを知っており,三平方の定理を証明したと伝えられるピタゴラス学派では,図形に関する知識を証明によって基礎づけることを行った。証明の方法や論理はさらにプラトンとその学派によって深い省察が加えられて洗練され,定義,公準,公理の思想が展開された。プラトンがその学園アカデメイアの入口に,〈幾何学を知らざるものは入るを許さず〉と大書したという伝説は,彼がいかに幾何学を重視したかを物語っている。…
…ソクラテスもはじめはこうした自然学に興味を示したが,そこには自然の構造が〈善く〉〈正しく〉つくられているゆえんがなんら説明されていないのを見いだして失望し,むしろ善き〈魂の配慮〉を求めて倫理的規範の問題に探究を移し,そこにあるべき理想,理念としての〈イデア〉を発見した。プラトンはこれをうけついで,イデアを倫理的行為の問題だけではなく,再び自然学のなかにとり入れ,その著《ティマイオス》において創造者(デミウルゴス)がイデアを〈範型〉としてこの宇宙をつくり上げる独特の数学的自然学を展開した。彼はまたアカデメイアという研究所をつくり,〈哲人王〉たるための哲学をきわめると同時に,イデア的考察に資するものとして純粋数学や理論天文学の研究をエウドクソスらとともに推進した。…
…アリストテレスにとどまらず,さらにギリシア哲学の展開の跡をたどっていけば,最後にプロクロスに行き当たることになる。プロティノスの新プラトン主義の哲学を整理し体系化したこの哲学者の没年は後485年だが,この哲学の究極の原理,始原は言うまでもなく〈一者(ト・ヘンto hen)〉であり,その一者から比喩的に言えばいっさいが流出し,いっさいはまたその一者に帰る。超感覚的な一者はいわば光のような巨大なエネルギー源なのである。…
…中にはクセノフォンのように他国に亡命しながらも,追憶談義や冒険旅行記,伝記や歴史小説のごとき新しい文芸ジャンルの開拓に足跡を残したものもいる。またソクラテスの弟子プラトンのように,現実の社会と政治には携わらず,前5世紀のアテナイ文化に対して容赦ない道徳的批判を浴びせ,ついに詩人追放論を公にするものが現れたのも,この時代の極端な一つの反動的動きを示している。 前4世紀初めのアテナイの文人たちの活動にはこのような幻滅感,ないしは遠心性ともいうべき特色が顕著ではあるが,反面,法廷や議会,祝典などの制度上の民主的機能の復活とともに,優れた弁論家が輩出し,名文を数多く後世に残していることも大きな特色である。…
…もちろん,このとらえ方自体,ある程度西欧的な哲学の伝統によりかかっており,例えば日本語における〈間(ま)〉は,明らかに時間と空間の双方を含んだ概念であるが,もともと〈時間〉とか〈空間〉という日本語がそうした西欧的背景のなかで用いられる習慣がある以上,ここでもさしあたって西欧的な概念史を問題にする。
【西欧的空間概念の系譜】
古代ギリシア文化圏で注目すべき空間論はデモクリトス,それにプラトン,アリストテレスに見いだせよう。デモクリトスにおいては,空間は,完全な〈空虚mēon〉(すなわちいっさいの存在の否定)としてとらえられ,それはまた,存在としての原子(アトム)が運動するための余地であるとみなされた。…
…一定の境界線で区切られた地縁社会に成立する政治組織で,そこに居住する人々に対して排他的な統制を及ぼす統治機構を備えているところにその特徴がある。
[国家の機能]
一般に政治の機能は,社会内部の異なる利害を調整し,社会の秩序と安定を維持していくことにあるが,こうした機能の達成のためには,社会の組織化が必要である。国家は,政治の機能を遂行するためにつくられた社会の組織にほかならない。社会の構成員が国家という組織からみられるときには,国民あるいは公民と呼ばれる。…
…もっともデモクリトスのアトムatom論にみられるような原子論も展開された。しかし四元素の考えが,プラトン,アリストテレスという両哲学者により,世界構築の素材要因として受け入れられたことから,元素論は四元素という形で後世に受け継がれた。 〈元素〉を表す英語element,フランス語élément,ドイツ語Elementなどの言葉は,ラテン語のelementumからきている。…
…後3世紀にプロティノスによって実質的に創始され,6世紀まで存続した哲学思潮。その後のヨーロッパ哲学史上にプラトン主義の伝統を定着させる働きをした。プロティノス自身かなり独創的な思想家であったが,自分の思想をすべてプラトン哲学からの帰結であると称していたので,この名がある。…
…ここで〈真〉であるのは,そうして露呈される存在者そのものである(存在論的真理観)。しかし,古代ギリシアも古典時代になると真理のそうした否定的原義は忘れられ,たとえばプラトンにあっては,眼前の存在者を通してそのイデアに魂の眼を正しく向けるその〈正しさorthotēs〉ないしその視線の正しさによって得られるイデアとイデイン(見る働き・認識)の〈合致homoiōsis〉が真理と考えられるようになる(対応説的真理観)。 alētheiaがラテン語でveritasと訳されたとき,接頭詞aにこめられていた真理体験の否定的性格は決定的に見失われ,中世スコラ哲学にあっては真理は〈知性と物との合致adaequatio〉と定義されて,一貫して〈合致・対応〉の視点からとらえられる。…
… このような〈必要にせまられた人為の産物〉としての正義という考え方に対して,人間が理性という超越的能力によって創出すべき秩序,調和状態としての正義という考え方がある。この考え方の代表的思想家はプラトンである。プラトンは正義を善のイデア=〈神的にして秩序あるもの〉であるとし,人間は善のイデアを超越的能力である理性によって観照しうるとした。…
…
[政治学の歴史]
政治についての体系的な研究は,紀元前5世紀のギリシアにおいてはじまった。ソクラテスにおける〈善きポリスと市民〉の問いにはじまった政治についての学問は,プラトンにおける理想のポリスの探求,アリストテレスにおける経験的なポリス国制の比較研究へと発展していった。しかし,ポリスの共同体的特質を反映して,そのいずれにおいても,政治の規範的研究と経験的研究は直接的に結合し,したがって政治学はまた〈善き市民〉としての生き方を説く倫理学でもあった。…
…ここでは,西洋のこの哲学知の基本的概念装置を検討し,この知の本質的性格と,それを原理に形成された西洋文化の特質を洗い出してみたい。
【自然(フュシス)と形而上学(メタフュシカ)】
ギリシアの古典時代にソクラテスやプラトン,アリストテレスらの思想のなかで生まれ形をととのえたこの〈哲学〉と呼ばれる知は,当時のギリシア人の一般的なものの考え方に対していかなる関係にあったのか。それを昇華し純化するものであったのか,それともそれとはまったく異質のものであったのか。…
…〈善〉を意味する西欧近代語のthe good(英語),das Gute(ドイツ語)は形容詞の名詞化であり,le bien(フランス語),il bene(イタリア語)は副詞の名詞化である。そこには古代ギリシア語における,特にプラトンにおけるto agathonという語法,ないしはラテン語のbonumの用法の影響が認められる。〈よい〉という形容詞や〈よく〉という副詞は,肯定的価値一般を表示する日常語として,きわめて多義的に用いられるが,〈善〉という名詞は本来的には哲学の術語である。…
…彼らはこれを世界の調和と名づけた。調和の観念のこのような宇宙論的含意はプラトンによってさらに継承・発展させられ,ヒッポクラテス学派やストア学派の思想にもその反響をはっきりと読みとることができる。だがアリストテレスはこの観念を厳しく論難した。…
…次いで前6世紀後半以降,ピタゴラス学派において,〈愛知〉は,名利を離れて知を愛求するという意に深められたようである。 これらの考えを受けて,前5世紀後半のソクラテス,およびその弟子プラトンの段階に至って,ギリシアにおける〈愛知〉の意味はほぼ確定した。ソクラテスおよびプラトンによれば,人間にとってたいせつなこと最も尊いことは,単に生きることではなく,むしろよく生きることである。…
…同一性と変化ないし差異をめぐる問題は,こうして古くから,そのうちに,宇宙の根源,絶対者といったものをめぐる思考という位相と,われわれが住む世界内で出会う事象とそれをめぐる思考にかかわるかぎりでの位相,さらにときにはこの二つの位相相互の関係づけの論理をめぐる位相という,二つないし三つの位相を含んでおり,その結果,一見したところ,きわめて複雑な様相を呈することになる。たとえば,プラトンにおいて,宇宙の究極原理である〈一なるもの〉への探究は,この世的なものないし有限なもの一般にかかわる思考の同定した同一性を,いわばくり返し根本にたちかえってつきくずしていく問答法的あるいは弁証法的思考の遂行においてはじめて感得されるものというように考えられていた。また,トマス・アクイナスをはじめとする中世のスコラ哲学の思考においては,超越者たる神の同一性は,神ならざる被造物の同一性とは質的に区別されたものであり,後者を出発点とした類比的な〈アナロギア〉の道にしたがう思考によって達せられるべきものである,というように考えられている。…
…自分の恋する青年を引きとって教育する際のきずなは兄弟間よりも堅かった。また,人間の原形は男・男,男・女,女・女で,ゼウスによって二分されて以来,いずれの半身も他の半身にあこがれて一体化しようとすると述べて,同性愛を異性愛と等置したプラトンの《饗宴(シュンポシオン)》の中で,ファイドロスは愛者とその愛する少年だけから成る軍隊は全世界を敵としても必ず勝つ,と説く。実際,スパルタやテーバイの軍隊はそのように編成され,エロスの神に犠牲を捧げてから戦地に赴いた。…
…これらの言葉が広く用いられるようになったのは19世紀も半ば以後のことであるが,知識をめぐる哲学的考察の起源はもちろんそれよりもはるかに古く,たとえば古典期ギリシアにおいてソフィストたちの説いた相対主義の真理観にはすでにかなり進んだ認識論的考察が含まれていたし,ソクラテスもまたその対話活動のなかで,大いに知識の本質や知識獲得の方法につき論じた。
[プラトン,アリストテレス]
こうして深められた認識論的な問題意識に体系的な表現を与え,その後の展開の方向をさだめたのがプラトンである。彼は人間の知的な営みを〈知識epistēmē〉と〈思いなし(臆見)doxa〉という二つの種類に分けて考察した。…
…だが諸文化のなかで美についての学問的探究をいちはやく展開したのは古代ギリシアであり,以来美学的思想の主潮はやはり西欧に流れてきたとみなければならない。 美のイデアを説いて美の哲学の基を築いたプラトン,悲劇を論じた《詩学》によって芸術学の始祖となったアリストテレス,はじめて独立の美論をまとめたプロティノス,ローマにおいては修辞学上の著作をもつキケロおよびクインティリアヌス,古代末期から中世に移れば神学的美論を説くアウグスティヌスやトマス・アクイナス,ルネサンスでは各種の美術論や詩学を述べる美術家や文人たち,これらはいずれも深く沈潜して傾聴すべき人々である。近世に入るや感性に対する新たな照明と相まって17世紀から18世紀前半にわたり美学成立の機運が生じた。…
…西洋における聖数の代表例で,12960000をいう。プラトンの《国家》第8巻に言及があることに由来し,アダムJ.Adamに代表される次のような解釈が有力である。すなわち,12960000=216×60000であり,ここで216は人間が母胎にとどまる最短の日数を示すとされる。…
…パラドックスで有名なエレアのゼノンがこの手法の元祖といわれる。ソクラテスの問答的対話術を承けたプラトンにおいては,公理的前提から出発する幾何学などの悟性知の論理と区別して,弁証法こそが哲学的な真知学の方法とされる。そこでは,仮設から出発して原理へと上昇する途と,原理から下降する途とが方法論的に区別されてもいる。…
…〈模倣〉と訳される。この概念は,自然界の個物はイデアの模像mimēma,mimēseisであるとするプラトン哲学の考え(《ティマイオス》)に由来するが,さらにさかのぼれば,数と個物の関係についてのピタゴラス学派の思想にその原型がある。アリストテレスはプラトンからこの概念をひきついだが,芸術は模倣の模倣であり現実世界よりもさらに真理から遠ざかるものであるとするプラトンの考えをしりぞけて,模倣こそ人間の本然の性情から生じるものであり,諸芸術は模倣の様式であるとした(《詩学》)。…
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[ユートピアの系譜]
ヨーロッパでは古代以来,ユートピア思想と運動の伝統が形成されている。最古のものは,プラトンの対話編《国家》にあらわれる。プラトンはここで,哲人支配者によって厳格に統治される国家を描き,現実のアテナイを暗に批判するとともに,人間と政治の本質が理想的に発現される形式を記述した。…
…一般に,男女両性を兼ねそなえた存在のことをいい,ギリシア語ではアンドロギュノスandrogynos。これに関して最もよく知られる物語は,プラトンの《饗宴(シュンポシオン)》に登場するアリストファネスの演説であろう。昔,人間には男と女のほかに,両性の結合した〈男女(おめ)〉と呼ばれるものがあり,3者とも手足が4本ずつ,顔が二つ,隠し所が二つあった。…
…〈笑いとは何か〉の問題はヨーロッパにおいて,古代ギリシアの昔から論じられてきた。プラトンはすでに《フィレボス》の中で,笑いがたいていの場合,他人の犠牲のもとに生じるものであることを語り,笑いにおける〈悪意ある性格〉を指摘している。これは笑いの一面,それもとりわけ重要な一面を言い当てているだろう。…
※「プラトン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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