前九年の役(読み)ぜんくねんのえき

精選版 日本国語大辞典 「前九年の役」の意味・読み・例文・類語

ぜんくねん‐の‐えき【前九年の役】

平安後期、源頼義・義家親子陸奥の豪族安倍頼時・貞任(さだとう)・宗任(むねとう)親子を鎮圧した戦い実際は永承六~康平五年(一〇五一‐六二)の一二年にわたって断続的に行なわれた。のちの後三年の役(一〇八六‐八七)とともに源氏東国勢力を築くきっかけとなった。

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デジタル大辞泉 「前九年の役」の意味・読み・例文・類語

ぜんくねん‐の‐えき【前九年の役】

永承6年(1051)から康平5年(1062)にかけて、陸奥むつの豪族安倍頼時とその子貞任さだとう宗任むねとうらが起こした反乱を、朝廷源頼義義家を派遣して平定させた戦役後三年の役とともに源氏が東国に勢力を築くきっかけとなった。

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改訂新版 世界大百科事典 「前九年の役」の意味・わかりやすい解説

前九年の役 (ぜんくねんのえき)

1056年(天喜4)から62年(康平5)まで,陸奥守兼鎮守府将軍源頼義と陸奥国の安倍氏の一族との間で戦われた戦乱。古くは源頼義が陸奥守になった1051年(永承6)から62年までの12年間を乱の期間と見て,奥州十二年合戦といわれていた。安倍頼良は先祖以来の俘囚(ふしゆう)(服属した蝦夷(えみし))の長で,奥六郡(伊沢,江刺,和賀,稗貫,斯波,岩手の6郡)の司であったが,早くから国司に反抗的で,〈六郡を横行し,人民劫略(ごうりやく)す〉といわれていた。永承年中陸奥守藤原登任(なりとう)と秋田城介平重成の連合軍がこれを攻めたが,かえって鬼切部(おにきりべ)(現宮城県大崎市,旧鳴子町)で大敗するというありさまだった。しかし1056年武人として有名な源頼義が陸奥守になると安倍頼良はこれに服従し,名前も頼義と同音なのをはばかって頼時と改めた。ところが同年権守藤原説貞(ときさだ)の子光貞・元貞の人馬が何者かによって殺傷される事件がおこり,源頼義がこれを頼時の子安倍貞任のしわざと見て罰しようとしたため,頼時は貞任をかばって反乱を起こすにいたった。翌57年7月安倍頼時は鳥海柵(現,岩手県金ヶ崎町)で戦死したが,その後は貞任が一族を率いて戦い,同年11月の黄海(きのみ)(現,岩手県東磐井郡藤沢町か)の戦では大勝を得るという勢いだった。この戦況を転回させる契機になったのが,出羽国の俘囚長清原武則の参戦である。62年7月武則の援助を得た頼義は,小松柵以下の安倍氏の砦を抜き,9月7日ついに貞任を厨川柵(くりやがわのさく)(現,盛岡市)に破った。貞任は戦死し,降参した宗任(むねとう)らの一族は伊予国と大宰府に流されて,安倍氏は滅亡した。源義家が貞任に〈衣のたてはほころびにけり〉と歌いかけ,貞任が〈年をへし糸のみだれのくるしさに〉とつけたという故事は,この乱の一環の衣川の戦のときのこととされている(《古今著聞集》)。この乱はふつうは俘囚安倍氏の国家に対する反乱とされているが,同時に勃興しつつある武士の私闘の側面をももっており,その実相は複雑である。
後三年の役
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「前九年の役」の意味・わかりやすい解説

前九年の役
ぜんくねんのえき

平安時代後期に起った源頼義,義家による陸奥の俘囚安倍氏討伐戦。当時陸奥6郡を支配し勢力のあった安倍頼良 (頼時) が,国府に貢賦を納めず,徭役もつとめないので,太守藤原登任 (なりとう) ,秋田城介平繁成らはこれを討伐しようと攻めたが失敗したため,朝廷では永承6 (1051) 年源頼義を陸奥守に任じてこれを追討させた。頼良は一時帰服したが,頼義の守任期終了まぎわの天喜4 (56) 年反乱を起し,頼義側の宿営を襲撃して衣川に拠った。頼義は重任して安倍氏征伐にあたり,翌年頼良を敗死させたが,頼良の子貞任 (さだとう) を中心にした安倍氏の結束は堅く,頼義らの苦戦は続いた。しかし出羽の俘囚清原光頼,武則らの応援を得て,康平5 (62) 年ようやく貞任を倒してこの乱を鎮定した。同7年貞任の弟宗任らは伊予に流された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「前九年の役」の解説

前九年の役
ぜんくねんのえき

平安中期の1051~62年(永承6~康平5)奥羽でおきた安倍氏の反乱。安倍氏が俘囚長として自立的な支配を行っていた奥六郡から侵出して,国守と衝突したことが発端。陸奥守兼鎮守府将軍源頼義の着任後,安倍氏はいったん帰順したが,1056年(天喜4)から全面的な戦争状態となった。苦戦をしいられた頼義は出羽国仙北(せんぼく)の俘囚長清原氏の助けをえて,7年後ようやく鎮定。前後12年に及んだことから,十二年合戦ともいう。この戦乱の過程で,源頼義・義家父子と従軍した東国武士団の間の主従関係が強化され,武家の棟梁としての清和源氏の地位安定につながった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「前九年の役」の解説

前九年の役
ぜんくねんのえき

平安中期,陸奥国の豪族安倍氏がおこした反乱(1051〜62)
1056年の源頼義の再征から'64年の京凱旋までの年数を数えてこう呼ぶ。代々陸奥の俘囚 (ふしゆう) の長であった安倍氏は陸奥6郡を支配して強勢を誇ったが,頼時が国司の命に服従せず貢租を奪ったので,朝廷は,1051年源頼義・義家父子にこれを討たせた。頼時は初め帰順したが,'56年再び反乱をおこし,頼時敗死後は子の貞任らが抗戦。頼義らは出羽国の豪族清原氏の援助で,苦戦の末 '62年にようやく乱を平定した。源氏が東国に勢力を築く端緒となった。

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百科事典マイペディア 「前九年の役」の意味・わかりやすい解説

前九年の役【ぜんくねんのえき】

前九年・後三年の役

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世界大百科事典(旧版)内の前九年の役の言及

【源頼義】より

…そのため朝廷は頼義に安倍氏追討を命じ陸奥守に再任。翌57年,安倍頼時は討たれたが子の貞任(さだとう),宗任(むねとう)が頑強に抵抗,62年(康平5)清原武則の援を得て頼義はようやく貞任を討ち,宗任を捕らえて乱を平定した(前九年の役)。63年戦功により正四位下伊予守となる。…

【陸奥話記】より

…1巻。11世紀の中葉に,陸奥の俘囚(ふしゆう)の長であった安倍頼時・貞任父子が起こしたいわゆる〈前九年の役〉の顚末を,その鎮定に活躍した鎮守府将軍源頼義の功業を中心に叙述したもの。奥六郡に威を振るう俘囚の長安倍頼時が,1051年(永承6)に衣川(ころもがわ)の南に進出し国守藤原登任(なりとう)に叛いて乱をなしたことから説き起こし,源頼義が勅命を受け陸奥守・鎮守府将軍としてその平定に当たり,12ヵ年におよぶ辛労の末,出羽の豪族清原武則の協力を得て,1062年(康平5)に安倍氏の最後の拠点である厨川(くりやがわ)の柵を陥れ,ようやくこれを鎮圧するに至るまでの経緯を,漢文で実録的に描いている。…

※「前九年の役」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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