大福寺(読み)だいふくじ

日本歴史地名大系 「大福寺」の解説

大福寺
だいふくじ

[現在地名]三ヶ日町福長

福長ふくなが地内中央南寄りにある真言宗寺院。山号は瑠璃山、本尊は木造薬師如来坐像(県指定文化財)

〔創建など〕

寺伝によれば、貞観一七年(八七五)おうぎ(当地北方の富幕山の近く。なお一書には鳳来山ともある)に創建された幡教ばんきよう寺が当寺の前身で、承元元年(一二〇七)土御門天皇の勅により明性を住僧として当地に移し、大福寺と改められたという(遠江国風土記伝)。確実な初見は、承元三年一〇月に浜名神戸司の大中臣時定が先祖相伝の領地であった浜名神戸北原きたはら御薗内の地を「大福寺」の寺領として寄進したというもので、寺領の四至は東が直木山たたきやま路以西の小路、南が石仏山本、西が竈谷沢、北が経峰であった(「大中臣時定寄進状写」大福寺文書、以下断りのない限り同文書)。文永一二年(一二七五)一月には斎宮堂(初生衣神社の前身か)造立に当寺が協力した(「棟札銘」初生衣神社蔵)。創建後の当寺は、寄進・買得による寺領の拡大に努めていた。建治三年(一二七七)四月一七日、浄心が浜名神戸内の大溝里六坪にある名田一段の給主職を買得のうえ寄進している(浄心寄進状)。弘安四年(一二八一)九月二八日には浜名神戸司代官戒阿より寺内検断を認められており(浜名神戸司代官戒阿奉免状写)、それを受けて翌年二月九日には伊勢神宮が当寺に寺内検断および殺生禁断を認めるので下知するよう浜名香王に命じている(寂禅奉書写)

〔摩訶耶寺との本末相論〕

当寺が自立化を強め、土地集積により勢力を拡大するに伴い、同じ真言宗寺院の摩訶耶まかや寺に危機感を与えたようで、両寺間で長期にわたり本末相論が繰広げられることとなった。北条時房の遠江守護在任期である暦仁元年(一二三八)から仁治元年(一二四〇)頃と思われる時期には相論が始まっていたようで、時房は由緒がみえないことを理由に大福寺側の主張を受入れ、摩訶耶寺が当寺を末寺として扱うことを停止している(年月日未詳北条時房下知状写)。本末相論が本格化したのは弘安―正応年間(一二七八―九三)のことで、弘安七年三月六日に伊勢神宮は浜名香王に対し、摩訶耶寺の舎利会に当寺の舞童を遣わして法会の遂行を図り、本末相論を停止させるよう命じている(寂禅奉書写)。同八年一二月一三日、伊勢神宮は当寺が提出した陳状の主張を認め、摩訶耶寺の訴えを偽訴と決した(宗直奉書)。その際の当寺の陳状によれば、摩訶耶寺は当寺を末寺と号して舎利会に必要な舞童を押え取り、先に土御門殿から得ていた末寺扱い停止の裁許にも従わず、今回さらに舎利会頭役を勤仕するよう当寺に強要したという(同年一二月日大福寺住僧等陳状写)


大福寺
だいふくじ

[現在地名]広陵町大字的場

的場まとばの中央にある。満嶋山と号し、高野山真言宗。本尊は薬師如来。寺伝によれば、聖徳太子建立の広湍ひろせ(広瀬)寺の後身という。江戸時代には高野山多聞たもん院の末寺で、その寺地は約五〇〇メートルを隔てて東・北(西)の二寺からなっていた。三〇石の朱印寺で、慶長七年(一六〇二)八月六日の徳川家康の朱印状をはじめ、歴代将軍の朱印状が残っている。「大和志」には正堂二宇・鐘楼・浴室・僧舎六宇とあるが、その後は少し衰微したらしく、明治初期の図面によれば、北寺に本堂・鐘楼・天満天神社・持宝じほう院・あたらし坊、東寺(旧箸尾中学校敷地)大師だいし堂・阿弥陀堂・鐘楼・白山神社・智恵光ちえこう(塔頭)・墓地を存するのみ。


大福寺
だいふくじ

[現在地名]山陽町大字厚狭 加藤

厚狭盆地を南流する厚狭川の東、東西に貫通する旧山陽道の北、加藤かとう(河東)にある。浄土宗で九品山と号し、本尊は阿弥陀如来

「寺社由来」によれば、往古真言宗神護じんご庵といい、厚狭市の鴨あさいちのかも大明神(鴨神社)の社坊であったが、洞蓮社休誉心哲を開山として浄土宗に変わり、九品山花迎院大福寺と改めたとあり、心哲は万治二年(一六五九)没という。「注進案」では、寛永八年(一六三一)の建立とし、同寺境内の観世音菩薩と弁財天を開帳仏としている。

なお、京都五山天龍てんりゆう寺塔頭妙智みようち(現京都市右京区)の僧で、大内氏の勘合貿易船の使節として入明した策彦周良の記録「策彦和尚入明記初渡集」の、天文一〇年(一五四一)七月、赤間関あかまがせき(現下関市)から山口(現山口市)へ向かう途中の記述に「申刻着浅郡宿于大福寺、寺即時宗游行上人門派也」とみえるが、現在の大福寺の記録に当時時宗であったことはみえず、同名異寺とも思われる。


大福寺
だいふくじ

[現在地名]豊富村大鳥居

大鳥居おおとりいの最も山寄りの集落にある。飯室山と号し、真言宗智山派。往古は円楽えんらく(現中道町)末であった。本尊は聖観音。開創は天平一一年(七三九)と伝えるがつまびらかではない(寺記)。その後光厳(飯室禅師)によって再建される。光厳は武田信義嫡男一条忠頼の子と伝える(尊卑分脈)。飯室山と号するのは光厳の造立により名付けたものと伝え、飯室の観音ともよばれていた(甲斐国志)。建暦年間(一二一一―一三)浅利与一義成が伽藍を修築し、寺領を寄進したといわれ、義成の位牌が伝わる(東八代郡誌)


大福寺
だいふくじ

[現在地名]伊万里市南波多町原屋敷

大野おおの岳の東南、井手野いでの盆地を流れる原屋敷はらやしき川の右岸にあり、北部に新久田あらくた城跡のある標高一〇八メートルの丘陵を望む。山号は指月山。真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。寺宝として地蔵尊坐像がある。

文化五年(一八〇八)七月第一一世霊恩代が大庄屋に提出した文書に「当寺開基は法名宗昧と申す者なり。宗昧実父の法名行念と申せしが(中略)当村村上みに一庵を結び居りしに、行念の実子宗昧に当山の院主地蔵菩薩より度々の御告、当地は至つて仏法有縁なるゆえ今の堂場をうつすべしとの霊告を蒙りしによつて、御告にまかせ開基、此地に一宇を建立し、東本願寺第十三代宣如上人御代寛永十二乙亥暮初冬七日寺号木仏等御免を蒙り、夫より専ら弘法教尊なし」とある。


大福寺
だいふくじ

[現在地名]大野村棚木

棚木たなきの東の台地上にある。補陀洛山庫蔵院と号し、真言宗豊山派。本尊は十一面観音。源平の合戦で悪七兵衛と称され、勇名をはせた平景清の娘人丸が父の命により合戦の死者を弔うため創建したと伝える。人丸は創建に際して剃髪し妙庫比丘尼と改め、父より手渡された観音菩薩像を木で棚を作って安置したという。


大福寺
だいふくじ

[現在地名]安堵町大字笠目

富雄とみお川東岸に位置。無量山と号し、融通念仏宗。本尊阿弥陀如来は鎌倉時代の作。もと当寺南方の御霊ごりよう神社の神宮寺であった。神宮寺時代の本尊木造地蔵菩薩立像(平安前期)は国指定重要文化財。


大福寺
だいふくじ

[現在地名]稲沢市儀長町 寺通口

八神やがみ街道の南にあり、日輪山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊阿弥陀如来。境内五八五坪。慈泉を開基とし円光大照(滅宗宗興)を開山とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「大福寺」の解説

大福寺

三重県名張市にある寺院。高野山真言宗。山号は朏實(ほつじつ)山、院号は不空院。元亀年間の開創と伝わる。本尊は大日如来。三重四国八十八ヶ所霊場第44番札所。

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