アメリカの小説家、詩人、批評家、ジャーナリスト。1月19日ボストンに生まれる。両親はともに旅役者で、母は1811年リッチモンドで病死。父はまもなく失踪(しっそう)。リッチモンドの商人ジョン・アラン夫妻に引き取られ養育される。そののち養父母とともにイギリスに渡り(1815~1820)初等教育を受ける。リッチモンドに戻ってから、1826年バージニア大学に入学。しかし賭博(とばく)に手を出し多額の借金をつくる。ために養父の怒りを買い、1年足らずで大学を退学させられ、リッチモンドに連れ戻されるが養父との不仲が高じ、1827年に家出してボストンに行き、その地で詩集『タマレーン、その他』を処女出版。その直後、合衆国陸軍に入隊、1829年除隊して詩集『アル・アーラーフ、タマレーン、ほか小詩数編』を発表。翌年ウェスト・ポイント陸軍士官学校に入学するが、ここも1年足らずで退学し、すぐニューヨークに出て『ポー詩集』(1831)を上梓(じょうし)。この詩集は高名な「ヘレンへ」「海底の都市」を含む。その後はボルティモアに赴き、父方の叔母クレム夫人のもとに身を寄せ、短編小説を書き始める。
1833年『壜(びん)のなかの手記』で『ボルティモア・サタデー・クーリア』誌の懸賞(50ドル)に当選。1835年リッチモンドの『サザン・リテラリ・メッセンジャー』誌の編集陣に加わり、辛辣(しんらつ)な批評で名をあげ、『ベレニス』などの短編を発表する。そして1836年クレム夫人の娘バージニアと結婚、3人はともに生活することになる。1837年『メッセンジャー』誌を辞めてニューヨークに出るが、思わしい仕事がなく、翌年フィラデルフィアに移り、バートン主宰の『ジェントルマンズ・マガジン』の編集者になる。ニューヨーク滞在中、唯一の長編小説『アーサー・ゴードン・ピムの物語』(1838)を書く。これは、密航、難破、反乱、飢餓、人食い、未知の島での黒人との遭遇、南氷洋での悪夢のような体験などを盛り込んだ、写実的かつ幻想的な海洋冒険小説。フィラデルフィアでは短編『アッシャー家の崩壊』(1839)、『ウィリアム・ウィルソン』(1839)を『ジェントルマンズ』誌上に発表する。また短編集『アラベスクとグロテスクの物語』(1839)を出版した。
1840年『ペン・マガジン』創刊を意図して『ジェントルマンズ』誌を去るが、計画は挫折(ざせつ)した。創作力は旺盛(おうせい)で、短編『群集の人』などを書き、1841年『グレアムズ・マガジン』の編集者になり、同誌に世界で最初の本格的推理小説『モルグ街の殺人』を発表。また『大渦に呑(の)まれて』など短編や評論を数多く書く。1842年『グレアムズ』誌を去る。1843年『黄金虫(こがねむし)』で『ドラー・ニュースペーパー』紙の賞金100ドルを獲得して名声を博す。そして『スタイラス』誌創刊を計画するが、これも失敗に終わった。短編『告げ口心臓』『黒猫』『ポー散文物語集第1巻』がこの年に出ている。
1844年ニューヨークに戻り、『イブニング・ミラー』紙の編集陣に加わり、『盗まれた手紙』など多数の短編を書き、『マージナリア』の連載を始める。1845年1月、同紙に、もっとも高名な詩『大鴉(おおがらす)』を発表し、好評を博す。また『ブロードウェー・ジャーナル』誌に移り、しばらくはその編集兼主宰者になるが、資金不足で廃刊に追いやられた。生前最後の詩集『大鴉その他』はこの年に出版された。
自分の雑誌をもつ積年の希望はかなえられず、結核を患う妻の病状は悪化、失意のポーは、1846年5月、ニューヨーク市郊外のフォーダムに粗末な家を入手し、ここで詩論『構成の原理』を書き、ゴシップ記事『ニューヨークの文人』を雑誌に連載して細々と暮らす。1847年1月、妻バージニア死去。ポーは絶望のうちにも優れた詩『ユラルーム』、散文詩『ユリイカ』を書き続け、短編『アーンハイムの地所』を発表した。1848年2月、ニューヨークで『ユリイカ』を少数の聴衆を前にして朗読、7月には単行本として出版。女流詩人セアラ・ヘレン・ホイットマン、実業家の妻アニー・リッチモンド、セアラ・アンナ・ルイスらとの間にプラトニックなロマンスがあり、ホイットマンとは「禁酒を条件」に婚約までするが、禁を破ったため破談となる。その間『詩の原理』を講演し、『韻律の原理』を雑誌に発表する。しかし自分の雑誌を発刊する夢は捨て切れず、1849年6月、金策のためリッチモンドに赴き、当地で、少年時代の恋人でいまは未亡人のセアラ・エルマイラ・ロイスターと再会して婚約する。9月末リッチモンドを去るが、10月3日、ボルティモアの投票所(当日は選挙投票日)付近で意識不明のまま倒れているところを発見され、病院に運ばれるが、10月7日早暁息を引き取った。享年40歳。この年の収穫は短編『メロンタ・タウタ』『ランダーの屋敷』、詩『アニーへ』『アナベル・リー』『鐘』など。
実生活者としてのポーは不断に金銭上の困難にみまわれ、誇り高い性格と飲酒癖のため失敗を重ね、詩作を理想としながら評論や小説に大半の労力を奪われた。死に先だつ10年間、生きる目標は主宰誌の発刊にあった。ポーの小説は、人間共通の恐怖や不条理の情念にみごとな形象を与え、詩は韻律が美しく、評論は技術批評に優れる。詩論は意識的詩作態度の必要を説き、その理念はフランス象徴主義に受け継がれて近代詩に大きな影響を与えた。
[八木敏雄]
ポーの内奥には論理的ポーと幻想的ポーの二重人格が同居している。70編に及ぶ短編小説は両者の共同作業で、それらの文学としての質は両者の濃淡の度合いによって多岐にわたる。推理小説を書くのは主として論理的ポーで、『モルグ街の殺人』(1841)、『マリー・ロジェの秘密』(1842)はともに論理的、科学的推理法を駆使している。『盗まれた手紙』(1844)は、わざわざ人目にさらし、人が気づきにくい盲点を利用して、だいじな手紙を隠匿する犯人のトリックを素人(しろうと)探偵デュパンが見破るストーリーだが、ここでは想像力が大きな役割を果たす。
その他の短編はほとんど恐怖小説で、これも多種多様。『ベレニス』(1835)、『モレラ』(1835)、『リジイア』(1838)などは美女の死と再生をテーマとする幻想的物語。ペストの流行を恐れて城内に閉じこもる王子が仮装舞踏会を催すと、死の装束をした人物が現れ、実はそれがペストで、城内のすべての者が死んでゆく『赤死病の仮面』(1842)も怪奇と幻想の世界である。『大渦に呑まれて』は、恐怖と、それを克服する沈着な理性の働きを組み合わせた物語で、『振子(ふりこ)と陥穽(かんせい)』(1842)にも通じる趣向。
恐怖の対象が自我の分裂、つまり、してはならないからこそ、するといった『天邪鬼(あまのじゃく)』(1845)などの一群の短編もある。『ウィリアム・ウィルソン』(1839)は、もう一人のウィリアム・ウィルソンに追われ、最後はともに対決して果てる。『告げ口心臓』(1843)は、目が気に入らないというだけの理由で老人を殺し、その死体を自室の床下に隠し、そこにわざわざ警官を呼び込んで罪を発覚させてしまう青年の話。
[八木敏雄]
『阿部知二他訳『ポオ全集』全3巻(1970・東京創元社)』▽『八木敏雄著『エドガー・アラン・ポオ研究――破壊と創造』(1968・南雲堂)』▽『小山田義文著『ポーの世界――詩から宇宙へ』(1969・思潮社)』▽『野村章恒著『E・アラン・ポオ』(1969・金剛出版)』▽『ジュリアン・シモンズ著、八木敏雄訳『告げ口心臓――E・A・ポオの生涯と作品』(1981・東京創元社)』
フランス南西部、ピレネーザトランティク県の県都。15世紀以来ベアルン地方の中心都市。人口7万8732(1999)。ガーブ・ド・ポー川の右岸、ピレネー山脈北麓(ほくろく)の標高210メートルに位置する。同山脈の眺望に優れ、鉱泉があり、夏は避暑地、冬はウィンタースポーツの中心地として、有数の観光・保養都市となっている。ワイン、食料品の取引や、織物、靴の生産も行われる。第二次世界大戦後は北西郊ラックの天然ガスと結び付いて金属工業などが発達する。ブルボン王朝の始祖アンリ4世の生誕地で、その宮殿が残り、博物館となっている。
[青木伸好]
アメリカの詩人,小説家,批評家,ジャーナリスト。幼くして孤児になり,リッチモンド市の商人ジョン・アランに引き取られ,イギリスで初等教育を受けたのち,1826年バージニア大学に入学するが,1年たらずで退学。27年にボストンに出奔,その地で処女詩集《タマレーン,その他》を出し,陸軍に入り,士官学校にまで進むが,これも31年に中途退学。その直後,長詩《アル・アーラーフ》を含む第2詩集をニューヨークで出版し,ボルティモアに移り住み,そこで短編小説を書き始める。33年,《瓶の中から出た手記》が懸賞に当選し,作家としての,また雑誌編集者としての道が開けた。
その後ポーはリッチモンド,ニューヨーク,フィラデルフィアの各地で雑誌の編集にたずさわり,数多くの評論や書評を書くかたわら,唯一の長編小説《アーサー・ゴードン・ピムの物語》(1838)や短編集《グロテスクとアラベスクの物語》(1840)を出版し,《ライジーア》(1838),《アッシャー家の崩壊》(1839),《大渦にのまれて》(1841)などの幻想味豊かな名作,探偵デュパンが登場する《モルグ街の殺人》(1841),《マリー・ロジェのなぞ》(1842),《盗まれた手紙》(1844)などの一連の推理小説,《ハンス・ファールの無類の冒険》(1835),《メロンタ・タウタ》(1849)などの空想科学小説を70編近く発表した。ポーは人間の心にひそむ内的恐怖や無意識にみごとな形態を与えた怪奇小説や幻想小説の書き手,明敏でときには辛辣な批評家,それに今日隆盛をきわめる推理小説やSFの元祖であった。しかしポーは自分の本領が詩にあると考えていた。だから晩年にはまた詩作に励み,45年には音楽的に美しい《鴉》を公にして名声を博し,つづけて《アナベル・リー》や《鐘》などを発表した。また48年には形而上学的な宇宙論《ユリーカ》を〈散文詩〉と銘打って公表した。ポーには〈幻想的ポー〉と〈論理的ポー〉が同居していた。その〈論理的ポー〉は《詩作の哲学》(1846),《韻律の原理》(1848)などの詩論をも書いた。前者は《鴉》の創作過程を事例に,詩作にあたっての意識的な態度の重要性を強調するもので,やがてその主張の斬新さはボードレールによって〈発見〉され,フランスの象徴派に大きな影響を及ぼすことになった。
ところがアメリカにおけるポー評価は20世紀の半ばごろまではきわめて低かった。その理由の一斑は,ポーがアメリカ的というよりはヨーロッパ的作家であったことに求められよう。だがポーが全世界に読者をもつのは,その〈普遍性〉のゆえであり,日本の場合も例外ではない。ポーの影響は谷崎潤一郎,佐藤春夫,芥川竜之介,中河与一,江戸川乱歩,坂口安吾,大岡昇平(《野火》と《ピムの物語》)などの作家にも認められる。江戸川乱歩のように,そのペンネームまでポーから借用した作家は日本以外にはいまい。
執筆者:八木 敏雄
フランス南西部,ピレネー山麓の都市。ピレネー・ザトランティク県の県都。人口8万0610(1999)。15世紀以来ベアルン地方の主都で,ブルボン朝初代の王アンリ4世誕生の城が残る。近代には州都あるいは県都として行政都市にとどまったが,19世紀中頃からイギリス人貴族が避寒地として訪れるようになり,観光地としての発展が始まった。今日では,ピレネー観光の通過客を迎えるほか,1960年代より,行政・文教都市(大学の新設),商業の中心地として著しい発展をみ,また,近隣ラックの天然ガス田の開発にともない,周辺地域に工業の進出も盛んである。
執筆者:井上 尭裕
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1809~49
アメリカの詩人,小説家,批評家。優れた短編小説と抒情詩を数多く発表したが,貧困に悩まされ不健康な生活を送り早死にした。フランス象徴派詩人に影響を与えた。また推理小説,ホラー小説の元祖ともいわれる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…ガロンヌ川との分水界をなすアルマニャック丘陵はコニャックと並ぶブランデー(アルマニャック)の主産地。支流のオロロン川(ガーブ・ドロロン)との間はベアルン地方と呼ばれ,最大の支流ポー川(ガーブ・ド・ポー)に深く刻まれた丘陵地が広がる。ポー川沿いの中心都市ポーはフォアグラの特産で知られ,周辺では牧畜,トウモロコシ栽培が盛ん。…
…C.B.ブラウンは古城などを舞台にしたヨーロッパのゴシック・ロマンスの伝統を踏襲しながら,古城の代りに西部の荒野やインディアンといったアメリカ固有の背景を導入した。W.アービングは《ニッカボッカーのニューヨーク史》(1809)で,歴史をフィクションに移し,《旅人の物語》(1824)では,深刻さを欠き,短編が多くなる末期型のゴシック・ロマンスを発展させ,ホーソーンやポーを先取りした。アメリカのスコットと呼ばれたJ.F.クーパーは五部作《レザーストッキング物語》(1823‐41)において,高貴な開拓者ナティ・バンポーを文明と荒野の接点に置き,アメリカのフロンティアに大ロマンスを展開させた。…
…19世紀フランスを代表するリアリズムの大作家バルザックにも《セラフィータ》《サラジーヌ》のような幻想的作品があり,モーパッサンにも怪談《オルラ》がある。これらに先立ち,いわゆるプレ・ロマンティスムの揺籃期にイギリスで生まれて,バルザックらにも強い影響を与えたのがいわゆるゴシック・ロマンスの幻想小説群であって,ウォルポールの《オトラント城奇譚》を出発点とし,ラドクリフの《ユードルフォの怪》,M.G.ルイスの《モンク(修道士)》といった衝撃的な怪奇小説,暗黒小説は,近代の合理主義の前夜に非合理的なるものを荒々しく表現しながら,ロマン的想像力の最もラディカルな発現としての毒を内蔵するものでもあった。サドの一連の高度な哲学的作品も一方ではこれら暗黒小説の系譜に連なるものでもある。…
…つまり象徴主義は国際性を帯びた文学現象ということになるが,それはフランスで胎動し始めた当初から,国際的な質を帯びていたせいであるとも考えられる。ボードレールはスウェーデンボリの神秘思想に親しんでいたし,彼の詩についての考え方が形成される上で,ポーの影響が絶大であったことは疑う余地がない。人間の魂の神秘に洞察の眼を向け,想像力の世界に詩的形象の魅惑を繰りひろげながらその神秘を表現したポーの詩,あるいはまた細部まで明晰な知的思考と鋭い批評意識で組織された詩論は,ボードレール以後も,マラルメをはじめ多くの詩人たちにとって,大きな道標となった。…
…K.マンスフィールドは《園遊会》(1922)で印象派風の心理の点描法を試み,ジョイスは《ユリシーズ》(1922)で〈意識の流れ〉や〈内的独白〉の手法を創始した。ポーの諸短編が素描した〈あまのじゃく〉の心理は,ロシアのドストエフスキーによって無意識の深淵にまで追求され,心理分析小説の前提である古典力学的決定論を完全に無効にした。こうした傾向を集約した人間学の新しい理論として登場したのが,フロイトの精神分析学であるが,それと呼応するかのように,プルーストは畢生の大作《失われた時を求めて》(1913‐27)で,〈私〉の独白に始まる自伝的回想が,そのまま写実的な一時代の風俗の壁画でもある空間を創造して,心理小説に終止符を打った。…
…社会実態的には,河川,溜池,クリーク,渓流等の公共の用に供されている流水を継続的・排他的に使用する権利を指すが,河川法の規定では,同法23条により許可された流水占有の権利(許可水利権)のことをいう。河川法上の水利権としては,許可水利権のほかに慣行水利権がある。慣行水利権は,江戸時代に成立した水利慣行に根拠を置いている。日本の水田農業の水利慣行の多くは,江戸時代に入って大河川下流部の平野に大規模な灌漑施設が造成されていく過程で,限られた水資源を同一水系内で利用する方法(水利秩序)として,まずつくられた。…
… 散文が科学を志向するように,近代詩は音楽をモデルとし,あたうかぎり純粋な芸術たろうとする。〈詩であって,それ以上のなにものでもないところの詩〉を求めたポーが,その始祖といえる。それは〈因果関係は,まったく表現されず,かえって諸要素の連続によって打ち消される〉(フロイト)というような,無秩序で自足的な閉じられた世界をつくり出す。…
※「ポー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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