ラウール(読み)らうーる(英語表記)François Marie Raoult

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラウール」の意味・わかりやすい解説

ラウール
らうーる
François Marie Raoult
(1830―1901)

フランスの化学者。5月10日フルネに生まれ、4月1日グルノーブルに没する。貧困のため中学教師をしながらパリ大学で学位を得る(1863)。1867年グルノーブル大学助手、1870年以降同大学化学教授。1878年有機物の水溶液や他の溶液における氷点は、溶質1モル当りについて溶質の種類にかかわらず一定であり、溶質の濃度の減少に伴い氷点が下がることを発見し、「溶質分子は化学的種類と無関係に溶媒の性質に一様に影響し、氷点降下は溶質濃度に比例する」という法則(ラウールの第二法則といわれた)を実験的に立証した。引き続き彼は、溶液の蒸気圧降下についても同様の結論を出した(ラウールの第一法則)。このラウールの法則は、あらゆる無限希釈溶液は「完全」溶液すなわち「理想」溶液として挙動するということを示している。このことは、1908年G・N・ルイスによって確立された理想溶液概念をすでに実験的にみいだしていたものとして重要な意義をもつ。さらに、1884年彼自ら実験的に検証した「ラウールの法則は溶質溶媒間相互作用の強い電解質水溶液では成立しない」という事実は、のちに、浸透圧の物理的解明に基づくファント・ホッフの希薄溶液理論やアレニウスの電解質分子の解離に関する学説にとって重要な実験的基礎となった。また、以上のラウールの法則を基礎として、溶液中に現存する分子の質量分子量)の測定が可能になり、分子量測定法に新しい手段を提供し、その方法は今日でも広く利用されている。

[大友詔雄]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラウール」の意味・わかりやすい解説

ラウール
Raoul

[生]?
[没]936.1.14./936.1.15. オーセール
西フランク王(在位 923~936)。ブルゴーニュ公(在位 921~936)。政治の不安定が続いたこの時代の典型ともいえる波乱の生涯を送り,みずからの権威を確立できたのは死の直前であった。922年にカロリング朝西フランク王シャルル3世を廃し,一時王位についたロベール1世の娘婿。ロベール1世がその翌 923年に戦死したのをうけて王に選出され,ソアソンで戴冠した。その治世は果てしない戦いの連続で,まずラウールを王として認めない諸侯が多かった。またバイキングだけでなく,マジャール人(ハンガリー人)の来襲をも迎え撃つことになった。925年,ドイツ王ハインリヒ1世ロレーヌ(→ロタリンギア)を奪われ,928年にはベルモンドア伯エルベールにランを割譲せざるを得なくなった。エルベールは当初ラウールの強力な味方だったが,廃位されたシャルル3世の身柄を預かっている立場を利用し,王に対して強く出た。929年にシャルル3世が死亡すると,敵対勢力はまとまりを失い,情勢はかなり好転した。やがて対抗者はエルベールただ一人になるが,その降伏をようやくかちとってまもない 936年,病を得て死亡した。

ラウール
Raoult, François-Marie

[生]1830.5.10. フルネザンウェップ
[没]1901.4.1. グルノーブル
フランスの化学者。グルノーブル大学教授 (1870~1901) 。希薄溶液の氷点降下が非電解質の溶質濃度に比例すること (1878) ,電解質溶液ではそれが成立しないこと (84) ,さらに希薄溶液の蒸気圧降下についての法則 (ラウールの法則 ) を導いた (88) 。不揮発性物質の分子量決定の道を開いたものとして大きな意義をもつ。

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化学辞典 第2版 「ラウール」の解説

ラウール
ラウール
Raoult, François-Marie

フランスの物理化学者.1863年パリ大学で学び,ボルタ電池における起電力の研究により,物理学博士号を取得.1870年グルノーブル大学で化学の教授となった.はじめは,電池における化学熱と電流による発熱との関係を研究し,起電力のもとは物理的変化とは無関係で,化学的変化であるとした.1870年代後半から,溶液における凝固点降下と蒸気圧との関係を調べるための測定実験をはじめた.かれはまず,有機化合物水溶液の凝固点降下測定結果を使って,この化合物の分子量が計算できることを示した.ついで,塩の水溶液における凝固点降下異常の問題に取り組み,それが酸・塩基の価数に関連していることを示し,同じころ発表されたS.A. Arrhenius(アレニウス)による電離説の正しさを補完することとなった.のちに,フランス学士院会員に選ばれた.

出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のラウールの言及

【ケルマデク[諸島]】より

…1788年イギリス船,93年フランスの航海者ダントルカストーが発見し,後者が船名にちなんで命名した。過去2回の入植はいずれも失敗し,主島ラウール島(別名サンデー島)の気象観測所・通信所(1937設置,9人)のほかに定住人口はない。【谷内 達】。…

【カロリング朝】より

… フランク王国そのものは,カール3世(皇帝在位881‐887)のとき一時統合されるが,この皇帝はノルマン人対策に失敗した。その間に西フランクでは,ノルマン人のパリ包囲(885‐886)で功績をあげたロベール家(後のカペー家)のウードEudes(在位887‐897)や,ブルゴーニュのラウールRaoul(在位923‐936)が王に選ばれ,この王朝による王位の独占の原則は,早くもやぶれ,ユーグ・カペーの登極によってカロリング朝は終わった(987)。東フランクでは911年のザクセン朝の登場によってこの家系の王・皇帝は絶える。…

【ロベール家】より

…885‐886年ノルマン人の攻撃からパリを防衛して名を挙げたウードEudes伯は,887年のカール3世の廃位後,有力諸侯に推されて国王になり,ここにカロリング体制は事実上終了する。898年ウードの死後,王権は再びカロリング家に戻るが,922年シャルル3世単純王に対する反乱を指導した辺境伯ロベール1世が国王に選出されるが,わずか1年の治世で死去し,彼の婿ブルゴーニュ公ラウールRaoul(在位923‐936)が王位を継ぐ。936年のラウールの死後,有力諸侯の勢力均衡からカロリング家のルイ4世が国王に担ぎ上げられるが,ロベール1世の息子ユーグ・ル・グランHugues le Grandはこの状況を巧みに利用して,943年フランス公の地位を得て,息子ユーグ・カペーの国王選出の礎を固めた。…

※「ラウール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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