マクドナルド(英語表記)John Alexander Macdonald

デジタル大辞泉 「マクドナルド」の意味・読み・例文・類語

マクドナルド(James Ramsay MacDonald)

[1866~1937]英国の政治家。1924年、最初の労働党内閣を組閣。1929年再度首相となったが世界恐慌に直面し、財政政策に党の支持を得られず辞職。1931年、保守党自由党と連立で挙国一致内閣をつくったため、党から除名された。

マクドナルド(Ross Macdonald)

[1915~1983]米国の推理小説家。本名はケネス=ミラー(Kenneth Millar)。ハメットチャンドラーハードボイルドを継承する簡潔で力強い文体で、社会の闇や人間の心理を巧みに描いた。私立探偵リュー=アーチャーを主人公とする一連の作品や「青いジャングル」などで知られる。妻のマーガレット=ミラー(Margaret Millar)も推理小説家。

マクドナルド(Claude Maxwell Macdonald)

[1852~1915]英国の外交官。1896年駐清(中国)公使となり、義和団事件で活躍、日本の出兵を勧めた。のち駐日大使。

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精選版 日本国語大辞典 「マクドナルド」の意味・読み・例文・類語

マクドナルド

  1. [ 一 ] ( Sir Claude Maxwell MacDonald サー=クロード=マクスウェル━ ) イギリスの軍人、外交官。一八九六年北京駐在イギリス公使となり一九〇〇年義和団事件の列国義勇軍総司令官となる。また、最初の駐日大使として日英同盟の締結に尽力した。(一八五二‐一九一五
  2. [ 二 ] ( James Ramsay MacDonald ジェームズ=ラムジー━ ) イギリスの政治家。一九一一年労働党党首。二四年、二九~三一年労働党内閣を組織。三一年挙国一致内閣の首班となるが、労働党主流派とは分かれ、三五年首相を辞任。(一八六六‐一九三七

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改訂新版 世界大百科事典 「マクドナルド」の意味・わかりやすい解説

マクドナルド
John Alexander Macdonald
生没年:1815-91

カナダの政治家。〈建国の父祖〉の一人で首相(在職1867-73,1878-91)を務める。保守党に所属。スコットランドに生まれ,5歳のとき両親とともにアッパー・カナダへ移住,キングストンで青少年時代を過ごした。弁護士の資格を得たのち1844年連合カナダ植民地立法議会に選出されて政界へ入り,47年から48年にかけて歳入徴収長官として入閣した。50年代,連合カナダ植民地政界は混沌を極めたが,彼はフランス系カナダの指導者G.E.カルティエという盟友を得て,イギリス領北アメリカ植民地の統合=コンフェデレーションの構想を具体化した。植民地政界の保守穏健派であった彼と急進派のG.ブラウンの提携なくしてはコンフェデレーションの実現はありえなかったが,64年の〈大連立〉内閣組閣後はもっぱらマクドナルドの主導権の下に67年カナダ自治領の成立をみて,彼は初代の首相に選出された。

 73年から78年まで鉄道建設にまつわる汚職容疑で下野したが,その期間を除き死去するまで,新国家カナダ建設に挺身した。1869年ハドソン湾会社の領有地を譲り受けてマニトバ州を創設,71年には西端のブリティッシュ・コロンビア州が,73年には東端プリンス・エドワード・アイランド州がカナダ連邦に加入。カナダは建国のモットーどおり〈海から海へ〉またがる国家の版図を実現した。その内容を充実させるため,79年,〈ナショナル・ポリシー〉として保護関税を採用,自由党の批判を浴びたが自由党ものちには自党の政策として採用した。85年には紆余曲折を経て大陸横断鉄道を完成に導き,マクドナルド夫妻は開通したばかりの鉄道の旅客としてカナダの西端へ赴いた。そのほかワシントン条約締結,北西部騎馬警察の設置,イギリスへの高等弁務官(大使)派遣など,彼の指導下にカナダの対外政策,国内開発の諸原則が決定されたといって過言ではない。その反面,2度にわたるL.リエルの反乱や87年のケベック州際会議として具体化した諸州の離反傾向など,急速な国家建設に伴う矛盾の露呈も少なくなかった。91年3月の総選挙はアメリカ合衆国との互恵通商実現を掲げる自由党と〈ナショナルポリシー〉維持を訴える保守党が争ったが,76歳の高齢で保守党を率いて戦ったマクドナルドは,勝利の3ヵ月後に死去した。有名な飲酒癖にもかかわらず非常な人望を得た政治家であったという。
執筆者:


マクドナルド
James Ramsay MacDonald
生没年:1866-1937

イギリス最初の労働党政府首相。スコットランドのハイランドの農場の召使アン・ラムゼーと作男ジョン・マクドナルドとの間に生まれた。両親は結婚せず,母親に育てられ,教区学校に学ぶ。職を求めてブリストルに移り,社会民主連合支部に参加。ロンドンで自由党議員秘書,〈新生活フェローシップ〉書記長を務め,独立労働党執行部に加わる。1900年,労働代表委員会書記長となり,ひそかに自由党と選挙協定を締結し,06年の労働党躍進の基礎を固めた。《社会主義と社会》(1905)の中で社会主義はリベラリズムの世襲の後継者だと述べ,社会進化論を労働党政治に適用した。第1次世界大戦勃発に際し労働党委員長の職を辞し,〈民主管理同盟〉の反戦運動に協力した。22年議会に復帰,党首に選ばれ,24年労働党内閣を組織し,外相を兼任,ソ連邦を正式に承認したが,保守勢力の反ソ・キャンペーンに屈した。29年再び内閣を組織し,ロンドン海軍軍縮条約の成立に貢献したが,31年の金融危機に際し,ポンドの信用回復のため失業手当など政府支出削減に同意し,総辞職する。労働党の同僚の多くを捨て,挙国内閣首相となるが,保護貿易政策の勝利と国際情勢険悪化のなかで35年辞任し,同年の総選挙で労働党候補に敗れて議席を失い,失意の晩年を過ごす。彼の〈裏切り〉は,リベラリズムを継承した進化論的労働党政策と衰退するイギリス経済との矛盾を明らかにした。
執筆者:


マクドナルド
Ranald MacDonald
生没年:1824-94

ペリー来航の5年前,1848年(嘉永1)にアメリカ捕鯨船から単身で鎖国下の日本に上陸した冒険家。父はスコットランド出身のハドソン湾会社主任交易人,母はチヌーク族長コムコムリの娘。北海道利尻島に上陸し,捕らえられて宗谷勤番所,松前を経て長崎に護送され西山郷大悲庵の座敷牢に監禁された。翌49年4月アメリカ軍艦プレブル号に引き取られるまでの6ヵ月間,森山多吉郎(栄之助)ら14名の通詞に英語を教え〈日本最初の英語教師〉といわれる。晩年《日本回想記》(1923)を執筆した。
執筆者:


マクドナルド
George MacDonald
生没年:1824-1905

イギリス,スコットランドの詩人,小説家。宗教的・超俗的傾向の詩を特徴とする。処女作《内と外》(1855),宗教詩《老人日記》(1880)があるが,なかでも信仰の悩みをうたう《深淵より》や《この幼き世界》の短詩で名高い。また一連の思想小説《デービッド・エルギンブロッド》(1863),《マルコム》(1875)で,スコットランドの生活を描くとともに反カルバン的神学問題を扱っている。ほかに《北風の背に乗って》(1871)や《王女と鬼》(1872)などのメルヘンもある。
執筆者:

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知恵蔵 「マクドナルド」の解説

マクドナルド

米McDonald's社のフランチャイズにより、日本国内でハンバーガーショップ「マクドナルド」を運営する企業及び、その傘下のハンバーガーショップの名称。「マック」や「マクド」の愛称で、若者や子どもたちを中心に客層を広げてきた。日本のハンバーガー市場で圧倒的なシェアを占めるとともに、ファストフード業界においても代表的存在となっている。
日本マクドナルドは、輸入雑貨商の藤田田(でん)社長らによって1971年に創業。東京銀座の1号店開店当初から、巧みな経営手腕で事業を拡大し、全国に3265店舗(2013年6月末現在)を数えるに至っている。2000年代初頭には、積極的な安売り戦略で売り上げを伸ばし、デフレ時代の勝ち組と称賛されジャスダック市場に株式を上場した。その後の景気低迷で更なる安売りを推し進めたが、奏功せず創業以来初の赤字に転落。03年には藤田氏が会長を退任し、米McDonald's社の配下で事業立て直しが進められた。以降、牛海綿状脳症(BSE)の影響や残業代不払い「名ばかり店長」などの過酷な労働環境などから顧客の信頼を失い、メニューの見直しや高額商品の投入などで一進一退を繰り返した。価格戦略の迷走もあって、現在は業績が低迷している。13年8月にはカナダ出身の女性サラ・カサノバ氏が新社長に就任し、商品価格を商圏別にきめ細かく設定することなどで売り上げ拡大を目指している。

(金谷俊秀  ライター / 2013年)

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百科事典マイペディア 「マクドナルド」の意味・わかりやすい解説

マクドナルド

英国の政治家。1900年労働代表委員会書記となり,労働党の基盤形成に尽力。1906年下院議員となり労働代表委員会が改称した労働党の党首となり,第1次大戦には終始反対して党首を辞任。1918年の選挙で復帰して党首に再任。1924年自由党の支持を得て最初の労働党内閣の首相となり,内外の戦後処理に当たったが,選挙に敗れ9ヵ月で下野した。1929年労働党単独内閣で再度首相。外交面では国際協調政策をとりロンドン会議で海軍軍縮条約を成立させた。しかし内政面では経済恐慌対策に失敗,挙国一致内閣をもって危機を乗り切ったが党主流と分離し,1935年辞職した。
→関連項目挙国一致内閣スノードン独立労働党

マクドナルド[会社]【マクドナルド】

世界最大のファーストフードチェーン。1965年設立。米国イリノイ州を本拠に,世界120ヵ国,3万1000店以上の店舗(直営店,フランチャイズ店,関連会社の合計)を展開するグローバル企業。同社は,アメリカン・ライフスタイルのシンボルとして,しばしば取り上げられる。2011年12月期売上高270億600万ドル。日本法人・日本マクドナルド(現日本マクドナルドホールディングス)は,1971年米マクドナルド社と藤田田(ふじたでん)の折半出資で設立。同1971年,1号店を東京・銀座に開店。徹底した廉価商法で同業他社を圧倒。海外子会社の中で最大規模を有する。本社東京。店舗数3298(2011年)。2011年資本金241億円,2011年12月期売上高3023億円。
→関連項目外食産業

マクドナルド

米国の推理小説作家。《人の死に行く道》《縞模様の霊柩車》など,私立探偵ルー・アーチャー物で有名。社会病理学的洞察の鋭い正統派ハードボイルドの書き手。夫人のマーガレット・ミラーもスリラー作家。

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朝日日本歴史人物事典 「マクドナルド」の解説

マクドナルド

没年:1915.9.10(1915.9.10)
生年:1852.6.12
イギリスの軍人,外交官。初代駐日大使。スコットランドの陸軍軍人の家に生まれ,陸軍士官学校に学ぶ。1872年高地連隊入隊。1882年少佐へ昇進しエジプト出兵に従軍。以来カイロ駐在総領事兼エジプト政府顧問付陸軍武官(1883~87),ザンジバル駐在官兼総領事(1887~88),オイルリヴァズ保護領長官兼総領事(1891~95)を歴任し,その間スーダン遠征や西アフリカ分割交渉に参加。1896年陸軍を退役して駐清特命全権公使となり,日清戦争後の中国における列強の利権獲得闘争,勢力圏設定に手腕を振るい,九竜,威海衛租借など幾多の成果を収める。1900年義和団の北京各国公使館包囲に対し選ばれて防衛の指揮を取り,連合軍による救援まで持ち堪える。同年10月駐日特命全権公使に転じ,翌年本省と協議のため一時帰国,日英同盟交渉への地ならしをする。日露戦争後の明治38(1905)年12月在日イギリス公使館の大使館昇格に伴い初代駐日特命全権大使。第3回同盟協約調印(1911)の翌年退官するまで11年余にわたり日英の協調関係を支えた。

(廣瀬靖子)


マクドナルド

没年:1894.8.5(1894.8.5)
生年:1824.2.3
幕末来日のアメリカ人水夫,日本人オランダ通詞の英語教師。オレゴン州フォート・ジョージ(アストリア)生まれ。父はスコットランド生まれのアーチボルド・マクドナルド,母は先住アメリカ人チヌク族の女性。母の死後ドイツ系スイス人である父の後妻に養育された。アメリカの捕鯨船に乗り組み,嘉永1(1848)年,満24歳のとき,難船を装って当時鎖国中の日本の利尻島に上陸した。囚われの身のまま長崎に7カ月滞在後,アメリカ船に引き渡されたが,その間14名のオランダ通詞たちにはじめて生きた英語を教えた。嘉永6年ペリー来航時に通訳を勤めた森山多吉郎はそのひとり。晩年は米国北西部に住み,ワシントン州トロドで没した。<参考文献>E.E.ダイ『英学の祖―オレゴンのマクドナルドの生涯』

(加納孝代)


マクドナルド

没年:1905.1.3(1905.1.3)
生年:1836
明治期に来日した宣教医。カナダ・オンタリオ州生まれ。1864年ウェスレアン・メソジスト教会で按手礼を受ける。カナダで伝道・牧会の傍らトロント大学で医学を学ぶ。明治6(1873)年宣教医師としてG.コクランと共に来日。翌年静岡の賤機舎に教師として赴任。静岡バンドの基礎を築く。同9年県立静岡病院の医師に招かれる。同11年に一時帰国するまでに129人に洗礼を授けた。同12年再来日し東京・築地明石町に住み,築地教会(銀座教会)担当の傍ら診療所を開設。伝道と医療に大きな足跡を残した。同32年引退後も日本にとどまって医療に従事した。同37年帰国。<参考文献>太田愛人『明治キリスト教の流域』

(篠崎恭久)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「マクドナルド」の解説

マクドナルド
James Ramsay MacDonald

1866〜1937
イギリスの政治家
スコットランドの農業労働者の子。1906年労働党の下院議員,11年労働党党首となったが,第一次世界大戦の参戦に反対して辞任した。1922年再び党首となり,24年最初の労働党内閣を組織し,29年第2次労働党内閣を組織したが,恐慌対策で党の方針に反して脱党し,1931〜35年は労働党を除く挙国一致内閣の首相をつとめた。挙国一致内閣は,1931年に金本位制を停止し,通貨管理制をとるなど,財政の改善をはかり,同年ウェストミンスター憲章を制定してイギリス連邦を発足させた。また,国内産業保護のために,非常関税法(1931),保護関税法(1932)を制定して自由貿易から保護貿易に転換した。この間,ソ連の承認,フランス軍のルール撤退,ロンドン海軍軍縮条約の締結,1932年オタワ連邦会議の開催などを進めた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「マクドナルド」の解説

マクドナルド Macdonald, A.Caroline

1874-1931 カナダの教育家。
1874年10月15日生まれ。明治37年(1904)YWCA(キリスト教女子青年会)ロンドン本部から派遣され来日。38年日本YWCAを創設して初代総幹事となる。女子英学塾(現津田塾大)教授をつとめた。大正4年総幹事をやめ,免囚保護事業に専念,のち社会福祉施設の親隣館を創立。病気で帰国し,1931年7月18日死去。56歳。オンタリオ州出身。トロント大卒。

マクドナルド MacDonald, Ranald

1824-1894 アメリカの冒険家,英語教師。
1824年2月3日生まれ。嘉永(かえい)元年(1848)遭難をよそおい蝦夷地の利尻(りしり)島に上陸したが,捕らえられて長崎におくられる。アメリカ軍艦にひきわたされるまでの約半年間,森山多吉郎らオランダ通詞に英語をおしえた(日本最初の英語教師)。1894年8月5日死去。70歳。オレゴン州出身。著作に「日本回想記」。

マクドナルド Macdonald, Davidson

1836-1905 カナダの宣教師,医師。
トロント大で医学をまなび,カナダ-メソジスト派教会から派遣され,明治6年(1873)来日。7年静岡県の私塾賤機(しずはた)舎の英語教師,9年静岡病院顧問となる。一時帰国ののち,東京築地(つきじ)で医療と伝道にあたった。37年帰国。1905年1月3日死去。69歳。オンタリオ州出身。

マクドナルド Macdonald, Sir Claude Maxwell

1852-1915 イギリスの外交官。
1852年6月12日生まれ。軍人から外交官に転じ,1896年駐清(しん)公使となる。明治33年(1900)駐日イギリス公使として来日。38年公使館の大使館への昇格にともない初代駐日イギリス大使となる。大正元年引退して帰国。1915年9月10日死去。63歳。

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デジタル大辞泉プラス 「マクドナルド」の解説

マクドナルド

日本マクドナルド株式会社が展開するハンバーガーショップのチェーン。アメリカ発祥。1971年、日本の1号店が東京・銀座にオープン。

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367日誕生日大事典 「マクドナルド」の解説

マクドナルド

生年月日:1824年2月3日
インディアンの血をひいたアメリカの探検家
1894年没

マクドナルド

生年月日:1852年6月12日
イギリスの外交官
1915年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のマクドナルドの言及

【児童文学】より

…少年小説もまたT.ヒューズの《トム・ブラウンの学校生活》(1857),R.バランタインの《サンゴ島》(1857),ウィーダOuidaの《フランダースの犬》(1872),シューエルA.Sewellの《黒馬物語》(1877)のあとをうけて,R.L.スティーブンソンの《宝島》(1883)で完成した。架空世界を取り扱った物語は,J.インジェローの《妖精モプサ》(1869),G.マクドナルドの《北風のうしろの国》(1871),R.キップリングの《ジャングル・ブック》(1894),E.ネズビットの《砂の妖精》(1902),K.グレアムの《たのしい川べ》(1908),J.M.バリーの《ピーター・パンとウェンディ(ピーター・パン)》(1911),W.デ・ラ・メアの《3びきのサル王子たち》(1910)にうけつがれ,ファージョンE.Farjeon《リンゴ畑のマーティン・ピピン》(1921)は空想と現実の美しい織物を織り上げた。さらにA.A.ミルンの《クマのプーさん》(1926)が新領域をひらき,J.R.R.トールキンの《ホビットの冒険》(1937),《指輪物語》(1954‐55)は妖精物語を大成する。…

【労働党】より

…これは,自由主義から社会主義へ組合を改宗させるため独立労働党を中心に推進された運動の直接の成果だが,他方,不熟練労働者の〈新組合運動〉に挑戦する雇主側の攻勢および法的制裁に対し組合のとった自衛措置でもあり,階級闘争の産物だった。書記長J.R.マクドナルドと自由党指導部との間で締結された秘密選挙協定が効を奏し,06年の総選挙では,自由貿易圧勝の波にのり29人の議員を当選させ,〈労働党〉と改称した。しばらくは〈リベラリズムの侍女〉の地位に甘んじ,自由党の社会改良政策に追従した。…

※「マクドナルド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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