連歌,俳諧を制作する場合の規約,すなわち禁制と故実。平安末以降,鎖(くさり)連歌,長連歌が起こったが,それにともない式目に類する禁制,故実が求められ,連歌の盛行とともに,故実的な面は作法書となり,禁制的な面は式目となった。13世紀中ごろ以降,京都,鎌倉に二,三の式目が出現したが,1372年(文中1・応安5)に二条良基が《応安新式》を定め,これが全国的規模で行われた。その後,一条兼良(かねら),宗砌(そうぜい),肖柏らによって増補改訂され,長く連歌の法典となったが,紹巴(じようは)の時代に全面的な検討が加えられ,1597年(慶長2)木食応其(もくじきおうご)の《無言抄》が成立,ひろく用いられた。
俳諧の式目は貞門の時代に,連歌のそれを緩和して制定された。徳元(とくげん),重頼(しげより)らは本式目をやや緩和した一条兼良の《和漢篇》を用い,貞徳,親重(ちかしげ)らはそれらをさらに緩和したものを用いた。1643年(寛永20)に貞徳が定めた十首の式目歌,および1651年(慶安4)の《御傘(ごさん)》は,長く貞門の規範となった。貞門では他に徳元の《誹諧初学抄》,立圃(りゆうほ)の《はなひ草》,西武(さいむ)の《久流留(くるる)》なども成り,相互に矛盾点をもちながらもよく行われた。次の談林時代においても,なお貞門の式目作法が基本的には守られていた。形式よりも詩的内実を重んじた蕉風においても,去来が芭蕉の式目観を祖述して,〈法式においては古法をむねとし給ふ也。まゝ法式を破り給ふ所は,十が八九は古実によれり〉(《旅寝論》)と述べたように,やはりその基本は守られていたのである。芭蕉没後,《其角十七条》《二十五箇条》《付句十四体》《俳諧二十一品》などさまざまな伝書が作られたのも,こうした芭蕉の姿勢に基づくものと考えられる。近世中期以降も,烏明(うめい)・百明(ひやくめい)編《俳諧提要録》,楼川編《俳諧独稽古》,几董(きとう)著《付合てびき蔓》など数多くの式目書が出された。
執筆者:井上 敏幸
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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