安穏寺(読み)あんのんじ

日本歴史地名大系 「安穏寺」の解説

安穏寺
あんのんじ

[現在地名]結城市結城 鍛冶町

鍛冶かじ町西部に所在。結城山と号し曹洞宗本尊阿弥陀如来釈迦如来薬師如来の三尊。応安四年(一三七一)源翁心昭を開山、結城直光を開基檀越として成立したと伝えられる(日本洞上聯灯録)。二世の大仙英仲の時、享徳三年(一四五四)に結城成朝が多賀谷朝経に宛てた書状(安穏寺文書)に「安穏寺跡之事、英ママ和尚之会下、可被造立由之間、彼地寄附不可有相違候、万一律院等再興之儀候者、以改代可付沙汰候、於此所者、尤禅宗之繁昌所仰候」とあり、律院の再興を否定しているので、源翁以前の当寺は律宗寺院で、この頃になっても律院の再興を図る動きがあったのであろう。


安穏寺
あんのんじ

[現在地名]桜川村阿波

台地上にある。竜華山慈尊院と号し、天台宗。本尊は弥勒菩薩。寺伝によれば、神護景雲年間(七六七―七七〇)霞ヶ浦で難破して阿波あばに上陸した勝道が創建し、延暦一五年(七九六)快賢が堂宇建立という。大杉おおすぎ神社の別当を勤め、宝徳四年(一四五二)三月一九日注記の檀那門跡相承資并恵心流相承次第(逢善寺文書)に「常州東条庄阿波安穏寺亮栄法印、当流名誉ノ学匠ニテ御座セハ、近国(之)隣庄ノ所化集リ、西ハ志々塚、北ハ古渡・佐倉、東ハ嶋須田、南ハヲシズナ・マガ淵迄、旦那ヲ取リ、所化不知数」と繁栄の様子が記される。慶長一七年(一六一二)幕府から阿波村内に二〇石の朱印地を与えられ(寛文朱印留)、享保年間(一七一六―三六)と寛政年間(一七八九―一八〇一)に火災にあっている。


安穏寺
あんのんじ

[現在地名]峰山町字長岡

長岡ながおかの北方にある。山号瑞雲山、臨済宗天龍寺派、本尊薬師如来・釈迦如来。

寺伝によれば、中世、長岡の小字金田きんだの地に途中山竹林ちくりん寺という塔頭一〇ヵ寺余の寺があり、その塔頭の一つに安穏寺があった。もとの所在地は小字しもたにの寺屋敷であったが、同じく竹林寺の塔頭であった薬師寺が荒廃したため薬師寺跡に移転したという。その後衰微していたのを寛永五年(一六二八)来翁が再建して曹洞宗から臨済宗に改宗した(峰山郷土史)。峯山明細記には峯山全性ぜんしよう寺末とある。

境内に板垣信保碑がある。


安穏寺
あんのんじ

[現在地名]猪苗代町 裏町

もと町地区の東部、通称あさひ町にある。快楽山と号し、曹洞宗。本尊は阿弥陀如来。蒲生氏の臣で猪苗代城代関十兵衛の菩提所として草創され、初めは浄土宗であったという。しかし十兵衛が猪苗代を去ると無住となり、いったんは荒廃した。その後、曹洞僧泉朔が米沢林泉りんせん寺一八世泉咄を招請、開山として現宗派に改めて再興し、現在に至っている(猪苗代町史)。本尊の銅造阿弥陀如来立像は像高三九・一センチ、背面に文永八年(一二七一)八月一一日の年号と仏師正観の銘があり、国指定重要文化財。


安穏寺
あんのんじ

[現在地名]福井市つくも二丁目

近世の福井城下てら町の北側にある。結城山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。応安年中(一三六八―七五)下総国結城ゆうき(現茨城県結城市)に創建、開山は元翁という。慶長七年(一六〇二)現在地に移り、寺領七〇石を寄進されたが、貞享三年(一六八六)の大法の際寺領は取上げられ、代わって館屋たちや(立屋)の与力屋敷上り地を与えられた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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