五箇山(読み)ゴカヤマ

デジタル大辞泉 「五箇山」の意味・読み・例文・類語

ごかやま【五箇山】

富山県南砺なんと市の南東部、庄川上流の地域。合掌造りの民家がある。平家の落人おちうど伝説の地。平成7年(1995)「白川郷・五箇山の合掌造り集落」の名で世界遺産文化遺産)に登録された。→白川郷

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精選版 日本国語大辞典 「五箇山」の意味・読み・例文・類語

ごかやま【五箇山】

  1. 富山県南砺市、岐阜県との境にある山間の地域。庄川上流域の赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷(おたん)、利賀(とが)谷の五つの谷をいう。平家の落武者の子孫がかくれ住むところと伝えられ、江戸時代には加賀藩の保護を受けて火薬を製造。現在は御母衣(みほろ)ダムがあり、合掌造りの民家が残る。

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日本歴史地名大系 「五箇山」の解説

五箇山
ごかやま

富山県最南西部の山地の呼称で五ヶ山とも記す。現東礪波郡上平・たいら利賀とがの三村域に及び、面積は約三六六平方キロ。南端の岐阜県境は一五〇〇―一八〇〇メートル級の山がそびえ、高度の下がった北端でも七〇〇―九〇〇メートル級の山が連なる。この山間を庄川および支流の利賀川などが北流、川沿いのわずかな平地や段丘・山腹に集落が形成されている。五箇山の称は室町時代から史料にみえ、江戸時代には現行三村域の総称として、また加賀藩政下の行政管轄地名としても用いられた。近代に入り、明治二二年(一八八九)の町村制施行以降は行政上の地名としては用いられなくなったが、現在でもなおこの地域をさす地名として通用している。当地域では縄文時代の遺跡が各所で発見されており、多数の土器片や石器類(御物石器を含む)が出土している。狩猟採集を中心とした生活の場として適していたのであろう。しかし弥生時代・古墳時代の遺跡・遺物は現在のところ確認されておらず、以後鎌倉時代までの歴史も史料を欠いてつまびらかでない。ただ平家落人伝説が各地で語り伝えられ、落人ゆかりといわれる屋敷跡や地名があり、また人形にんぎよう山や金剛堂こんごうどう山は信仰の山として古くから開かれたと伝える。なお応永二〇年(一四一三)一二月一一日の越中国棟別銭免除在所注文(東寺百合文書)に「なしとか いの口方」とみえる「なしとか」は梨・利賀のこととみられ、井口氏が地頭職を有していた。

〔真宗の伝播〕

五箇山の呼称は、利賀村高田家所蔵の永正一〇年(一五一三)一二月五日付の阿弥陀如来絵像裏書に「五ケ山」とみえる。真宗の伝播は井波瑞泉いなみずいせん寺開基の本願寺五世綽如や八世蓮如と現上平村西赤尾行徳にしあかおぎようとく寺にゆかりの深い赤尾谷出身の道宗に負うところが大で、天文五年(一五三六)八月一一日(五ヶ山門徒中宛)・同七年一二月八日(五ヶ山中宛)・同八年一二月四日(五ヶ山惣中宛)の三通の証如書状(瑞願寺文書)や同二一年一〇月二七日の五箇山衆連署申定(生田家文書)によると、この時期にはほぼ五箇山一帯が真宗教団にまとまっていたことが知られる。三通の書状は五箇山門徒から報恩講の志として送られた糸・綿の請取状で、天文五年には糸一〇把・綿一〇把、同七年には糸一二把・綿一一把、同八年には糸一〇把・綿一三屯が送られている。上納がいつから始まったかは不明であり、請取状は右の三年分しか伝わっていないが、この時期には毎年の慣行になっていたのであろう。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「五箇山」の意味・わかりやすい解説

五箇山
ごかやま

富山県南西部、庄川(しょうがわ)上流の地方名。南砺市(なんとし)に属し、岐阜県と境する。「五箇山」の地名は、庄川本流に沿う赤尾谷(あかおだに)、上梨(かみなし)谷、下梨谷、小谷(おたに)と支流利賀(とが)谷の五つの地域からなることに由来する。庄川の本・支流に面した山麓(さんろく)緩斜地、段丘上に約70の集落が散在する。礪波(となみ)平野とは庄川峡、西は細尾峠、小瀬(おぜ)峠などのある山地で隔絶された谷底盆地で、古来平家の落人(おちゅうど)集落ともいわれたが確証はない。この地域は降雪量が多く、耕地が少なく、分家が困難で大ぜいの家族を扶養せねばならなかったこと、養蚕業が行われてきたことなどが、岐阜県白川村とともに合掌造(がっしょうづくり)の特殊な民家を発達させ長く維持させてきた。室町時代、蓮如(れんにょ)の弟子道宗(どうしゅう)(1462―1516)が赤尾谷の行徳(ぎょうとく)寺を中心に浄土真宗の布教に努め、いまも集落ごとに寺または念仏道場があり信仰心が強い。江戸時代は加賀藩領で煙硝の生産地。また藩の流刑地でもあった。現在も田向(たむかい)に流刑小屋が残されている。

 この五箇山のうち庄川流域では、1930年(昭和5)から小牧(こまき)ダム、祖山(そやま)ダム、ついで小原(おはら)ダム、成出(なるで)ダムと発電所ができ、これらの電源開発と道路の開設、そしてその後の国道156号、304号、471号の整備、そして五箇山トンネルの開通により、急速に生活様式が変貌(へんぼう)した。また、東海北陸自動車道の五箇山インターチェンジもある。合掌造の民家は減少したが、残った合掌民家のうち岩瀬家、村上家、羽馬(はば)家の各住宅は国の重要文化財、菅沼(すがぬま)集落、相倉(あいのくら)集落は国の史跡に指定され、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。1995年(平成7)には、白川郷(岐阜県)とともに「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として世界遺産の文化遺産として登録された。このような自然環境下で、古来多くの民謡が発達した。麦や節(むぎやぶし)(麦屋節)、こきりこ節、トイチンサ節はその代表的なもので、民謡の宝庫とさえいわれ、これらは「五箇山の歌と踊」として国の選択無形民俗文化財となっている。この地域は合掌民家、民謡のほか、観光資源が多いため、県内外からの観光客が多く、民宿、菅沼地区のキャンプ場、五箇山青少年旅行村など宿泊施設も整っている。また、文化施設には、利賀民俗館、相倉民俗館、五箇山民俗館などがある。大牧(おおまき)温泉は探勝の基地として利用され、五箇山へは、JR城端(じょうはな)駅からバスが通じる。

[深井三郎]

『『五箇山総合調査報告書』(1958・富山県)』『『五箇山村の民俗』(1970・富山県)』『『越中五箇三村の民俗』(1971・富山県)』『『ふるさと五箇山』(1972・北日本出版社)』『宮崎重美・池端滋著『五箇山』(1974・巧玄出版)』『石崎直義著『越中五箇山』(1983・北国出版社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「五箇山」の意味・わかりやすい解説

五箇山 (ごかやま)

富山県南西部,岐阜県境付近の地域名。行政的には南砺市に属する。庄川上流部とその支流のつくる上梨谷,下梨谷,赤尾谷,小谷,利賀谷の峻険な五つの谷にある小集落群が五箇山の地名の起りをなす。かつては,冬季には豪雪で交通が途絶するため秘境の感が強く,茅葺き屋根の合掌造家屋に象徴される伝統的な生活様式をもっていた。近世加賀藩政下,特別の保護をうけて火薬原料の煙硝,和紙,みの,蠟の生産や養蚕が営まれていた。罪人の流刑地ともされ,平家落人伝説が多く,《こきりこ節》《麦屋節》など民謡の宝庫でもある。大正末期以来大規模な電源開発が行われて近代化が進み,第2次世界大戦後,製炭業や和紙製造なども衰退して大幅に人口が流出し,合掌造も減少して現在では全住宅の約1割にすぎない。国道156号線および304号線が整備されて以来訪れる人も多く,県立自然公園として観光開発が進められた。南砺市の旧平村相倉には国民休養地が,旧上平村菅沼には五箇山青年旅行村が設置されている。なお1995年に〈白川郷・五箇山の合掌造り集落〉として世界文化遺産に登録された。
執筆者:

五箇山は,かつては国境を境に接する飛驒白川村とともに大家族制で知られていた。五箇山の大家族も基本的形態は白川村の大家族と同一であり,戸主および将来の戸主のみが妻と同居する形をとり,次三男は妻と同居していないこと,おじ・おば,兄弟姉妹などの高齢者や結婚適齢者が生家にとどまっていること,および多くの下人を含んでいることなどを特徴としていた。梨谷村の事例では22人で構成される大家族のうち,8人は男女の下人であった。五箇山の大家族は江戸時代後期に始まり,古い起源をもつものではなかったが,現在では分家の増加によって五箇山の大家族は解体し,一般的な直系型家族が支配的となった。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「五箇山」の意味・わかりやすい解説

五箇山【ごかやま】

富山県東砺波(ひがしとなみ)郡平・上平・利賀(とが)3村(現・砺波市)の総称。庄川と支流利賀川の谷に小山村が点在,平家落人(おちうど)伝説があり,加賀藩の流刑地となった隔絶地域であったが,大牧ダム,御母衣(みほろ)ダムなどの電源開発により開けた。合掌造の民家が残存,多くの民謡が伝わり,城端(じょうはな)町(現・南砺市),岐阜県白川村からバスが通じて山間の観光地になっている。
→関連項目大槻伝蔵庄川[町]城端[町]白川郷世界遺産条約

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「五箇山」の意味・わかりやすい解説

五箇山
ごかやま

富山県南西部,飛騨山地庄川上流域にある山村地域。行政的には南砺市に属し,約 70の集落が散在する。長い間ほとんど隔絶された地域で,平家の落人が住みついたと伝えられ,近世には加賀藩のもとで煙硝,藩札,和紙の製造が行なわれ,重罪人の流刑地でもあった。昭和初期から始まった庄川水系の電源開発,道路の整備により,合掌造の民家が減少し,生活様式の現代化が進んでいる。美しい自然景観,合掌造の民宿や,麦屋節,こきりこ節などの民謡・踊りを求めて訪れる人が多い。一帯は五箇山県立自然公園に指定され,合掌造の集落は 1995年世界遺産の文化遺産に登録された。

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世界大百科事典(旧版)内の五箇山の言及

【上平[村]】より

…庄川上流の峡谷と山地を占め,南は岐阜県大野郡白川村に接する。隣接の平村,利賀(とが)村とともに五箇山(ごかやま)とも呼ばれ,典型的な隔絶山村で,近世は加賀藩領であった。大正末から始まった庄川水系の電源開発・道路整備により,人と物資の移動が容易になったが,同時に過疎化が進み,合掌造民家も減少した。…

【利賀[村]】より

…人口1161(1995)。平村,上平村とともに五箇山(ごかやま)と呼ばれてきた。典型的な隔絶山村で,近世には加賀藩の支配下におかれた。…

【富山[県]】より

… 一方,江戸時代以来の歴史をもつ伝統工業が各地で行われている。高岡市の鋳物・銅器(仏像,仏具,梵鐘(ぼんしよう)など)・捺染(なつせん),城端(じようはな)町の羽二重,高岡市・魚津市・城端町の漆器,八尾(やつお)町・五箇山(ごかやま)の和紙,福岡町の菅笠,井波町の木彫(欄間,獅子頭),庄川町の木製品(盆,菓子器)などがそのおもなものである。とくに反魂丹(はんごんたん)などの名で古くから全国に知られ,富山市,滑川市を中心に行われてきた家庭配置薬は,今日でも昔ながらの先用後利の伝統を持続しながら,和漢薬に現代医薬を取り入れて,県経済に重要な位置を占めている。…

※「五箇山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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