イギリスの哲学者、政治学者、経済学者。功利主義思想家ジェームズ・ミルの長男としてロンドンに生まれる。父親から並はずれた早教育を受け、3歳でギリシア語を、8歳でラテン語を教えられ、それを基礎に膨大な歴史書や文学に親しんだ。12歳ごろからは、勉学の範囲が哲学、論理学、政治学、経済学にまで広げられ、思想内容にまで立ち入った討論が、父親と続けられたという。14歳のとき1年余り渡仏、初めてスポーツをしたり、山々の自然に親しみ、とくに後者は生涯の趣味となった。15歳で帰国後、ベンサム主義の著作である、デュモンPierre Étienne Louis Dumont(1759―1829)の『立法論』を読んだことが契機となって、功利主義思想家としてたつ決意をする。1822年には、ベンサム主義を研究するため、友人たちと「功利主義者協会」を結成、『モーニング・クロニクル』や『ウェストミンスター評論』などへの寄稿活動を行った。また翌1823年、父と同じく東インド会社に奉職、その後同社が解散されるまで35年間勤務した。
しかし、功利主義思想普及のための活動は長くは続かなかった。『ミル自伝』(1873)で回顧しているように、20歳の秋、彼は何事にも快感を覚えず、功利主義的改革にも情熱を感じることのない「精神の危機」を体験した。この危機は彼に、人間の内的教養を充実させるところの、自然との交流や詩・芸術の重要性に気づかせ、これらを軽視してきた旧来の功利主義思想を修正する必要を痛感させたのであった。彼は、ロマン主義の系譜にたつS・T・コールリッジやT・カーライルの著作を読みあさり、政治制度の相対性や歴史性といった主張に半面の真理を認めるようになり、またフランスのサン・シモン派やA・コントなどとの交友を通じて、自然科学と社会科学の差異、あるいは私有財産制度やそれを絶対的なものと前提する旧来の経済学の限界に思い至った。新しい思想構築に向けて模索を続けていた彼は、1830年、のちに妻となるテーラーHarriet Taylor(1807―1858)夫人に出会う。夫人はその美しさと知的教養によって、その後のミルの人生の支えとなるが、ミルの思想内容にまで影響するところがあったかどうかは、研究者の間で見解が分かれている。ともかく、彼の新しい思想は、『ロンドン評論』のちには『ロンドン・ウェストミンスター評論』への寄稿となって現れたが、とりわけ「ベンサム論」(1838)、「コールリッジ論」(1840)は、ミルの思想転換のいちおうの総決算を示すものとして知られる。彼は、ベンサム主義を18世紀啓蒙(けいもう)思想の典型として評価しながらも、それに対する19世紀的反動たるコールリッジにも一定の評価を与えるという、功利主義修正の立場を確立したのであった。
1843年には『論理学体系』を完成、社会科学は、ベンサム主義の用いる「直接的演繹(えんえき)法」のみならず、具体的な歴史の観察から経験法則を引き出し、それを人間性の法則に基づく演繹によって検証する「逆の演繹法」も広く利用されなければならないと主張した。さらに、革命運動がヨーロッパに吹き荒れた1848年に出版された『経済学原理』においては、私有財産制度と競争に立脚する経済を当然の前提にしてきた旧来の経済学に対して、分配のあり方は人為的・歴史的なものだとして、共有財産制度(共産主義)や、慣習によって分配が行われていた先資本制経済を問題にし、また経済進歩における国民性の差異という見地を導入するなど、大胆な古典派経済学の修正を試みた。
1851年未亡人となったテーラー夫人と結婚、世間からは祝福されず、また7年半という短い期間ではあったが、ミルは精神的に充実した日々を送り、1854年には『自由論』を執筆した(1859出版)。『自由論』は、諸個人の自由の保障として夢想された民主主義が、結果的には「多数者の専制」をもたらし、諸個人は平均化され没個性的になり、自由は圧迫され、人間性の危機の時代が訪れているという警世の書であった。ミルは、人間精神の自由と個性に最大の価値を置き、この観点から、『経済学原理』においても、急速な経済発展の時期よりも人々が余暇を享受できる「停止状態」のほうが望ましいとし、また、共産主義と私有財産制度の是非も、どちらが人間の自由と個性を保障するのかという点から判定されなければならないと考えたのであった。
1858年、妻を亡くす。晩年のミルは、下院議員(1866~1868)として、選挙権の拡張運動に取り組み、とりわけ女性に参政権を与えることを歴史上初めて提案した。議員を辞めてからは、妻の墓のあるフランスのアビニョンに移り住み、ときにロンドンに出かける生活をしながら、執筆活動を続け、南仏の自然と昆虫学者J・H・ファーブルとの交友のうちに、この地で亡くなった。著書としてほかに、『代議政体論』(1861)、『功利主義論』(1863)、『コントと実証主義』(1864)、『婦人の隷従(女性の解放)』(1869)、『社会主義論』(遺稿、1879)など多数ある。
[千賀重義 2015年7月21日]
『早坂忠他訳『世界の名著38 ベンサム、ミル』(1967・中央公論社)』▽『川名雄一郎・山本圭一郎訳『功利主義論集』(2010・京都大学学術出版会)』▽『J・S・ミル著、ヘレン・テイラー編、大久保正健訳『宗教をめぐる三つのエッセイ』(2011・勁草書房)』▽『朱牟田夏雄訳『ミル自伝』(岩波文庫)』▽『末永茂喜訳『経済学原理』全5冊(岩波文庫)』▽『大内兵衛他訳『女性の解放』(岩波文庫)』▽『山下重一著『J・S・ミルの思想形成』(1971・小峰書店)』▽『杉原四郎著『J・S・ミルと現代』(岩波新書)』
イギリスの経済学者、哲学者。J・S・ミルの父。スコットランドのノースウォーターブリッジ村の靴屋の子として生まれる。郷土の有力者の後援でエジンバラ大学に入学、神学、哲学を学び、1797年に卒業。牧師の資格を得たがその職になじめず、1802年ロンドンに出て、文筆業に携わった。1804年には『穀物輸出奨励金の不得策に関する一論』、1808年には『商業擁護論』を発表、自由貿易の意義を説くとともに、生産したものはかならず消費されるのだから生産過剰はありえないという、いわゆる「ミルの販路説」(一般には「セーの法則」として知られる)を展開して、商工業の生産性と安全性を主張し、農業保護を唱える農業者と地主階級を攻撃した。また、同年J・ベンサムに出会い、以来ベンサムを師と仰いで親交するとともに、F・プレースやD・リカードらと交遊することによって、ベンサムの功利主義思想の普及に従事した。彼が息子のジョン・ミルに功利主義思想の継承者になることを期待して、並はずれた早教育を施したことは有名である。1818年には、10余年を費やした大著『英領インド史』が完成、それが機縁で東インド会社に職を得た。1821年出版の『経済学綱要』は、イギリスで最初の四分法(生産、分配、交換、消費)を採用した教科書として知られる。また、連想心理学を発展させた『人間精神の現象の分析』(1829)などの著作がある。
[千賀重義 2015年7月21日]
『渡辺輝雄訳『経済学綱要』(1948・春秋社)』▽『岡茂男訳『商業擁護論』(1965・未来社)』
緑藻植物、ミル科の多年生海藻。鮮緑色で、叉(さ)状分岐を繰り返し、フェルト様手ざわりの丸紐(まるひも)状枝からなる分枝体。体高の多くは20センチメートル以内であるが、30~40センチメートルほどに成長するものもある。外見上は分岐を繰り返す微細糸枝が無数、密に絡み合っているだけだが、細かくみると、糸枝には隔壁がなく、全体の原形質が連なる非細胞構造体となっている。温海性の海藻で、湾口部の干潮線直下から30メートル前後の海底にまで生育する。分布は日本の全沿岸のほか、世界各地と広い。日本では古くから知られ、親しまれてきた海藻の一つで、『万葉集』のなかにも詠まれている。現在の日本では、ミルをあまり食べないが、ハワイではリムlimuの名で野菜サラダ同様に愛好しているし、インドネシア、フィリピンなどでも食品とされている。
ミル属中には、体形の違う多くの種があるが、比較的よく見受けられるものに、体長が5~10メートルになるナガミルC. cylindricumとクロミルC. divaricatum(地方名サメノタスキ)、扁平(へんぺい)で薄いフェルト片状になるヒラミルC. latum、岩上にへばりつくハイミルC. adhaerensなどがある。このほかミル属には、40~50メートルの深海産で小球状となるタマミルC. mamillosum、タマミルに似るが不定形の球塊状となるコブシミルC. pugniformisなども含まれる。
[新崎盛敏]
イギリス19世紀中葉の代表的な哲学者,経済学者。とくに,その晩年に書かれた《ミル自伝》によって,幼少時からの一生を通じる思想展開を詳細に後づけることが可能な数少ない例として知られている。父ジェームズ・ミルの異常ともいえる教育熱心によって,3歳からギリシア語を,8歳からラテン語を学び,12歳までに多くの古典を読んだ。この間に初等幾何学や代数学ならびに微分学の初歩を学び,13歳のときには経済学の課程まで終えていたという。父ジェームズはD.リカードの親友であり,その経済学の礼賛者かつ解説者であったから,ミルは少年期に徹底的にリカード経済学を仕込まれたわけである。また父からは論理学も学んでいる。また父を通じてJ.ベンサムの功利主義から強い影響を受けた。14歳以後は一人立ちで勉強したが,幼年期からの教育によって一種の純粋培養的な学者となったといえる。一生の間に《論理学体系》(1843),《経済学原理》(1848),《自由論》(1854年に書かれ59年出版),《功利主義論》(1861年に雑誌に発表,63年単行本),《女性の隷従》(1869),遺稿の《社会主義論》(1879)その他多くを著したが,それらはすべて自分の見聞に照らして,より正確に真理を究め世に問おうとする誠実な努力の結果であった。彼ほど世俗の利害や党派的感情に惑わされない人物はまれであった。
経済学者としてのミルは古典派経済学の完成者と呼ばれ,同時にイギリス社会主義の父とも呼ばれたが,正確にいえば,古典派を頂点まで理解することによって,その限界をも知るに至り,体系を拡張したということである。そのことは彼の《経済学原理》の初版と第3版(1852)との差異に見ることができる。ミル自身は労働階級への関心の高まりを,彼が愛し後に結婚(1851)したテーラーHarriet Taylorの影響に帰しているが,要はミルが生活経験の乏しさから〈イギリス交際社会の低級な道徳の調子をまったく知らなかった〉ために,古典派の〈私益追求〉の概念をあまりに性善説的に解釈していたことへの反省にほかならない。ミルのリカード派からの脱皮は,イデオロギー的なものではなく,〈富の分配〉を〈富の生産〉と同様な自然法則であるかのようにみなすことが事実認識上の誤りであることに気づいたためであった。《経済学原理》における労働時間規制論は,市場均衡論にもとづく最初の分析的記述となっている。《論理学体系》においては,それ以前の演繹(えんえき)法偏重をいましめ,帰納的な実証主義の重要性を指摘した。
また功利主義についても,ベンサム流の数量評価が質的側面を見落としていることを指摘した。ミルは徹底して個人の自由を尊重することから,男女平等の政治的民主主義を主張し,同時に多数決において少数者の意思表示の自由を留保することを忘れなかった。ミルが矛盾撞着(どうちやく)を含む過渡期の思想家と評されたのは,既得の真理に新たな知識を加えるという進歩発展への彼の苦闘の過程を表面的に見たものにすぎない。
執筆者:辻村 江太郎
ビロードの手ざわりがする円柱状の体の緑藻で,密に分枝して高さ20~30cmになる。体の表面の細かい粒は体をつくる巨大細胞が棍棒状に突起した部分で,体の中心部には細い管状の細胞が密にからみ合っている。細胞には隔膜がないので,体全体は多数の核をもつ1個の巨大細胞からなることになる。このような体を多核体という。寒海域を除く日本各地沿岸の低潮線付近から漸深帯の岩上に生育し,世界の暖温帯の海域に分布する。似た種にクロミルC.divaricatum Holmes,サキブトミルC.contractum Kjellman,ナガミルC.cylindricum Holmesなどがあり,いずれも寒海域を除く日本各地に生育する。ミルは地方により食用にする。淡水に浸して脱色した後に乾燥して保存し,食用にするときは水に戻して酢などであえる。
執筆者:千原 光雄
中心から放射状に小枝を並べたような形の文様。《源氏物語絵巻》御法(みのり)の詞書料紙や《信貴山(しぎさん)縁起絵巻》に描かれた庶民の衣服にこの文様が見られるので,平安時代から用いられたと思われる。海松(みる)文によく似たものにホヤ文と呼ばれる寄生木(やどりぎ)文様がある。両者は区別がつきにくい。また海松文には海松丸と呼ばれる丸文の一種があり染型紙や漆器の文様に多く使われる。
執筆者:長田 玲子
イギリス功利主義の代表者の一人で,J.ベンサムの協力者として学派の形成に貢献した。経済学者としても知られる。長男J.S.ミルに,功利主義の継承者たらしめるべく厳しい早教育をほどこしたのも,その一端である。スコットランドの農村の貧しい靴屋の家に生まれたが,ある裁判官がその才能を惜しんでエジンバラ大学で神学を学ばせた(1790-97)。説教の免許を得て巡回説教をやってみたものの,人気がなく,職を求めてロンドンにでたミルは,ジャーナリストとして成功し,1808年にはベンサムを知って,その最初のイギリス人の弟子となった。9人の子どもをかかえながら,精力を傾けて書いた大著《イギリス領インド史》(1817-18)によって名声を確立するとともに,東インド会社に職を得て生活を安定させることができた。彼の著作は,スコットランド啓蒙思想の成果のうえに立っているので,功利主義への改宗後でさえ,ベンサムとのあいだに微妙なずれがある。とくにミルが東インド会社に就職してからは,人間関係も以前のように緊密ではなくなった。なお著書としては,ほかにリカードの経済学を平易にした教科書《経済学綱要》(1821)や《自伝》(1873)がある。
執筆者:水田 洋
古い盤上ゲームで,ナイン・メンズ・モリスNine Men's Morris,モリス,三目並べなど,さまざまの名で呼ばれている。前1400年ころのエジプトの神殿の天井に,このゲーム盤と同型のきざみ目が残っていることから,ゲームの起源をこの時点までさかのぼらせる説もある。14世紀には広くヨーロッパで行われ,W.シェークスピアの《夏の夜の夢》にも登場する。ゲームは図のような型のゲーム盤(あるいは単に地面などに筋を引くだけのこともある)を用いて,2人で行う。各プレーヤーは自分の駒(メンmen)を9個ずつ持つ。駒は敵味方を区別できるように色違いになっている。ゲームは,競技者が交互に駒を盤上の交点に置いていき,自分の色の駒を縦または横に3個並べると(これをミルという),相手の駒を一つとりのけることができる。とりのけた駒は再使用できない。ゲームの前半戦は交互に駒を配置し,置きつくした時点で後半戦となり,盤上の自分の駒を1交点だけとなりへ移すことができる。着手は交互。駒の入っているところへは入れない。相手の駒を2個にまで減らすか,相手の駒を動けなくしたほうが勝つ。
執筆者:松田 道弘
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1773~1836
イギリスの経済学者。スコットランド出身。ベンサム,リカードと交流し,功利主義思想を主唱した。この立場から書かれた彼の大著『イギリス領インド史』(1817年)では,インド文明の後進性が強調され,法の整備の必要が説かれた。同著の出版後,17年間にわたりイギリス東インド会社に勤務した。著名な経済学者,J.S.ミルの父でもある。
1806~73
イギリスの哲学者,経済学者。ミル(ジェームズ)の子。イギリス東インド会社に勤める一方,功利主義を発展させ,19世紀イギリスの思想に大きな影響を与えた。晩年には下院議員として女性参政権を主張した。『経済学原理』『自由論』『女性の隷従』『自伝』などの著作で知られる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…サドルカーンは古代エジプトで非常に大型のものにまで発達し,それ以上発達するためには全く新しい発想が必要であった。ギリシア時代に入ると,すり合せ面に目を刻み,上臼には穀物をあらかじめ入れておく漏斗状のくぼみ(ホッパー)を設け,これを長い柄(ハンドルまたはレバー)で前後に動かすレバーミルが出現した。他方,西方アジアの小麦地帯では,少なくとも前1000年ころ,ロータリーカーンrotary quernが発明されていた。…
…この工場は成功して数年後には9000錘を設備し,300人の労働者を雇用して工場のモデルとなった。このため水車小屋を意味した〈ミルmill〉が工場(ファクトリーfactory)の意味に用いられて,初期の綿工場は〈コットン・ミル〉と呼ばれ,発明家アークライトはまた世界最初の工場の完成者として知られるようになった。 しかし工場の原動力が水力に依存する限り,強力な馬力は得られないし,冬の凍結期や夏の渇水期には利用できないこともあった。…
…比較的粗い粉砕,すなわち破砕に使われる粉砕機を破砕機またはクラッシャーcrusherと呼ぶことがある。また比較的細かな粉砕に使われる粉砕機を俗にミルmillと呼ぶ場合がある。
【種類】
粉砕機はその作動時における主要な粉砕作用力が何であるかによって,表のように分類される。…
…1719年にはロンドンに〈自己防衛術の学校〉を開き,フィッグはオーナーであるとともにイギリス・チャンピオンと称し,挑戦してくるものを一切拒まず,またことごとく撃退したといわれる。当時はボクシングというより,古来からのピュージリズム,ミルmill,あるいはプライズ・ファイトprize fightという呼び方が一般的で,試合形式そのものも現在のものとは大きく異なっていた。まず,グローブは着用せず,試合では裸のこぶしでやり合った。…
…中産階級の人々にとっては〈幸福〉の具体的内容についての大体共通する理解があったからである。 ベンサムの強い影響を受けたJ.ミルは,ベンサムの思想を整理し,その宣伝に努めた。そして《人間精神の現象の分析》(1829)を書いて,功利主義をハートリーDavid Hartley(1705‐57)の連合心理学によって基礎づけようとした。…
…実際,ナポレオン戦争後の恐慌(1817‐19)の際,J.C.シスモンディやT.R.マルサスが全般的過剰生産が起こりうることを認め,いわゆる過少消費説(〈恐慌〉の項参照)を主張したのに対し,セーは上述の理解から,ただ生産部門間の不均衡による部分的過剰生産を認めただけで全般的過剰生産を否定し,前2者とのあいだに〈市場論争〉と呼ばれる論争を展開した。この論争にはD.リカードやJ.ミルも参加し,全般的過剰生産を否定するセーの見解に賛意を表した。 この論争自体は,恐慌を資本主義的生産様式の矛盾の現れとして最初に問題にしたものとして注目されるが,しかしセーの販路説は,もともと主観的な効用価値説を基礎としており,A.スミスやリカードの労働価値説を継承してその上に展開されたものではなかった。…
…そして,こうしたルソーのむしろ断片的受容にみられるように,この時期のフランスでは,民主主義という言葉は,解放の希望を表す言葉ではあっても,建設の原理を具体的に示す言葉ではなかった。
[J.ベンサムとJ.ミル]
19世紀前半に民主主義を国家の新しい積極的な制度論原理にしようと試みたのは,J.ベンサム,J.ミル(J.S.ミルの父)の2人のイギリス功利主義者であった。まずベンサムは,世紀初めに書かれた《憲法典》で,人民主権の立場から,婦人も含めた普通選挙制を主張した。…
…ロンドンにあるイギリス最大の大学。1826年,急進主義者のH.P.ブルーム,J.ミル,それに非国教徒が中心になって,ロンドンに宗教色のないユニバーシティ・カレッジが設立(1828開校)され,ついで28年,それに対抗して国教会によりキングズ・カレッジが設立(1831開校)された。この二つのカレッジは,イングランドに生まれた最初の市民大学で,中流階級の子弟を対象に,自然,社会,人文の各分野にわたる諸学科を幅広く教授し,この点で中世以来のオックスフォード大学,ケンブリッジ大学とは著しい対照をなした。…
…F.ベーコンの科学方法論への洞察,ロックの実験的精神,D.ヒュームの因果性の分析,G.バークリーの知覚論,さらに,新カント学派諸家の科学批判などはすべてこのような背景の中から生まれたものである。また,科学方法論を直接テーマとしたのはJ.S.ミルであった。科学的帰納推理に関する彼の研究は現代科学哲学の一つの源流と考えられる。…
…古典派経済学は,さらに《経済学および課税の原理》(1817)の著者D.リカード,《人口論》(1798),《経済学原理》(1820)などを著し,有効需要の問題を重視して後にケインズに評価されたT.マルサスなどにより展開されていく。そして,古典派経済学の最後の巨峰はJ.S.ミルであり,その著《経済学原理》(1848)は古典派経済学の完成の記念碑である。 スミスは,商品の交換比率は生産に必要な労働量によって決まるという投下労働価値説を,土地所有と資本蓄積のない未開社会にのみ認め,土地所有と資本蓄積のある社会については長期的な需要と供給の均衡により,賃金,地代,利潤の自然率の和として商品の自然価格が決定されるものとした。…
…生存競争,優勝劣敗による進化という社会進化的観念は,当時の知識人に中国は亡国の危機にさらされているという意識をよびおこし,桐城派古文の典雅な文章とあいまって,《天演論》は青年たちに暗誦されるほど歓迎され,彼の名を不朽のものにした。それ以後彼は,アダム・スミス《原富》(1902,《国富論》),ミル《群己権界論》(1903,《自由論》),ミル《穆勒(ぼくろく)名学》(1905,《論理学体系》),モンテスキュー《法意》(1904‐09,《法の精神》)など多くの翻訳を出版し,西欧近代の学術的成果を紹介した。しかし,辛亥革命(1911)以後は,しだいに伝統思想へ接近してゆき,袁世凱の帝制運動を助けるなど,かつての名声も地に落ち,1921年,五・四新文化運動のさなか,病没した。…
…中産階級の人々にとっては〈幸福〉の具体的内容についての大体共通する理解があったからである。 ベンサムの強い影響を受けたJ.ミルは,ベンサムの思想を整理し,その宣伝に努めた。そして《人間精神の現象の分析》(1829)を書いて,功利主義をハートリーDavid Hartley(1705‐57)の連合心理学によって基礎づけようとした。…
…古典派経済学(略して古典派あるいは古典学派ともいう)とは一般に,18世紀の最後の四半世紀から19世紀の前半にかけイギリスで隆盛をみる,アダム・スミス,リカード,マルサス,J.S.ミルを主たる担い手とする経済学の流れをさしている。D.ヒュームらアダム・スミスの先行者や19世紀のJ.ミル,J.R.マカロック,R.トレンズ,ド・クインシー,S.ベーリー,N.W.シーニアー,S.M.ロングフィールドらをどう扱うか,またJ.S.ミルに後続するフォーセットHenry Fawcett(1833‐84)やケアンズJohn Elliot Cairnes(1823‐75),フランスのセーやシスモンディをどう扱うかについて,多少考え方の相違があるが,おおむねこれらの人たちも含まれる。…
…そして実証的とは〈破壊する〉ことでなくて〈組織する〉ことであると説き,人間の知識と行動は〈神学的〉―〈形而上学〉―〈実証的〉になるという〈3段階の法則〉を提示し,社会現象についての実証的理論を〈社会学sociologie〉,実証的知識に基づいて自然界,精神界,社会界を全体的に一貫して説明する理論を〈実証哲学philosophie positive〉と呼んだ。 コントの説はイギリスのJ.S.ミルに高く評価され,ミルは《コントと実証主義》(1865)を書き,〈コントこそは実証主義の完全な体系化を企て,それを人間の知識のあらゆる対象に科学的に拡大した最初の人であった〉と述べた。これ以降,実証的すなわち科学的という通念が世界的に普及した。…
…D.リカードとその追随者およびオーストリア学派によれば,資本は過去の労働の蓄積である。資本の量については,たとえばリカードは投下労働の量を,J.S.ミルは生存資料の量を,そしてE.vonベーム・バウェルクは平均生産期間の概念,つまり労働が生産過程内にとどまる平均の時間を考えるというようにさまざまであるが,基本となる考え方は同じである。これは,過去のさまざまな時点において生産に投下された労働を,たとえば1年前の労働と2年前の労働というように互いに異なる労働として取り扱うならば,生産と分配の定量分析においても有効な考え方である。…
…女性の状態を歴史的時間のなかで検証しようとする発想は,19世紀の産物であった。フランスの空想的社会主義者フーリエは《四運動の理論》(1808)で,社会の進歩と女性の解放は比例するといい,イギリスの功利主義者ジョン・スチュアート・ミルは《女性の隷従》(1869)で,奴隷制から自由な社会へという人類史の延長線上に女性解放をおこうとした。《恋愛と結婚》(1903)を書いたスウェーデンのE.ケイは,歴史は恋愛と結婚の自由に向かって進んできたとする立場から女性解放の方向性を示した。…
…心理主義ともいう。J.S.ミルやブント,T.リップスらがその代表者。この立場は,普遍妥当的な真理や価値の存在を否定して,相対主義に陥るため,新カント学派や現象学派(とくにフッサール)によって厳しく批判され,20世紀初頭に急速にその影響力を失った。…
…ある時期のある社会をとり,労働者の賃金に支払われる資本部分としての賃金基金は,一定額に限定されていると主張する賃金学説。19世紀のイギリスの経済学者J.S.ミルによって最も典型的に主張された。この学説に従えば,労働者一人一人が受け取る賃金は,所与の賃金基金を雇用労働者総数で割った額にしかなりえない。…
…とくに人間を精神的存在としてとらえる哲学的伝統の強かったドイツでは,経験科学の伝統の強いイギリスやフランスに対して,この矛盾に敏感であった。イギリスでは,たとえばJ.S.ミルはモラル・サイエンシズという言葉で歴史学,文献学(言語学),経済学,社会学,人類学,心理学,法学,宗教学などを含む〈人間本性に関する諸科学sciences of human nature〉を意味したが,この語はドイツ語に訳されて〈精神科学Geisteswissenschaft〉となり,やがてディルタイが客観化された精神としての〈文化〉を理解する解釈学的探求の学をこの名で呼んだ。また新カント学派のウィンデルバントやリッケルトは,〈歴史科学Geschichtswissenschaft〉〈文化科学Kulturwissenschaft〉という語で,人文諸科学を自然科学とは本質的に異なる科学として分別しようとした。…
…協会が採択した《フェビアンの基礎》(1887)は,土地と産業資本の個人的・階級的所有から社会的所有への移行を目標に掲げ,社会主義的世論の普及によってこれを達成するものとした。ショーが編集した《フェビアン社会主義論文集》(1889)は,J.S.ミルやH.ジョージの,社会進歩の結果得られる不労所得としての地代(レント)概念を拡大して資本の利潤に適用し,〈経済レント〉論を展開して,生産手段の社会化によるレントの社会化を提唱した。マルクスの剰余価値概念をレントで置き換えたように,階級史観に代わって社会進化論をとり,民主的,漸進的,平和的な社会の有機的変化を強調し,個人でなく集団を自然淘汰の基礎とみなし,共通の善のための自覚的調整・適応を説いた。…
…だが婦人参政権運動が本格化したのは1865年以降であった。同年,婦人参政権を公約の一つとしたJ.S.ミルが下院議員に当選し,66年には1499人が署名した婦人参政権の請願がミルの手を通じて下院に提出された。しかし,翌年196対73で否決された。…
…そして,こうしたルソーのむしろ断片的受容にみられるように,この時期のフランスでは,民主主義という言葉は,解放の希望を表す言葉ではあっても,建設の原理を具体的に示す言葉ではなかった。
[J.ベンサムとJ.ミル]
19世紀前半に民主主義を国家の新しい積極的な制度論原理にしようと試みたのは,J.ベンサム,J.ミル(J.S.ミルの父)の2人のイギリス功利主義者であった。まずベンサムは,世紀初めに書かれた《憲法典》で,人民主権の立場から,婦人も含めた普通選挙制を主張した。…
… 次に倫理学と論理学との関係についていえば,すぐれて近代的な論理学は,数学的自然科学の論理学,すなわち数学的自然科学の認識論的基礎づけというかたちで,カントによって一応成就された。それに対し,論理学を明確に精神的・社会的な諸科学の論理学というかたちで形成した最初の者は《論理学体系》におけるJ.S.ミルである。だが,その種の観点をさらに徹底させて,論理学と倫理学との関連を確定し,倫理学を明確に精神科学の論理学として把握したのはH.コーエンである。…
※「ミル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新