デジタル大辞泉
「三の丸」の意味・読み・例文・類語
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さん【三】 の 丸(まる)
- 城郭の二の丸の外側の濠、石塁、または土塀で囲まれた部分。二の丸の外郭。さんのくるわ。
- [初出の実例]「敵みかた入みだれ散々にきりあひ撞合(つきあひ)けるが、終(つひ)に三丸(さんノマル)までをし詰、猶息をもつがせずせければ」(出典:信長記(1622)一下)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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三の丸
さんのまる
太鼓御門跡を南側に折れたところが三の丸で、現在の県立鳥取西高校の敷地一帯にあたる。池田長吉以前には南側の同校第二グラウンドとなっている一段低い部分の石垣の下に鳥取堀という堀があり、まっすぐ西に延びて古い袋川につながって外構となっていた。また擬宝珠橋より南側の堀はなく、一面地続きであった。長吉による城拡張の際、この地を城内に取込み一曲輪とした。当初は侍屋敷があったらしいが、寛文(一六六一―七三)から貞享(一六八四―八八)頃池田綱清が儲君の時にその居館三の丸として整備された。当時は下の丸・下屋敷あるいは御部屋ともよび、宝永年間(一七〇四―一一)からはもっぱら中の丸と称された。だが享保元年からの普請で中の丸の旧館を取壊して地面を削って周辺の地を埋立て境地を広げた。同三年普請が竣工すると中の丸の名称を改めて、以後二の丸としたとされる(以上「鳥府志」)。「鳥府志」などでも二の丸となっているが、嘉永三年(一八五〇)幕府に提出された御普請御願絵図(県立博物館蔵)では三の丸の名称が用いられている。幕府への公式名称としては三の丸を用い、藩内では二の丸と称したのであろう。
三の丸
さんのまる
[現在地名]和歌山市一番丁―十三番丁
和歌山城内郭の北と東を囲み、重臣や上級武士の屋敷地で一部に役所があった。西・北・東の三方に外堀がめぐり、南は内堀で内郭と画する。北側の外堀は堀川・内川といい、東端は南へ曲がる堀のほか、東へ出て和歌川と結び、合流点手前に堀詰橋がある。西端も南へ曲がる堀のほか、北から市街へ出て西に曲がり、紀ノ川と結ぶ(堀川の西部分は伝法川と通称される)。三の丸北の大手京橋御門から堀川の京橋を渡ると城下内町地区を大手筋の本町通がまっすぐ北へ通るが、橋は城下より諸方へ向かう街道の起点でもあり、高欄・擬宝珠付きの堂々たる構えである。三の丸側には石垣と白壁をめぐらした大手御門が立つ。門を入った東側には番所があり、天保一五年(一八四四)の殿様御帰国御行列図(田中敬忠氏蔵)に描かれる。
三の丸
さんのまる
宝暦九年(一七五九)の御城下絵図に「本丸ヨリ南方三之丸、南北六拾七間半」「東西百五拾弐間半」「本丸ヨリ東方三之丸南百四拾四間」「東西六拾四間」とある。南三の丸は二の丸帯曲輪門から出た下中城で、南に搦手門があり、西に穴門がある。東三の丸は上中城で、二の丸東門より南に出る追手(大手)門があり、その東に二層の角櫓がある。北は追手北門。それぞれ南に広小路・長野、北に手形山手の侍町に通ずる。なお三の丸には二の丸北門を出た手形山手およびその北に連なる北の丸東側の台地も加わる。
三の丸
さんのまる
[現在地名]水戸市三の丸一―二丁目・北見町・宮町二丁目・南町一丁目・大町一丁目
水戸城の西に位置する武家屋敷町で、東は堀で二の丸と境する。北部と南部に東西に走る道があり、それぞれ北三の丸・南三の丸と称し、間を中三の丸という。
天正一九年(一五九一)の佐竹氏入城から慶長七年(一六〇二)出羽へ移封までの間に水戸城の修築が何度か行われたが、三の丸の修造は寛永二年(一六二五)になってからで、南北に郭門を設け、この時以来この地が三の丸とよばれるようになった(水府地名考)。南北の門は初め南御門・北御門と称したが、元禄三年(一六九〇)の令で三の丸南見付・北見付と改めた(新編常陸国誌)。
三の丸
さんのまる
[現在地名]大館市三の丸
桂城西側に位置し、本藩直臣の給人の居住する武家町。元禄一七年(一七〇四)の大館城下絵図に「三ノ丸」とみえる。桂城三の丸に位置することから町名が生じた。前記の絵図に前小屋・武茂・古内などの武家の屋敷名がある。
南北に走る道路に沿い、南は外堀と平行し枡形となる。
三の丸
さんのまる
[現在地名]中津市中津 三ノ丁
本丸の南、城内南東端にある大手門の石垣から西に延びる東西通りで、北側に御蔵や御用屋敷、奥平氏一族の屋敷など六屋敷が並び、その北側は内堀、南側にも重臣や一族の屋敷が並ぶ。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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