如意寺(読み)によいじ

日本歴史地名大系 「如意寺」の解説

如意寺
によいじ

[現在地名]西区櫨谷町谷口

櫨谷はせたに川中流東岸に合流する小支流谷奥にある天台宗寺院。比金山と号し、本尊地蔵菩薩。貞応三年(一二二四)正月二二日の延暦寺政所下文案(如意寺文書、以下断らない限り同文書)によれば一〇世紀初め頃の願西の建立で、当初寺域は東西一六町・南北一二町の深山にあり、のち比叡山延暦寺東塔北谷の末寺となったという。しかし創建当初の伽藍配置本堂常行堂からなる法界寺型で、一二世紀後半の創立が指摘される(兵庫県史)

貞応二年一二月日の播磨国司庁宣で国役が免除され、国衙使の入部が停止された。正応元年(一二八八)一〇月二七日大法師仙覚は執務掟書(三ヵ条)を定めた。毎年寺領への課役は油一斗(代一貫文)に限定すること、寺僧らのなかで権力者に頼ったり賄賂を使うなどによって濫訴を企てたとしても、それが道理のない訴えであれば叙用しないこと、もしそのような訴えがあった場合は全山の群議により反論すべきこと、さらに住僧や寺領に迷惑が発生したときは寺家として訴えをなすこと、公家・武家に裁判が持込まれたとしてもまかせてしまってなおざりにしないこと、以上の三ヵ条である。


如意寺
によいじ

[現在地名]豊田市力石町 黒見

山号は楽命山。真宗大谷派に属し、阿弥陀如来を本尊とする。寺伝に、承久元年(一二一九)親鸞聖人六老僧の一人源海の開基した武蔵国満福寺が、正中二年(一三二五)花本はなもとに移り貞和期(一三四五―五〇)枝下しだれへ、慶長六年(一六〇一)力石ちからいしに移るという。寺蔵の文和三年(一三五四)銘の絹本著色親鸞上人絵伝(国指定重要文化財)添状には、

<資料は省略されています>

とあり、高橋たかはし庄志多利郷の名がみえる。


如意寺
によいじ

[現在地名]久美浜町 西本町

宝珠山と号し、高野山真言宗、本尊十一面観音。

もと久美浜湾の西、宝珠ほうじゆ山の山腹にあったが、昭和三九年(一九六四)現在地(同寺の日切不動尊の祀られていた飛地)に移り、続いて同五一年山門・本堂を移した。

天平年中(七二九―七四九)行基が当地に滞留中、宝珠山上から火が出て海に入り、また海から火が山に登るのを見た。不思議に思い海士に網を引かせたところ如意宝珠を得たので、この山に寺を建てて納め、宝珠山如意寺と名付けたと伝える(宝珠山記録)


如意寺
によいじ

[現在地名]知多市佐布里 地蔵

雨宝山と号し、真言宗豊山派。本尊は地蔵菩薩。雨宝山の本堂で、廃仏毀釈で本坊正法しようぼう院の旧号如意寺を称する。元暦元年(一一八四)後鳥羽天皇の勅願所として建立。応永年間(一三九四―一四二八)に再建された本堂は市内最古。平朝臣宗宣寄進による明応七年(一四九八)の銘のある鰐口、明徳元年(一三九〇)から応永八年に及ぶ写経大般若経六〇〇巻がある。


如意寺
によいじ

[現在地名]緑区鳴海町 作町

頭護山と号し、曹洞宗。本尊地蔵菩薩。如意寺縁起(愛知県立図書館蔵)によれば、康平年中(一〇五八―六五)の頃藤原元命の家臣為家入道(称運道開)が現在地の北、古鳴海こなるみ付近に七堂伽藍を築き、火難除の地蔵としてあがめられ、青鬼と書いた的を射る流鏑馬を行う祭礼があったという。一時廃寺となったが、弘安四年(一二八一)無住国師によって現在地に再興された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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