一般的な概念としては一国家,一民族,一部族などの最高支配者のことをいう。小規模な共同体の首長から強大な王国の支配者まで,世界史上,さまざまな王の類型が存在するが,通常,複数の国家の最高支配者とされる皇帝とは区別される。歴史的にみれば,古代の諸民族は国家形成の時期には王によって統合・支配されるのが普通で,ギリシア,ローマの都市国家でも形成期の段階では,戦士貴族のうち,〈同等者中の第一人者〉が王となった。一般的に,王の性格は,王国がよって立つ共同体のあり方と,その対外的・国際的関係(軍事・外交)という二つの側面から規定されるといえよう。王が,国内の共同体や政治社会に対しては,神もしくは最高の祭司,呪術者として宗教的権威をとなえ,他方,対外的には共同体の軍事的統率者として現れるのは,古代オリエント諸国からゲルマン諸民族の王まで共通している。また,《魏志倭人伝》にみえる邪馬台国の女王卑弥呼が,魏に使者を送り貢物を献じてその保護を求める〈外交〉を試みる一方,国内に対しては〈鬼道に仕えてよく衆を惑わす〉巫女として君臨するという二つの顔を持っていたのも,このことを示している。
共同体を支配し代表する資格を王に付与するのは王権である。王権は,共同体全体の意識と実際の政治社会を結合する。王権は共同体の創性やその宇宙的構造についての祭式や神話を持つが,即位式を中心とする儀礼を通して王は王権の化身となるのである。ここでは,アフリカの王国を例に,王の性格と儀礼を詳細に分析し,ヨーロッパ,中国の〈王〉の呼称と意味について考察する。日本については〈天皇〉の項を参照されたい。なお,日本語としての〈王〉は別項で記述した。
執筆者:編集部
アフリカ
未開社会については,王と皇帝の区別は必ずしも明確ではない。それは政治単位の不明確さ,国家をつくる場合の各単位の組織段階(つまり国家とか民族とかいった概念が使えるかどうか)の不明確さ,規模の小ささ,組織度の低さなどからくるものである。たとえば,ビクトリア湖の西(現在のウガンダ)には,イギリスが植民地とする以前に,遊牧民が農耕民を征服した国家がいくつかあったが,それらは単に〈征服国家〉〈征服王国〉と記述されるだけで,決して〈帝国〉とは呼ばれない。最高支配者も皇帝とはいわず王といわれる。しかし,西アフリカの広大な地域をその領土とした13~15世紀のマリ,15~16世紀末のソンガイは,いずれも〈帝国〉であって,一般に〈王国〉とは呼ばれない(そのように記述するものもないわけではないが)。その最高支配者は皇帝といわれる。ここでは王を,従来の意味より広い意味をもったものとして扱う。つまり国家,民族,領土が一つか複数かにかかわらず,その最高支配者を王とし,皇帝も当然王のなかに含められることになる。
王は必ずしも国家諸権力の実権を握っているわけではないが,少なくともそれらを統合する者である。そしてこの力は宗教的権威をもつことに帰着する。外在する超自然的な力をもって集団を統合する力とするのであり,この点では未開社会の王(同時に世俗的実権の掌握者である場合がほとんどだが)も立憲君主制における王もそれほど差異はない。
王の統合力ないし支配力を支えるものはまず,ほとんどの王制にみられる世襲制である。王は,日本の天皇がもつ〈三種の神器〉にあたるものをもたなければならない。たとえばアフリカにおいては,太鼓であったり(ウガンダのアンコーレ王国),床几であったり(ガーナのアシャンティ王国)する。しかしそれは,奪取すれば,その奪取した者が王の位に就くことができることを意味しない。これを受けるには資格が必要なのであって,それが〈血のつながり〉なのである。そして〈血のつながり〉は,王国の創始者や栄光の時代を築いた者,つまり力のあった祖先とのつながりを意味する。〈血のつながり〉自体は生物学的に跡づけることができる問題であるが,実はそのつながりによって〈祖先の力を持ちつづけることができる〉という信仰が確立しており,世襲制はこの信仰の具体的表現といえるのである。
もう一つは,王が超自然的な力と人間との媒介者たる性格をもっていることである。たとえばアフリカでは,それは卓越した雨乞師であったり(ローデシアのロベドゥ族)するが,こうして超自然的な力に一定の仕方(儀礼など)で訴えかけることによって,みずからが支配する人々に幸福をもたらすのである。しかし王は外在する超自然的な力を背景にしたり,利用したりするだけではない。むしろ王はそうした力をみずからの身体に内在させ,その力と同一化して,なおいっそう強い支配力をもつことができる。
一般に王が世襲されてゆくことは上述したが,いっそう詳細な分析がこの点の理解に役立つ。たとえばウガンダにあったアンコーレ王国では,王の死後(実際には自然死を待つのではなく殺される。後述),息子たち(王には多数の妻がおり,そのすべての息子が王位有資格者である)が王位継承戦争を行う。ルールなどない。とにかくライバルになっている相手(腹違いのものもあるがすべて兄弟)を殺してゆく。そして最後に残った一人が王位を獲得する。死をかけたトーナメントであって,残酷なやり方だが,ここには,祖先の栄光ある力に最も近似した力をもつ者こそ,この祖先の力を実現できる者,という考え方が秘められている。
またフレーザーの《金枝篇》でひじょうに有名になった〈王殺し〉慣習もある。これは,王が自然死を待つことなく,人為的に死を迎えなければならぬという慣習で,未開社会に数多く見られる。みずから毒を呷(あお)って死んでゆく場合もあるし(ウガンダのブニョロ王国),側近や妻が毒を盛ったり(アンコーレ王国),首を締めたり(ローデシアのロズウィ王国),小屋に食物なしで閉じ込めたり(スーダンのシルック王国)して殺す場合もある。いずれも,王が肉体的および精神的に衰えを見せ始めたり,不治と思われる病にかかったり,重傷を負ったりした場合にこのような処置がとられる。栄光をもって国を治める祖先の力が,このような状態の王の身体に入っていることはできないというのが彼らの考えである。したがって王は死に至らしめられねばならないのであり,同時に上述したように祖先の力を宿すことのできる活力のある人間が選ばれなければならないのである。
同じことは即位式にも現れる。西アフリカのイフェ王国やジュクン王国では,即位式に際して,新王は先王の内臓の一部を食べる。この行為は内臓に祖先の力が宿るという考え方に基づいており,この〈食人〉を通して,祖先の力が先王から新王へと,宿る身体を換えるのである。一方新王はこれによって支配する力をもつのである。また上述したアシャンティ王国やシルック王国の床几は,王位の象徴であると同時に,こうした祖霊の憑依(ひようい)の媒介をするものとしても使われている。即位式のとき,新王が,祖先の力を宿しているという床几にすわることによって,その力を身体に宿すと考えられているのである。
王はこのような形で活力をもつことになる。この活力は王個人のための活力ではなく,国全体のための活力であり,したがっていろいろな形で保護され,その力の減退が防がれなければならない。フレーザーがやはり《金枝篇》で指摘していることだが,王は多数のタブーに取り囲まれている。こうしたタブーは王のもつ活力を保護し,その力の減退を防ぐ目的をもっている。王の即位前の名を呼んではならぬ,臣下が王の身体に触れてはならぬ,王の身体の部分およびその行動を日常語で言い表してはならぬ,王は食事の際,他人に見られてはならぬ,食事の余り物を俗人が食べてはならぬ,といったタブーがある。いずれも俗人から厳格に切り離されることによってその活力を守ろうとする考え方の表れといえる。
王が宿すこの活力は強大である。それはあまりに強大すぎて,場合によっては俗人の生活を破壊することもある。そうした考えに基づき,その力が直接俗人の生活に触れぬようにしている慣習もまたタブーとして現れる。たとえば,王が裸足で歩くとその力が大地に及び,作物を枯らしてしまうという考え方はアフリカに広く見られる。ジュクン王国,北コンゴのブションゴ王国などがその例であるが,前者では定まった履物をはかなければならず,後者では王は臣下の肩の上に乗って歩かなければならぬタブーとして現れている。このタブーはアフリカ以外にもあり,タヒチでも王は臣下の肩の上に乗って移動しなければならない。しかしタブーには別の意味もある。ルワンダ王国(現,ルワンダ)の王には〈ひざを曲げてはならぬ〉タブーがある。それは〈国がなえる〉ことを意味するからである。ここには王=国家という考え方を認めることができる。このことから,上述の〈王殺し〉も,〈王の衰え〉を〈国の衰え〉と把握している面もあることが理解できよう。王は祖霊を宿し,祖先の力そのものになるばかりでなく,国そのものの象徴という一面ももつのである。
以上のように,王は単に最高支配者というにとどまらない。王は人々が生を営む地上の力の源泉であり,国家そのものでもある。言い換えると王は宇宙論における地上の中心であると同時に,国家という小宇宙を象徴するものでもある。したがって王はみずからの行為(特に儀礼行為)において宇宙のさまざまな原理を明らかにするし,人々は王を通してこれらの原理を理解し,みずからのものとする。たとえば,王の即位式に行われる顕著な儀礼の一つに,創世神話の再現がある。シルック王国においても,ブガンダ王国(現,ウガンダ)においてもこれが見られる。この儀礼は,新王の即位が,単なる即位と祖霊の体現にとどまらず,栄光ある創世への回帰を意味する。エリアーデの表現を使うと,すべてが始まる〈かの時〉に戻るのである。かくして王はこの儀礼を通して,人々がもつ時間観念を彼らの前で示すことになる。彼らにとって時間とは流れる一方ではなく,汚れ,力を失ってはまた新たによみがえる,その繰返しなのである。同じような王の再生儀礼が,ジュクン王国では3年ごとに行われていた。ここでは王など聖なるものが入る空間と,それ以外の俗なる空間という二つの対立する空間に分けたうえで儀礼が行われ,通常入ってはならぬ女性が,この儀礼のときだけは聖なる空間に入って王のよみがえりを導く。つまり,聖俗,男女という,世界の二元対立原理が表現され,それが人々に確認されるのである。このように王は,いずれなくなるべき封建的支配者とばかりは言いきれず,人間の生の営みの源泉と同時に原理をも示す側面をもっているのである。
→権力 →支配
執筆者:井上 兼行
ヨーロッパ
ヨーロッパで,国家の支配者としての〈王〉を意味する称号は,古代ギリシア,ローマから,多くの語が用いられた。支配者がみずからを何と称するかは,被支配者に対する関係だけでなく,対外的意味も含め,王権のあり方にかかわる問題であった。これらは,語源のうえからは,つぎのようにまとめることができる。
(1)ラテン語の,〈ひきいる〉〈おさめる〉を意味する動詞regereの語幹reg-からつくられた,たとえばラテン語のrex,ゴール語の-rix(ただし合成語,たとえば,人名Ver-cingeto-rixの構成部分として),現代フランス語のroi。(2)王をあらわす古典ギリシア語のbasileus,現代ギリシア語のbasiliasは,語源が不明で,先ギリシア時代にさかのぼると推定される。ビザンティン帝国ではバシレウスbasileusが皇帝の意味で用いられた。(3)古代アイスランド語のkonungr,古代英語のcyning,現代英語のking,現代ドイツ語のKönigなどの語幹kunは,たとえばゴート語kuniからも明らかなように,〈家系〉〈家族〉を意味する。すなわちこの場合,王とは,家系を代表し,その長たる者を意味する。(4)後期教会スラブ語kral'iをはじめとし,現代スラブ諸語の類似語,たとえばセルビア・クロアチア語のkraljは,語源的に古高ドイツ語のkarl,すなわち,スラブ諸民族と衝突し,彼らによって当時の大王とみなされた,カロリング朝フランク王国の王カール大帝の名前に由来する。
一方これに対し,〈皇帝〉の称号が,中世ヨーロッパでは,王に優越するものとして用いられた。
→皇帝
王国の歴史的構造については,時代によって,また国,地域によってもそのあり方は多様でそれぞれの特質をもっている。これらについては〈封建国家〉〈身分制度国家〉〈絶対王政〉〈立憲君主制〉〈君主制〉などの項目を参照されたい。
執筆者:渡辺 金一
中国
中国で〈王〉の称号を用いた例の歴史的に最も古いものは殷王朝の君主たちである。文献上は殷の前に夏王朝があり,その以前には三皇五帝という〈皇〉や〈帝〉と称する君主がいたと述べるが,後世から理想の君主として観念的に作られた説話である。殷王は〈帝〉という至上神を祭り,農作,狩猟,戦争などの結果の吉凶を亀甲や獣骨を焼いて生ずるひび割れの形によって占い,政治を指導し,政治の主宰であるとともに国家祭祀の司祭者として,華北を中心に散在する部族的国家に君臨していた。殷を滅ぼした周の〈王〉は封建された諸侯の宗家(総本家)の位置を占めたが,〈王〉は正上を支配する〈帝〉の命をうけ,その子すなわち天子として地上を支配するものと観念され,王が天に対して責務を怠ると,天帝は改めて有徳の他の者に命を与えて王とし,王朝の革命がおこると考えられ,その天命は人民の総意によって表されるとする易姓革命の考えがあらわれ,易姓革命を肯定する〈王道〉思想は,戦国時代の儒家の間で理論化されて旧中国の政治思想の骨格となった。西周の王権が衰退して春秋時代になると,南方の蛮夷である楚,呉,越などは王と称するようになり,ついで戦国時代に入ると七つの強国はいずれも王の称号を用い,もはや王は司祭者ではなく,政治的君主になった。秦王政(始皇帝)が7国を統一するとみずから〈皇帝〉という称号を創始した。秦が滅ぼされたとき,項羽,劉邦らはそれぞれの領地において〈王〉となり,楚・漢の争いの後,劉邦は同格の諸王に推戴されて〈皇帝〉となった。これ以後〈皇帝〉は〈王の王〉の位置をしめ,漢以後清にいたる歴代王朝では,皇帝の一族や功臣たちが〈王〉に封ぜられたし,中国周辺の蛮夷の君長も王を称することが認められ,あるいは王号を授与された。ただ皇帝支配下の王は,国家としての独立性をもつものではなく,皇帝権力に従属する存在にすぎなかった。
執筆者:大庭 脩