太鼓御門跡を南側に折れたところが三の丸で、現在の県立鳥取西高校の敷地一帯にあたる。池田長吉以前には南側の同校第二グラウンドとなっている一段低い部分の石垣の下に鳥取堀という堀があり、まっすぐ西に延びて古い
和歌山城内郭の北と東を囲み、重臣や上級武士の屋敷地で一部に役所があった。西・北・東の三方に外堀がめぐり、南は内堀で内郭と画する。北側の外堀は
水戸城の西に位置する武家屋敷町で、東は堀で二の丸と境する。北部と南部に東西に走る道があり、それぞれ
天正一九年(一五九一)の佐竹氏入城から慶長七年(一六〇二)出羽へ移封までの間に水戸城の修築が何度か行われたが、三の丸の修造は寛永二年(一六二五)になってからで、南北に郭門を設け、この時以来この地が三の丸とよばれるようになった(水府地名考)。南北の門は初め
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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