小屋村(読み)こやむら

日本歴史地名大系 「小屋村」の解説

小屋村
こやむら

[現在地名]葛生町豊代とよしろ

秋山あきやま川中流右岸段丘上にあり、南は田名網たなあみ村、東は下仙波しもせんば村、西は安蘇郡船越ふなこし(現田沼町)、北はまぎ村。村名はかつて周辺村の収納小屋等があったことにちなむという。都賀つが郡に属し、慶安郷帳では田八八石余・畑一三九石余、幕府領。文化一四年(一八一七)対馬厳原藩領となり幕末に至る(旧高旧領取調帳)。延宝四年(一六七六)の村明細帳(島野公良文書)によれば、高二二八石余、田七町七反余、うち二町一反余は二毛作、畑一七町三反余、四分の三は用水掛り、四分の一は天水に依存。


小屋村
こやむら

[現在地名]松本市芳川よしかわ小屋

江戸時代の村井宿に接する。塩尻しおじり市・松本市間の桔梗ききようはら台地の村で、西方段丘下を流れる奈良井ならい川の水を揚水し開かれた。

筑摩安曇両郡郷村御朱印御高附に「三百拾五石弐斗五升六合 小屋村」とある。もと村井郷と一体のものであったが、天正一八年(一五九〇)頃分れたものであろう。「信府統記」では、享保九年(一七二四)当時の石高は四五二石一斗六升八合二勺である。寛文年間(一六六一―七三)の田は二六町四段一畝六歩、畑は一六町五段二四歩。


小屋村
こやむら

[現在地名]和歌山市古屋こや松江北まつえきた六丁目

海部あま郡に属し、榎原えのきはら村の南西に位置する。東は名草なくさ郡松江村、南は海。中世は木本きのもと庄に含まれた。「続風土記」は「元和二年、民離散せし事あり、浅野家田租を軽くして逃散を召集む、寛永年中本村と分かれて一村となる」と記す。もと村の分村。「続風土記」では高三七五石余、家数一一五、人数五〇五。貴志組に所属。明治三年(一八七〇)の人口見詰御達帳(古屋地区蔵)では家数一四五、人数は八歳以上六一六、七歳以下一二二。作間稼の者は三四人、内訳は紺屋職一・手質職一・小商人四・棒手魚買四・網職三・手操小職持二〇・桶師一。


小屋村
こやむら

[現在地名]清音村三因みより

北は三輪みわ(現総社市)、東は西郡にしごおり(現山手村)。北端を山陽道が通り、「モチ坂」という坂がある(備陽記)。小谷、古屋とも記したといわれ(都窪郡誌)、現在も小字に古屋がある。寛永備中国絵図に「三輪ノ内小屋村」とみえ、岡山藩領二五〇石、旗本蒔田玄蕃領二八〇石余の相給地。正保郷帳ではたんに小屋村とあり、領主・高は前掲国絵図と同様。


小屋村
こやむら

[現在地名]西会津町奥川おくがわ飯沢いいざわ

梨平なしだいら村の北東、奥川中流域に位置し、耶麻郡吉田組に属した。寛文五年(一六六五)の「吉田組風土記」では高五〇石余、免四ツ二分三厘四毛、反別は田方二町九反余・畑方二町六反余、家数八(竈数一四)、男三二・女三一、馬五。綿役銀四匁三分七厘・役漆木六〇一本などを負担していた。貞享五年(一六八八)の村鑑(矢部家文書)では高一三二石余、家数一八、男六四・女五五、馬九。


小屋村
こやむら

[現在地名]吉川町福吉ふくよし

もも村の東に位置し、金会きんかい川上流の丘陵地に立地する。北は門前もんぜん村、東は摂津国有馬ありま馬渡うまわたり(現三田市)。慶長国絵図に小屋寺こやでらとみえる。領主の変遷は延宝七年(一六七九)幕府領となるまでは山上やまのうえ村と同じと推定され、延享元年(一七四四)大坂城代・出羽山形藩堀田氏領となる(「天保校訂紀氏雑録」日産厚生会佐倉厚生園蔵)


小屋村
こやむら

[現在地名]野村町小屋

現野村町の東北端にあたり、東西に長く延びた山村。東は浮穴うけな(現上浮穴郡)、北は同郡・喜多郡、南は土佐国に囲まれる。四国山地の西部を形成し、村域は標高五〇〇メートルから一四〇〇メートルに及び、東部の大野おおのはらから発する舟戸ふなど川は西に向かって屈曲しつつ流下し、惣川そうがわ村を経て横林よこばやし村でひじ川に合する。江戸時代を通じ大洲おおず藩領で、大洲藩領南端の村。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)浮穴郡の項に「小屋村 雑木山少有、茅山有」と記し、石高二〇八石一斗一升、うち田方七九石九斗二升二合、畠方一二八石一斗八升八合とある。


小屋村
こやむら

[現在地名]飯豊町小屋

須郷すごう村の南、しら川支流小屋こや川沿いの山間に位置する。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高一七四石余、免三ツ五分、家数二一(うち役家三、肝煎・小走一)・人数七五。役木として桑をあげる。蒲生氏高目録帳では村柄は下。寛永一五年(一六三八)検地帳(三浦文庫)では高三四七石余、田方一六町七反余・畑一一町七反余、ほかに焼畑四反余、名請人数二七、うち屋敷持一一。上杉領村目録によると高四〇五石余、本免二ツ六分二厘六毛。反別は田二四町六反余・畑一〇町九反余(寛政一二年改)、家数二八・人数一九〇、馬二七。


小屋村
こやむら

[現在地名]流山市きた・小屋など

旗本天野・岡部両氏の相給村であったきり谷北やきた村から岡部領分が分れて成立した村。このために同村とは村地が錯綜する。天正一九年(一五九一)の徳川家康知行宛行状写(下総古文書)によると「桐ケ谷村・八木村百石」が岡部長綱に与えられている。うち桐ヶ谷村分は宛行先からみて、のちの当村にあたったと思われる。元禄三年(一六九〇)の訴状(船橋市西図書館蔵)には岡部土佐守正綱の知行所として小谷こや村とみえ、享和三年(一八〇三)の小金町六拾七ヶ村高帳では高七二石余。元禄郷帳天保郷帳ともに桐ヶ谷北村の高に含まれ村名の記載はない。


小屋村
こやむら

[現在地名]松山市小屋町こやまち

松山市域の東北端に近い山村。高縄たかなわ山塊の西南部にあたり、三〇〇―五〇〇メートルの山地が連亘し、高原状を呈する。人家は渓谷に沿ってわずかに存在し、大部分は草原と山林に覆われている。東は上総かんさ村、西は城山じようのやま村、南は神次郎じんじろう村、北は恩地おんじ村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)風早かざはや郡の項に「小屋村 芝山有、林少有」とある。田がなく畑ばかりで、村高わずかに五石六斗八升一合の小村である。


小屋村
こやむら

[現在地名]八千代町小屋

鬼怒きぬ川旧河道東、古来よりの乱流地帯に立地。平坦で肥沃な沖積地水田地帯で、東は大里おおさと村。「寛文朱印留」によれば土井利益(のち古河藩主)領、寛保三年(一七四三)の差上申一札之事(野左根家文書)によれば天領で代官木村長羽ながのぶ。天明六年(一七八六)宗門人別改帳(野村家文書)では前小屋村・北小屋村に分れていた。「各村旧高簿」によれば幕末には前小屋村が二三九・一七石、北小屋村が二三五・五〇三石でともに天領。


小屋村
こやむら

[現在地名]八郷町小屋

足尾あしお山の南東麓にあり、北は鯨岡くじらおか小山田おやまだ両村、西は上曾うわそ村。戦国末期に佐竹氏の支配下に入り、文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)に「高五百四十二石 此内九十四石二斗九升 荒 こ家」とある。江戸初期に小田原藩領となり(寛文朱印留)、のち天領となる。


小屋村
さかきごやむら

[現在地名]いわき市好間町よしままち榊小屋さかきごや

好間川に沿い、北は大利おおり村、南は高野こうや村、東は北好間村・上好間村。磐前いわさき郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から寛文一〇年(一六七〇)以降湯長谷藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録に大里村さかきこやとあり、高二五一石余。


小屋村
こやむら

[現在地名]麻生町石神いしがみ

雁通がんづう川上流の二つの小川の間にあり(元禄常陸国絵図)、西は石神いしがみ村、東は根小屋ねごや村。中世は麻生氏の所領であったが、同氏滅亡後は島崎氏領・佐竹氏領を経て、麻生藩領となり、「寛文朱印留」に村名が載る。「新編常陸国誌」には「旧石神村ト合テ小屋石神村ト称ス、正保以後分レテ二村トナル」とあり、さらに「一説、寛永・延宝年間ノ合村ナリト云ヘドモ、元禄郷帳ニ小屋、石神二村ノ名アレバ其説誤レルヲ知ルベシ」と補説している。


小屋村
おやむら

[現在地名]小浜市小屋

村の西方、田村川の上流に位置し、西は山越をして大飯郡野尻のじり(現大飯町)に至る。奥小屋・中小屋・口小屋の三集落がある。中世には名田なた庄に属した。正保郷帳によれば田方一〇七石余・畠方一六石余。慶応二年(一八六六)の御領分中村々高書上写(安倍家文書)に記す家数は四四。


小屋村
こやむら

[現在地名]長浜市石田町いしだちよう

石田村の西に位置し、西は七条しちじよう村に続く。もとは石田村のうちであったという(木間攫)。寛永石高帳に村名がみえ高九四石余、彦根藩領。寛文四年(一六六四)の彦根領分高帳(間塚文書)によると定免で五ツ六分。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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