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デジタル大辞泉
「石狩平野」の意味・読み・例文・類語
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石狩平野
いしかりへいや
北海道中央部南西寄りに位置し、石狩川下流域の広大な平原と、その北に延び石狩川中流域を占める空知の低地帯とからなる。北海道の胴体部と南西半島部とを分ける札幌苫小牧低地帯(石狩勇払低地帯)の北半部にあたり、南半部にあたる勇払平野とは支笏火山からの軽石流台地によって隔てられている。石狩川には雨竜川・空知川・夕張川などの重要河川が合流し、石狩平野はそれら河川が造った沖積平野や河岸段丘などからなり、札幌の主要部が位置する豊平川扇状地などを除けば、規模の大きな扇状地は少なく、最近まで広大な泥炭低湿地が多数分布していた。最後の氷期が終わったのち海進が進み、今から七〇〇〇年前頃には石狩湾は岩見沢近くまで入り込む奥深い湾入となっていた。現在の石狩湾岸から五キロほどを隔てて、海岸に並行して走る紅葉山砂丘はその湾口をふさいでいた砂洲である。石狩川などによって運ばれた土砂がしだいに湾を埋め、その後の海退により海岸線は後退し、かつての内湾部も自然堤防と後背湿地の分布する三角洲地帯となった。この後背湿地に泥炭が堆積し、とくに美唄以南の石狩平野南部には篠津原野・美唄原野・幌向原野・長都原野など大規模な泥炭湿原が多数形成された。
石狩平野の開拓は明治初年の開拓使設置以降のことで、渡航費・営農費を支給して貧窮農民の移住を促すなどの施策を講じたが、みるべき実績を上げたのは、明治五年(一八七二)石狩郡当別(現当別町)に入植した旧仙台藩主伊達氏一族で岩出山(現宮城県岩出山町)のもと領主伊達直邦が率いた旧家臣団や同八年以降札幌周辺の四ヵ村に入植した屯田兵村などに限られ、地域的には平野の南西部にとどまっていた。
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石狩平野
いしかりへいや
北海道中西部,石狩川の中流から下流に広がる平野。面積約 4000km2。石狩振興局,空知総合振興局の所管区域にまたがる北海道第1の広い平野で,石狩川とその支流の夕張川,千歳川,豊平川などの沖積平野とそれらの上流域の扇状地からなる。東側は南北に通る夕張山地に接し,南側は 24mほどの分水嶺で勇払平野に続き,南西部は手稲山から樽前山にいたる火山帯の山麓部で区切られる。古い石狩平野の海岸線はかつて銭函,札幌,江別,当別を結ぶ線であったが,石狩川の運搬した土砂が石狩湾の沿岸流によって海岸部にかぎって堆積したため平野が拡大したものとみられる。札幌市北部の数条の浜堤列(→浜堤)は石狩平野の生成の記録。蛇行の激しい石狩川はしばしば氾濫して,自然堤防や三日月湖,谷地と呼ばれる後背湿地などが発達。低湿地では湿原植物の遺骸や樽前山,恵庭山,有珠山など諸火山の噴出物を含んだ土壌が泥炭地を形成し,排水困難な悪土として知られる。1875年最初の屯田兵村が札幌郊外の琴似地区,山鼻地区に設置されて以来,開拓民はこの泥炭地開発に取り組み,イネ,タマネギ,ゆり根などを栽培した。1920年頃から石狩川の治水事業とともに排水,灌漑,客土など土地改良を含む総合開発事業が行なわれた。その結果秩父(ちっぷ),美唄,篠津,幌向(ほろむい),生振(おやふる)などの大原野が水田地帯に生まれ変わった。第2次世界大戦後も開発事業は継続され,今日では北海道の水田面積の約半分を占める。100万都市札幌市のほか,江別市,岩見沢市,美唄市,砂川市など中小都市も十余を数える。北海道の政治,経済,文化の中心地域をなす。
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石狩平野
いしかりへいや
北海道中西部にある平野。北海道の胴体部と西部の半島部を接合する面積約4000平方キロメートルの低平地をいう。平野の成因は、空知(そらち)、樺戸(かばと)両山地を背斜とする向斜部に石狩川やその支流が沖積し、さらに下流部は石狩川のもたらした土砂と沿岸潮流による砂丘列で形成されたと考えられる。河川は平野の中を自由蛇行して、多くの三日月(みかづき)湖や自然堤防、泥炭地を形成する後背湿地を残している。
平野の開拓は、自由移民のほか、1875年(明治8)以来屯田兵による入植が大きな役割をもち、都市には屯田兵村に起源をもつものが多い。最近でも北海道総合開発の一環として、泥炭地の土地改良が進められ、本地域農業の基盤が安定化している。米作のほか、畑作、酪農も盛んで北海道一の高生産をあげている。札幌市は石狩平野南西部の一角を占め、地域全体を商圏化する事実上の札幌圏を形成している。そのことはJRの函館(はこだて)本線、札沼(さっしょう)線や各支線が札幌を指向、また、国道12号、道央自動車道をはじめ、主要道路が札幌をその起点としていることも大きな要因となっている。岩見沢、滝川、深川の諸都市は地域農村のセンターであると同時に、札幌への中継地の役割をもっている。小樽(おたる)市は石狩平野の大部分を後背地にし、苫小牧(とまこまい)市が一部を担当しているといえよう。
[奈良部理]
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石狩平野【いしかりへいや】
北海道中西部,石狩川中・下流部に広がる平野。面積約3800km2。石狩川が地溝帯を埋積した沖積平野で,南は勇払(ゆうふつ)平野に接する。石狩川が蛇行する中央部の低湿な泥炭地はしだいに水田化された。低地の排水のよい地域や台地では農業開発が進み,米,ジャガイモ,トウモロコシなどを多産し,牧畜も盛んな道内第1の農牧地を形成する。札幌,岩見沢,江別などの市街が発達,北海道の産業,文化の中心地になっている。
→関連項目当別[町]|沼田[町]|北海道
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いしかりへいや【石狩平野】
北海道西部にある日本屈指の大平野。面積約3800km2。石狩川とその支流雨竜川,空知川,夕張川などがつくった沖積地と,千歳川,豊平川などがつくった扇状地からなる。西は日本海に面し,南は後志(しりべし)の火山性台地,樽前火山麓,東は夕張山地,馬追丘陵,北西は増毛山地に限られている。札幌はじめ江別,千歳,岩見沢,滝川,深川などの諸都市が立地し,広大な水田地帯が展開し,全道の1/3をこえる200万以上の人口を擁して北海道の中核地帯を形成している。
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世界大百科事典内の石狩平野の言及
【北海道】より
…開拓使はケプロンら主としてアメリカから顧問・技師を招き新技術の導入をはかり,札幌農学校を創設(1876)してクラークら外人教師による農業技術者新指導層の養成を行った。石狩平野の開拓と幌内(ほろない)炭鉱の開発は1882年手宮(小樽市)~幌内(三笠市)間の幌内鉄道(現,函館本線など)が全通して急速に進んだ。移民の来住のため多額の費用が投ぜられたが成果は不十分であったため,入植士族団の成功に範をとり,規律と団結を基礎とする屯田兵制度を採用して成果をあげた。…
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