石神村(読み)いしがみむら

日本歴史地名大系 「石神村」の解説

石神村
いしがみむら

[現在地名]上里町神保原町じんぼはらまち

忍保おしぼ村・八町河原はつちようがわら村の南に位置する。中山道が東の児玉郡小島おじま(現本庄市)から村内を抜け、西の金窪かなくぼ村に至るが、街道と交差してくす(現在の御陣場川)が流れる。「風土記稿」は村名の由来を、「古ヘ烏川ヨリ引上シ石剣ヲ祭リテ鎮守トセシヨリ起リシ名ナリナト云リ」と記す。中世の石神郷に比定される。田園簿では田方二〇二石余・畑方四〇七石余、旗本野山(野々山)・美濃部・須田・中根の四家と幕府領の相給。国立史料館本元禄郷帳では旗本美濃部・須田・中根・石丸・伏見の五家の相給。


石神村
いしがみむら

[現在地名]吉井町石神

東は深沢ふかさわ(土合川)を隔てて小串おぐし村・深沢村と対し、南は多比良たいら村、西は矢田やた村と接する。南部は丘陵が起伏し、北部を下仁田しもにた(姫街道)が東西に走る。永禄六年(一五六三)一二月九日の軍勢らの乱妨狼藉を禁じた武田家高札(富田文書)が「石上郷」に与えられている。郷名と大武おおたけ神社の境内末社に石上社を祀ることなどから、古代物部氏の関係地と推定される。寛文郷帳は幕府領で、田方一五石五斗余・畑方一〇九石六斗余、江戸後期の御改革組合村高帳では旗本山村領・幕府領などの四給。


石神村
いしがみむら

[現在地名]新座市石神一―五丁目など

つじ村の西、黒目くろめ川左岸の沖積地と武蔵野台地野火止面の段丘上にあり、南の黒目川沿いに水田が、段丘上に畑が開ける。北は西堀にしぼり村、南は下片山しもかたやま村の飛地と栗原くりばら村、西は多摩郡神山こうやま(現東京都東久留米市)。近世前期に片山村から分郷した村で、寛文元年(一六六一)野火止のびどめ新田の出作に参加し、上畠六反余・中畠一町四反余・下畠一町四反余を名請している(「野火止出作方年貢割付状」旧大和田町役場文書)


石神村
いしがみむら

[現在地名]川口市石神

赤芝あかしば新田の西に位置し、若干の低地もみられるが、ほぼ全域が台地上にある。中央部を日光御成道が南北に通る。同道の中ほどに小名赤山新町あかやましんちようがあり、関東郡代伊奈忠治が赤山に陣屋を築いたとき周辺に点在していた民家を集めて町場をつくらせたという(風土記稿)。田園簿では田一〇九石余・畑一七八石余、伊奈領。寛政四年(一七九二)伊奈氏改易により幕府領となり幕末に至る(「風土記稿」・改革組合取調書など)。延宝六年(一六七八)検地帳(女郎堂文書)によると高三九二石余、うち田一七五石余・畑二一七石余。享保年間(一七一六―三六)以降さらに開発が進められ、同一〇年の検地帳(石井家文書)では畑三五石余、寛保二年(一七四二)の検地帳(同文書)では畑・山合せて二八石余がそれぞれ高入れされている。


石神村
いしがみむら

[現在地名]天竜市石神

上野かみの村の北西に位置し、阿多古あたご川中流域、観音かんの山の東麓に立地する。古くは金原きんぱら村と呼称。領主の変遷は青谷あおや村と同じ。慶長八年(一六〇三)の村内六所神社棟札に「豊田郡浜松庄阿多古郷金原村」とみえる。同九年の検地帳(中村家文書)の表題に「阿多古ノ内金原村石神」とみえ、永高一三貫一七三文。元和五年(一六一九)の阿多古村指出(同文書)にも金原村とみえ、永高一五貫一四三文、うち正法しようほう(現曹洞宗)領五〇〇文、川成分三貫八四二文を差引いた年貢を鐚銭と茶一五〇斤・紬六端(ただし金納)で納めている。


石神村
いしがみむら

[現在地名]麻生町石神

雁通がんづう川右岸の台地上にあり、東は矢幡やばた村。中世は鹿島神宮領加納かのう十二郷のうちにあり、徳治二年(一三〇七)の関東下知状写(鹿島神宮文書)

<資料は省略されています>

とあり、鹿島神宮大禰宜中臣能親と石神村地頭の未進年貢をめぐる相論が起こり、幕府は地頭に弁済を命じている。

その後麻生・島崎・佐竹氏と支配者は変転したが、江戸初期に麻生藩新庄氏領となり、「寛文朱印留」に村名がある。


石神村
いしかみむら

[現在地名]青森市石江いしえ

東は支村相野あいの、南東はたき村、西は新城しんじよう村、東北は新田にいた村に接する。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡の新田に高三二・四石とある。貞享四年(一六八七)の検地帳を欠くが、同元年の郷村帳では高一〇八・四石、元禄三年(一六九〇)には油川組に属し、村位は下である(平山日記)。寛政八年(一七九六)菅江真澄は「すみかの山」に「石神の村にこゝらの花の木ありて、そこに、ちいさやかの祠ある側に文永の碑あり、こと文字は苔にかいけたりて、それとはよみもとかれず」と記した。


石神村
いしがみむら

[現在地名]大多喜町石神

大戸おおと村の南東、夷隅川右岸に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三二六石。慶長二年(一五九七)の伊北庄山中郷御縄打水帳(石神区有文書)の石神村分三冊があり、田八町七反余・畑一〇町余。初め大多喜藩領であったが、寛永一〇年(一六三三)より旗本富永領とみられ(「寛政重修諸家譜」、「夷隅郡村高覚」沢家文書)、幕末に至る(旧高旧領取調帳)。享保一八年(一七三三)年貢勘定目録(磯野家文書)によれば年貢は米一九四俵・金五一両。


石神村
いしがみむら

[現在地名]原町市石神

北東流する水無みずなし川の北岸に位置し、東は牛越うしごえ村・長野ながの村、対岸は押釜おしがま村・大木戸おおきど村。石上新田とも記される。明暦二年(一六五六)西の高倉たかのくら村から分村して成立したとされるが、「相馬藩政史」は牛越村からの分村とする。同年の高二四五石余(同書)。元禄郷帳には石上新田とみえ、高三九三石余。なお元禄検地高は三六九石余、ほかに新田二三石余がある(奥相志)。天明三年(一七八三)の家数四〇、嘉永元年(一八四八)の家数二五(検地石高収納戸口等調)


石神村
いしがみむら

[現在地名]糸貫町石神

高屋たかや村の北に位置し、根尾ねお川東岸に沿う平坦地に立地。永禄元年(一五五八)四月日の斎藤義龍井水掟書(安藤鉦司氏所蔵文書)に地名がみえ、石神北東に新溝を掘ったり、河原を開発することを禁じている。寛永年間(一六二四―四四)東上秋ひがしかんだけ村北部が分離して石神村となった。幕末に至るまで大垣藩領。正保郷帳に村名がみえ、田二五二石余・畑五一石余。

明治五年(一八七二)の村明細帳によれば田三一九石余・二一町九反余、畑五七石余・五町八反余。


石神村
いしがみむら

[現在地名]金谷町神谷城かみやしろ

東深谷ひがしふかや村と城東きとう郡西深谷村の南に位置し、きく川上流部の牧之原まきのはら台地西側斜面を中心に立地する。当地にあった四天王社の天正一六年(一五八八)の棟札には「榛原郡質侶庄石上村」、慶安三年(一六五〇)の棟札には「榛原郡初倉庄石上村」と記されていたという(掛川誌稿)。文禄二年検地高目録に村名がみえ、高八二石余。正保郷帳では田方七一石余・畑方一一石余、幕府領。元禄郷帳では高八七石余、幕府領(国立史料館本元禄郷帳)


石神村
いしがみむら

[現在地名]神岡町石神

高原たかはら川中流東岸、最上部河岸段丘上に位置し、西と南は数河すごう村、北は麻生野あそや村。慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳では「殿村所々四村」に含まれ、同一八年の郷帳では村名がみえない。元禄検地反歩帳では高原郷に属し、高八五石余、田二町七反余・畑一〇町二反余。「飛騨国中案内」では免三割七分六厘余、家数一九(うち百姓一六・門屋三)、家作は萱葺で、枝村におくふたこしがある。天明八年(一七八八)の村明細帳では、田三七石・三町三反余、畑八六石余・一二町余。


石神村
いしがみむら

[現在地名]頸城村石神

おお池と保倉ほくら川の間に位置し、東西に松之山まつのやま(現東頸城郡松之山町)への道が走る。永享一一年(一四三九)一一月七日の越後守護上杉房朝袖判社領寄進状(居多神社文書)に「石神野内中沢」とみえ、居多こた神社(現上越市)の九月九日の祭礼費用を出すために田一町・屋敷一宇が寄進されている。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図には「長尾加賀分此外八方分石かミ村 下」とみえ、本納六二石二斗四升・縄高一〇七石七升、家一六軒・五一人とある。


石神村
いしがみむら

[現在地名]水俣市小津奈木こつなぎ

水俣川の支流内野うちの川の上流部にあり、西に初野はつの村・下初野村、南に深川ふかがわ村、東に宝河内ほうがわち村があり、北は津奈木手永の山口やまぐち(現葦北郡津奈木町)である。津奈木(同上)から山を越えて水俣川流域へ出る宮崎みやざき越の道筋にある。寛永一〇年(一六三三)人畜改帳に「水俣内小津奈木村」の小村として村名がみえ、屋敷数三、男一二・女九、牛一が記される。


石神村
いしがみむら

[現在地名]川辺町石神

飛騨川右岸の河岸段丘上の平坦地に位置する。北は上川辺村、東は飛騨川を隔てて比久見ひくみ村、南は中之番なかのばん村、西は鹿塩かしお村。中之番村の枝村であったが、のちに独立した。初め旗本大島領、寛永一六年(一六三九)より幕府領。正保郷帳では田高三八七石余・畑高一九八石余、ほかに小物成二石五斗。天保九年(一八三八)の村明細帳によると家数九八・人数三二〇。秣場は納古のうこ山。売荷物継場があり、その冥加として永一一五文を上納する。寺院は臨済宗長江山曹源そうげん(現臨済宗妙心寺派)・白雲山温泉寺がある。


石神村
いしがみむら

[現在地名]渥美町石神

渥美湾に臨み、東は伊川津いかわづ村松むらまつ、南は雨乞あまごい(二三〇メートル)を隔て山田やまだの各村と境する。雨乞山には雨乞神社があり、神体として粘板岩の石剣(長さ一九・七センチ、幅七・六センチ)を祀る。慶長六年(一六〇一)以来幕府領であったが、天明二年(一七八二)以来、旗本本多帯刀領となり明治に及んだ。安永二年(一七七三)の御物成皆済目録(石神自治会蔵)に高三一三石八斗五升とあり、文政四年(一八二一)の百姓持高帳(石神自治会蔵)には石神村戸数一〇二、寺二ヵ寺とある。


石神村
いしがみむら

[現在地名]丸山町丸本郷元石神まるほんごうもといしがみ

丸本郷村の東、丸山川左岸に位置する。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高一〇六石余、うち田方六四石余。里見氏給人領。同一一年および同一五年の里見家分限帳でも同高で給人領。正保郷帳では田高八三石余・畑高三六石余、旗本大久保忠時領。大久保氏が当村に知行を得たのは寛永五年(一六二八)ないしは同一〇年で(寛政重修諸家譜)、以後天保一四年(一八四三)まで同家に伝えられた(元文村高帳など)。同年以後の領主の変遷は丸本郷村に同じ。


石神村
いしがみむら

[現在地名]茂原市石神

八幡原やわたばら村の南に位置し、北東部以外は丘陵に囲まれ、細長く集落が散在している。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に石神村とみえ、高二七四石。寛文四年(一六六四)の苅谷藩主堀直景宛の領知朱印状・目録(寛文朱印留)に村名がみえる。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では旗本御手洗・水野領の相給で、家数四二。領主は以後変化なく幕末に至ったと思われる(旧高旧領取調帳など)


石神村
いしがみむら

[現在地名]男鹿市五里合神谷いりあいかみや 石神

男鹿半島の北頸部、五里合盆地西側の小丘陵斜面に位置する。集落背後の丘陵から縄文中期の土器片や石斧・石鏃・石匙などが出土した谷地中やちなか村と接して支郷狐谷地きつねやち村があった。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「はに村 白鳥村」として四八五石四斗一升七合とある。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に石神白鳥村一三三石とある。享保一四年(一七二九)の黒印高帳(秋田県庁蔵)には「石神村」当高一五六石九斗四升四合とあり、同一五年の「六郡郡邑記」に「郷帳白鳥石神村と在り」と注記される。


石神村
いしがみむら

[現在地名]市原市石神

麻生原あそうばら村の北西にあり、養老ようろう川が流れる。宝暦二年(一七五二)麻生原村より分村したというが(市原郡誌)、元禄郷帳に同村枝郷として高一〇六石余とある。宝暦一〇年の岩槻藩領知目録写に村名がみえ、幕末まで同藩領であった。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数四〇。文政一〇年(一八二七)の岩槻藩領村々書上帳によれば、田六町九反余、畑一五町一反余のうち上畑二町九反余・中畑五町余・下畑四町三反余、茶畑二町六反余、新田八町余・三五石余、年貢は米四五石余・永一五貫三一八文余、家別役の真木九七二束、ほかに酒役永三七三文余など、家数四二・人数一九三、日天子にちてんし宮・八幡宮・山王権現蔵王権現・諏訪権現・石宮権現、薬師堂・不動堂・阿弥陀堂があった。


石神村
いしがみむら

[現在地名]神栖町石神

常陸利根川左岸にあり、東は荒沼あらぬま川を挟んで柴崎しばさき村、西は高浜たかはま村。天正一九年(一五九一)東義久知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「五百石五斗七升 たかはま・石かミ・柴崎」とある。


石神村
いしがみむら

[現在地名]玉造町こう

北は若海わかうみ村、南は玉造村。古くは玉造村と同村であったが、中世に玉造憲幹の次男幹安が石神氏を称して根拠地としたといわれる。戦国末期に佐竹氏領となり、文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)に「高二百七石弐斗 此内廿一石九斗三升弐合 荒 定物成卅四貫百八十八文 皆納 川井大膳石神村」と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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