基本情報
正式名称=マルタ共和国Republic of Malta
面積=316km2
人口(2010)=42万人
首都=バレッタValletta(日本との時差=-8時間)
主要言語=英語,マルタ語
通貨=マルタ・リラMaltese Lira(2008年1月よりユーロEuro)
地中海中央部,シチリア島とアフリカ大陸のチュニジア東岸との間に位置する共和国で,イギリス連邦に属している。マルタ本島,ゴゾ島,コミノ島の3有人島と,これらに付属するいくつかの無人の小島とからなる。首都のバレッタ(人口7100。2004)はマルタ本島南東部にある。
全島が丘陵状の地形で,最高点でもマルタ島の標高253mにすぎない。南地中海の半乾燥的な気候のもとにあって,年間を通じて水の流れる河川はない。マルタ島およびゴゾ島ともに,南西部の海岸線は絶壁状をなしていて北東方向にゆるやかに高度を下げていく。地質的にみると,上から下に上層サンゴ質石灰岩,砂岩,青色粘土層,グロビゲリナ石灰岩,最後に下層サンゴ質石灰岩,というように二つの硬質の岩層の間に軟質の岩層が挟まれていて,全体として地層が傾斜しているので,ケスタ状の地形が発達している。サンゴ質石灰岩は独特の色をしたマルタの建築物に広く用いられている。青色粘土層が地表に露出している所は,肥沃な農業地帯になっている。砂岩および青色粘土層はまた帯水層としても重要であるが,平均年降水量は500mmにすぎず,水資源の不足はマルタ島の経済にとって深刻な問題になっている。建築用石材以外には鉱産物資源はない。
マルタ諸島の住民は南イタリアなどと共通する地中海系の原住民の血に,ノルマン,アラブ,スペインなどの征服者の血が混じったものであるが,ベルベル系の要素は南スペインや南イタリアよりもずっと少ない。
1934年まではマルタ語とイタリア語が公用語として認められていたが,同年にイタリア語は宗主国の国語英語に取って代わられた。現在でもマルタ語と英語が公用語になっているが,住民の大部分はマルタ語を母語にしている。マルタ語はアラビア語に最も近い言語であるが,ラテン系の語彙が多数入り,独特の言語になっている。住民のほとんどは熱心なカトリック教徒で,農村部では集村状の集落がそれぞれ一教区をなし,地縁社会としての結びつきは非常に強い。
地中海固有のカフェ文化とイギリスが持ち込んだパブ制度とが結びついたような形で,どの村にも何軒かの居酒屋があり,それを基礎にしてバンドと呼ばれる結社がつくられている場合が多い。
マルタ本島に関しては,首都バレッタにどこからでもバスや自家用車で一時間以内で到着できるので,かつては夕暮れどきに村の広場に集まっていた人たちが,現在ではバレッタに集まるようになった観があり,夕暮れどきのバレッタの目抜通りはたいへんにぎわい,他方,地中海的広場文化は村レベルではあまりみられなくなっている。
独立後マルタの土着文化,歴史に関する研究が盛んになり,地中海文明のいわば交差点として自分たちが地中海文明を具現しているのだという自負がマルタの文化人には強い。1769年に創設されたマルタ大学は制度的にはイギリス風のシステムをとっていてマルタ文化研究の中心になっている。
執筆者:竹内 啓一
マルタ島の東部にタルシエン遺跡がある。島内に産する石灰岩を用いた巨石記念物で,前庭,羨道,持送天井をもつ祭場とからなる。祭場は,卵形の平面をした部屋がいくつも連なったもので,下の壁に渦文が浮彫されている。渦文がミケーネの石の穹窿墓(トロス)にもあるので,前1400年ころの遺跡と考えられていた。最近では,新石器時代の石組みの墓が発展して,前2800~前2400年にこうした神殿となったと考えられている。
執筆者:中村 友博
歴史時代に関しては最初フェニキア人によって,のちカルタゴの住民によって植民され(前6世紀),その後シチリアのギリシア人の影響を受けた。前218年に,ローマ人によって征服された。後58年ころ,現在セント・ポール湾と呼ばれている湾岸にローマに赴く途中のパウロが漂着してここに3ヵ月滞在したといわれている。
4世紀以降はビザンティン,バンダル,ゴートなどの侵入を受け,870年にはアラブの支配下に入った。アラブの支配は1091年ノルマンのルッジェーロ王がこの島を征服するときまで続いた。しかし,アラブがマルタから追放されたのは,13世紀フェデリコ(フリードリヒ)2世のときであり,アラブの影響は現在に至るまでマルタの文化に色濃く残っている。12世紀末以降のマルタは,政治的にはシチリアと運命をともにしていたが,1530年スペイン王カルロス1世(カール5世)はこの岩だらけの不毛な島を1522年にロードス島から追い払われたヨハネ騎士団(これ以降マルタ騎士団とも呼ばれるようになった)に与えた。以後マルタ島は騎士団の軍事力によって,キリスト教世界のイスラム(オスマン・トルコ)勢力に対する砦となり,65年の攻防をはじめとして何回かのオスマン帝国海軍の攻撃を撃退した。ヨーロッパ各地に散在する騎士団員の所領からの収入と寄進は,在外財務官の手でマルタに送られた。騎士団は本来施療活動に重点をおいていたが,ロードス,マルタと移動する間に著しく軍事的色彩を強め,イスラム船に対する広範囲な攻撃や拿捕(海賊活動)を展開し,戦利品はマルタで売却された。65年の攻囲の後に建設された首都バレッタにおける騎士団員の豪華な生活は有名であった。彼らは出身地の言語別にそれぞれの館に住んでいた。現在でもバレッタ市内にはアラゴン館,イタリア館,フランス館,プロバンス館などの建物が残り,政府博物館などの公共機関がそれらを利用している。
近代になるとキリスト教世界の砦としての意味が薄れ,また騎士団内部の結束も弱まってきて,1798年6月エジプトへの遠征途上のナポレオン軍によってマルタは簡単に征服されてしまった。地中海の制海権を掌握するうえでのマルタの新しい政治的・軍事的重要性に注目したのはイギリスで,1800年11月ネルソンの率いる海軍はマルタ島を攻撃し,マルタ人およびフランス軍の抵抗を排して1801年9月にはマルタ諸島を完全に占領し,ここにイギリスの支配が開始された。グランド・ハーバーを中心とする地帯はイギリス地中海軍の重要な基地になった。第2次大戦中もドイツ軍,イタリア軍の海および空からの攻撃に対して持ちこたえ,1942年8月には食料,燃料を満載したアメリカの船オハイオが,ドイツ・イタリア軍の海上封鎖網を突破して奇跡的にマルタに到着し,降伏寸前のイギリス軍をよみがえらせた。
すでに第2次大戦中イギリス政府はマルタの自治を約束していたが,47年自治政府ができ,労働党とナショナリスト党との二大政党による政権の交代が続いた。この二大政党ともにマルタの完全独立を主張し,64年9月21日,マルタ共和国が誕生した。独立したとはいえ,マルタはNATO海軍の重要な基地として残り,マルタ経済は依然として軍事基地関連の収入に大きく依存していた。71年の総選挙でミントフDom Mintoffの率いる労働党が僅少差で勝利をおさめ,以後労働党政府は,ソ連,中国,リビアに接近しながらNATOおよびイギリスと巧みな交渉を進めて基地使用料の値上げを勝ち取る一方,工業(修理ドックおよび軽工業)および観光業の発達を図りながら,軍事基地依存経済からの脱却を目ざし,79年にはNATO基地を完全に撤去した。87年5月の総選挙で16年間にわたり政権を担当してきた労働党が敗退,ナショナリスト党が政権を握った。労働党はソ連・東欧諸国やリビアなど第三世界の国々と関係強化を図ってきたが,ナショナリスト党は非同盟路線を引き続き堅持する一方,ヨーロッパ共同体(EC)との関係を強めた。しかしEU加盟には,まだ多くの障害がある。
19世紀後半以降のマルタ諸島の人口の推移をみると,30万弱の人口がほとんど変わらないまま推移してきている。すなわち,人口の自然増加に相当する部分が絶えず移民として海外に流出してきたことを意味する(1970年代以降,流失人口は急減した)。事実,合衆国,カナダ,オーストラリアなどでマルタ人は重要なコロニーを形成しており,海外移民からの送金や彼らが持ち帰る資産およびマルタに帰国した旧移民が各国から受け取る年金はマルタ経済にとり重要な外貨収入源になっている。
1964年には年間を通じて3万8000人にすぎなかった外国人観光客は70年には17万,80年には30万人,88年には78万人に達し,観光業の発達には顕著なものがある。観光客のうち,最も多くは旧宗主国イギリスからであるが,マルタ政府は国営航空会社を設立したりして観光客の多様化を図っている。近年はイタリア人と並んでリビア人観光客の数が急増しているのが注目される。
観光業の発達は集約的農業の発達,みやげものとしての伝統的織物産業の振興など多くの経済的波及効果をもたらしたが,農業の発達および工業化はいくつかの困難な問題を抱えている。非灌漑耕地で栽培されるトマトの加工のように若干輸出向けの農業もあるが,マルタ全体としては多くの食料を輸入しなければならず,集約的農業をさらに発展させるためには灌漑用水が非常に不足している。政府は谷が海に注ぐところにダムを築いて島に降った雨水を少しでも逃さないよう努力しているが,観光業の発達に伴う都市用水の需要の急増にも対応しなければならず,農業用水の汲上げは政府の厳しい統制下にある。また,バレッタなど大都市の水道水にはすでにかなり塩分が入ってしまっている。
工業化に関しても,第3次中東戦争で閉鎖されていたスエズ運河が75年再開された結果,中国の援助で建設されたドックの営業状態は好転しているが,国内市場が狭く工業用水が不足し,また田園的な環境を売物にして観光客の誘致を図っているため,大規模な重化学工業の発達は不可能で工業の大部分は国内市場向けの組立て・加工の軽工業である。
このようにしてマルタ経済はヨハネ騎士団の支配した時代からイギリス統治時代に至るまで一貫して外部からもたらされる富に依存してきた。軍事基地依存経済から脱却したとはいえ,現在も外国からの送金や観光収入という形でやはり外部に大きく依存しており,生産活動によっては自立できない状態にある。
日本との関係は薄く,外交的にも駐イタリア大使が駐マルタ大使を兼任している。マルタのイギリス軍墓地には第1次大戦中地中海におけるUボート掃討作戦に参加した日本海軍の戦死者の墓がある。
執筆者:竹内 啓一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イタリアとリビアの間の地中海に浮かぶ島からなる共和国。正称マルタ共和国Repubblika Ta' Malta。主島マルタをはじめ、ゴゾGozo、コミノComino、コミノットCominotto、フィルフラFilflaの5島よりなる。後二者は無人島。マルタ島は面積246平方キロメートル、5島の総面積は316平方キロメートルで、淡路(あわじ)島(593平方キロメートル)の約半分である。人口37万8518(1998推計)。首都はバレッタ(人口7100、1998)であるが、大きさとしては4番目で、最大の都市はスリエマSliema(人口1万2308、1998)。いずれもマルタ島にある。
[田辺 裕・柴田匡平]
沈降によって形成された平坦(へいたん)な地形である。マルタ島の最高点は標高240メートル程度。マルタ島は南東部が高く、西に向かって緩傾斜をなしている。北部と南東部高地との間に明瞭(めいりょう)な断層線がみられる。地質は高地部がサンゴ性の石灰岩、低地部がグロビゲリナ(浮遊性有孔虫の一種)性の石灰岩を主とする。地味(ちみ)はあまり豊かではない。東部の海岸線は複雑に入り組んでおり、バレッタの市街が発達する陸地の突出部を挟むグランド・ハーバーとマルサムセット・ハーバーは天然の良港をなす。気候は温暖小雨で、年平均気温は18℃。一般に風が強く、湿度が高い。土壌が薄く、降水が少ないため、野生の植物はあまりみられない。
[田辺 裕・柴田匡平]
1814年パリ条約以来、地中海の要衝(ようしょう)としてイギリス統治下にあったが、第二次世界大戦後はしだいに自治体制に移行し、1964年9月21日にイギリス連邦の加盟国として独立し、1979年3月にイギリス軍は完全撤収した。独立後は労働党と国民党の二大政党間で争いが続いている。両党の勢力はほぼ拮抗(きっこう)しているが、1971年から1987年までは労働党が政権を握り、非同盟中立路線と社会主義を推進した。これに対し、国民党は親西欧路線をとり、両党の支持者間には激しい対立がみられた。1987年5月の総選挙では16年ぶりに国民党政権が復活し、EU(ヨーロッパ連合)への加盟交渉とNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)との協力関係を進めた。しかし1996年末には労働党が政権を奪還し、ふたたびNATOから距離をとり、EU加盟にも消極的になった。政体は大統領(5年任期)を国家元首とし、行政の首長は首相である。大統領が首相を指名する。衆議院一院制で、定数は65。議員は比例代表制の普通選挙により選出され、任期は5年。地方行政体はない。イギリス連邦のほか、ヨーロッパ安全保障協力機構(旧ヨーロッパ安全保障協力会議)、国連、IMF(国際通貨基金)の加盟国。対EU関係では1998年にふたたび加盟交渉に入り、2004年に加盟した。軍隊は1850人。
[田辺 裕・柴田匡平]
イギリス軍の撤収に伴って基地依存の経済から脱却すべく、軍用ドックの用途転換をはじめ、軽工業や観光業への移行が推進された。1984年竣工(しゅんこう)のドックはサウジアラビアとアブ・ダビの資金援助、中国の技術援助によった。軽工業の中心は繊維製品や皮製品などだが、1980~1990年代はEUの域内保護政策で輸出は伸び悩んだ。観光業は1960年代から開発されて順調に伸びたものの、1980年代に至り一時落ち込んだ。1980年には約73万人であった観光客が政情不安の激しかった1984年には約48万人となった。しかし、1991年には89万人台に回復した。農産物はトマトなど一部の加工食品を輸出するが、穀類や肉類は輸入に頼る。ブドウの栽培も行われている。主要貿易相手国はイタリア、ドイツ、イギリス、フランス、アメリカなどである。
[田辺 裕・柴田匡平]
人種はマルタ系が96%、イギリス系2%、イタリア系が2%未満。公用語はマルタ語と英語であるが、イタリア語も通用する。住民のほとんどはカトリックの信者で、学校教育に果たす教会の役割も無視できない。度量衡は長くイギリス式のヤード・ポンド法であったが、メートル法に移行した。
[田辺 裕・柴田匡平]
新石器時代から人の住んでいたマルタは、歴史時代に入ると、フェニキア、カルタゴ、ギリシアの影響を受け、紀元前218年にローマによって征服された。これ以後16世紀に至るまで、マルタの歴史はシチリアに結び付くことになった。ただし、9世紀後半から11世紀末まで続いたイスラム勢力の支配は、人口の少ないマルタの場合、シチリアよりも大きな影響を残し、アラビア語系のマルタ語が形成された。
マルタが歴史上ユニークな位置を占めるようになったのは、1530年に神聖ローマ皇帝カール5世が、ロードス島を追われたヨハネ騎士団の本拠地として、この島を提供してからである。マルタは、カトリック側の対トルコ・イスラムの最前線となり、ヨーロッパ各地から集まった騎士の軍事活動の拠点となった。トルコ側の攻撃も再三行われたが、とくに1565年スレイマン2世の武将ムスタファ・パシャによる4か月余の「大攻囲」は有名である。マルタ騎士団の支配は2世紀余にわたって続いたが、1798年エジプト遠征途上のナポレオンがこの島を占領し、騎士団はローマに逃れた。マルタの戦略的重要性に着目したイギリスは、1800年にネルソンによって島を占領し、パリ条約(1814)で領土とした。その後、マルタはイギリスの地中海軍の根拠地となったが、1964年に独立し、同年、国連に加盟した。
[清水廣一郎]
『田辺裕監修『世界の地理 11 イタリア・ギリシア』(1997・朝倉書店)』
硬骨魚綱コイ目コイ科に属する魚。マルタウグイ、ジュウサンウグイ、セグロともよばれる。日本海側は富山、太平洋側は静岡県以北の本州と北海道、国外では樺太(からふと)(サハリン)、ロシア連邦沿海州、朝鮮半島に分布している。全長60センチメートル以上に達する。通常は海の沿岸部や河口域に生息し、小形の二枚貝やゴカイ類を主食にしている。3~5月に川へ遡上(そじょう)して、夜間、砂礫(されき)底に産卵する。この時期の親魚は体側下方に幅広い赤色帯が発現し、背側は黒化する。生まれた幼魚は全長4センチメートルぐらいまでは川で生活している。近縁種のウグイT. hakonensisの婚姻色は、体側に3条の赤色帯を発現させるので識別できる。食用となる。なおマルタの学名は従来T. taczanowskiiが用いられていた。
[水野信彦]
ドイツの作曲家フロトーのオペラ。全四幕。サン・ジョルジュ作のバレエに基づいてウィルヘルム・フリードリヒ・リーゼが改作した台本による。「リッチモンドの市場」の別名をもつこのオペラは、18世紀初頭のイギリスを舞台に、出稼ぎ娘が奉公先を求めて集まる「娘市場」に、遊び半分で出かけた宮廷の女官とその友人が、彼女らを奉公人として雇い入れてしまった2人の農村の若者と恋に落ち、身分の違いを乗り越えて結ばれるというもの。全編が親しみやすく美しい旋律に満ち、アイルランド民謡「夏の名残(なごり)のバラ」(庭の千草(ちぐさ))の二重唱をはじめ聴きどころが多い。1847年のウィーンにおける初演は大成功で、その後ヨーロッパ各地で数多く上演された。日本初演は1953年(昭和28)二期会。
[三宅幸夫]
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地中海中部の島。早くから東部地中海文化が波及。前8世紀以来フェニキア人が植民。前6世紀カルタゴ領となり,第2次ポエニ戦争の結果ローマに帰属した。のちヴァンダルやイスラーム勢力の侵入を受け,11~12世紀にはシチリアのノルマン王に支配された。続いてナポリ王国に属したが,カール5世が1530年オスマン帝国によりロドス島を追われた聖ヨハネ騎士団に与えた。1798年ナポレオン軍が占領,1800年イギリスがこれを奪い,その地中海支配の拠点とし,1921年自治制を施行。64年9月独立した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「最新 世界スポーツ人名事典」最新 世界スポーツ人名事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…1844年オペラ《アレッサンドロ・ストラデラ》をハンブルクで初演して成功。しかし彼が決定的な名声を確立するのは,47年にウィーンで初演したオペラ《マルタ》による。一時シュウェリーンの宮廷劇場の音楽監督を務めたほか,ベルリン,パリなどで多くのオペラ,バレエ曲を発表した。…
…マルタ人の母語で,現在マルタ共和国では英語とともに公用語とされ,言語人口は約30万。マルタ語の形成に決定的な役割を果たしたのは,870年から220年間続いたイスラム教徒の支配で,その文法,語彙の根幹をなすのはアラビア語である。…
※「マルタ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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