魚屋町(読み)うおやまち

日本歴史地名大系 「魚屋町」の解説

魚屋町
うおやまち

[現在地名]出石町魚屋

八木やぎ町・ほん町・鋳物師いもじ町の東に位置する町人町。本町六ヵ町の一で、名主を置いた。谷山たにやま川が町の中央付近を西流しながら横断、同川はその後向きを北、西、北と変え、本町・鋳物師町と当町の境を北上する。西流する谷山川の南を上魚屋町、北を下魚屋町ともいった。出石封内明細帳、文化七年(一八一〇)の城下絵図などによると南北路の竪町は二筋ある。西側の竪町は現在の本覚ほんかく寺の前から北に延び、西流する谷山川に架かる橋までの長さ二六間・幅二間三尺の道(両側に幅一尺二寸の溝)両側町と、この橋からさらに北に向かい、本高ほんこう寺前まで長さ一町三間一尺・幅三間二尺の道(中央に幅二尺四寸の溝)の両側町で、前者は上魚屋町に、後者は下魚屋町に属した。東側の竪町は材木ざいもく町竪町の西端、城の東門駒寄(弘道館前)から北へ向かい、谷山川まで延びる長さ一町四間の道の両側町で、あねヶ小路ともいい、上魚屋町に属した。この道筋のうち三六間は幅二間、両側に幅一尺一寸の小溝が通り、残り二六間は道幅一間四尺で、谷山川を渡って宗鏡寺すきようじ町の竪町に続いた。東西路の横町は上魚屋町・下魚屋町にそれぞれ二筋ある。上魚屋町横町の一筋は西側竪町の谷山川に架かる橋の南詰から東に延び、八木町の竪町に続く長さ一四間半・幅一間二尺五寸の道の片側町(南側、北は谷山川)


魚屋町
うおやまち

[現在地名]宮津市字魚屋

本町ほんまちの北側にある東西に長い町。「京極丹後守様御上地町地子並ニ家別」(「宮津事跡記」所引)に反別一町六反七畝八歩、地子米一九・八一八九石、家数一四一軒とある。元禄一六年(一七〇三)城下絵図(前田家本)に「魚屋町西東ノ長サ百八十七間半、(中略)道幅二間一尺」、魚屋町分家数は一四三軒とする。なお同絵図は魚屋町として東堀川ひがしほりかわ通「北南本町境より海きわ長サ八拾壱間半、(中略)道幅弐間四尺」、西堀川通「北南本町境より海きわ長サ六拾間半、(中略)道幅弐間五尺、内五尺川幅」を加えている。


魚屋町
うおやまち

[現在地名]高松市北浜町きたはまちよう本町ほんまち

高松城外曲輪東部の町人町。うち町五町の一。東の丸御米蔵前の枡形から中堀に架かる御太鼓おたいこ橋を渡ったところが魚屋町で、北と南の二本の東西方向の通りに面する。東は内磨屋うちとぎや(天保一五年城下図)。町名の由来は藩御用の魚商人や漁夫など漁業に関係するものの居住区であったことによる。魚の棚うおのたなともいい、生駒氏時代屋敷割図には本町の西端から「ときや町」筋に並行して北へ延びる通りに面して「いほのたな町」が記載されている。


魚屋町
うおやちよう

[現在地名]大垣市魚屋町・本町ほんまち中町なかまち

大垣城の東に位置し、本町・中町を東西に横断する二筋の町家両側町。寛永城下絵図には、大手門に通じる南筋は下魚屋町通、北筋は上魚屋通と記される。町名は魚屋が多かったことに由来し、下魚屋町の東部は海老えび町と称されたという。慶長期(一五九六―一六一五)以前からあったとされる町家で、古来町の一つ。


魚屋町
うおんまち

[現在地名]唐津市魚屋町うおやまち

現在は「うおやまち」という。唐津城築城時の町割ででき、そと町に属した。町田ちようだ川右岸に接し、札の辻ふだのつじ橋できよう町に通じる。

魚屋が多く、藩の保護を受け、幕末頃には他町内の魚屋は毎年銀二匁を上納したが、魚屋町の魚屋は無税であった(満島庄屋史料)。京町から移り住んだ薬種問屋草場家が大町年寄を勤めている。

最も古い家は木屋山内家で、分家も藩政期を通して繁栄した。


魚屋町
うわいちよう

[現在地名]近江八幡市魚屋町元うわいちようもと魚屋町中うわいちようなか魚屋町上うわいちようかみ

新町しんまち通の一筋東(東から数えて六筋目)の魚屋町通に沿う縦町で、北は大杉町おおすぎちよう通、南は上筋かみすじ通に画される両側町。北から魚屋町元・魚屋町中、魚屋町上(魚屋町末)の三ヵ町からなる。元禄町絵図にも三町がみえ、魚屋町末には移転する前の西方さいほう(現孫平治町、浄土真宗仏光寺派)が描かれる。町名は魚屋がとくに多かったことにちなみ(八幡町史)、「うわい」は魚市が変化したものといわれる。元禄期(一六八八―一七〇四)以降の畑屋敷高は魚屋町元が八石余、魚屋町中が一〇石余、魚屋町末が一二石余(「八幡町屋敷畑高覚帳」近江八幡市共有文書)。宝永四年(一七〇七)頃には二〇軒が蚊帳の製造内職にあたっていた(「織屋組合帳」西川文書)


魚屋町
うおやまち

[現在地名]大津市木下町きのしたちようまる内町うちちよう

木ノ下町より南に折れた町並で、片側町。慶長六年(一六〇一)木ノ下村域に町割が行われ、湖魚販売の町人が居住した。元禄一五年(一七〇二)の膳所総絵図(中村家蔵)に町名がみえ、東海道筋の町並は六五間余、家数三四。寛政一二年(一八〇〇)当時は六八間余(法伝寺文書)。中村家蔵膳所藩明細帳では家数三六・人数六八。幕末膳所城下図によれば、町の南端より東西に延びる道があり、西筋には家中町と記す。東筋も武家地であるが、膳所城北大手門の北に接して家老戸田五左衛門の屋敷があった。


魚屋町
うおやまち

[現在地名]北区南森みなみもり町一丁目・天神橋てんじんばし二丁目

又次郎またじろう町の南北筋の西にある。天神筋てんじんすじ町から北に延びる両側町で、北は又次郎町の東西筋で限られる。明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図には「新うをや町」と記され、南部分で鉤形に街路が曲がっている。初発言上候帳面写は魚屋町が岩井いわい町、新魚屋しんうおや町が魚屋町になったとする。たしかに前掲町絵図では魚屋町は岩井町の位置にあり、当町の部分は貞享四年(一六八七)新撰増補大坂大絵図にも「新うをや丁」となっているが、元禄年間(一六八八―一七〇四)の大坂三郷町絵図では当町の位置が定まっている。


魚屋町
うおやちよう

[現在地名]岐阜市加納本町かのうほんまち加納天神町かのうてんじんまち

壱町目と弐町目の境に南北に延びる両側町。魚屋町横町ともいわれ、加納二六町の一。寛延二年(一七四九)の加納宿絵図によれば南北二町に分れ、壱町目の西端を北に折れると北魚屋町とあり、町西端付近に通じ、南に折れると南魚屋町とあり、長刀なぎなた堀に通じる。元禄八年(一六九五)の町絵図(太田家蔵)には、北魚屋町にあたるところに魚屋丁とある。貞享五年(一六八八)の間口裏行覚帳(三宅文書)によれば町の長さ四七間半、家数二一。正徳五年(一七一五)宗門改帳(徳川林政史研究所蔵)によれば男三六・女三六。


魚屋町
うおやまち

[現在地名]久留米市城南町じようなんまち中央町ちゆうおうまち

大手門前に南北に連なる町並で、東は両替りようがえ町二丁目、南は町と接する。上町・中町・下町からなり、魚棚うおのたなとも称した。慶長一六年(一六一一)に榎津屋、同一七年に丹波屋が居住、元和七年(一六二一)丹波屋は久留米町肝煎役を勤めた。野菜商売の三条屋や西尾屋なども古くからの居住。町目付戸板屋は寛永元年(一六二四)に御肴物御用を務めている(以上「旧家由緒書」)。延宝城下図では魚屋町とある。「啓忘録抜萃」では町別当播磨屋掛に属し、家数四一軒・小間数一〇四間半余。


魚屋町
うおやちよう

[現在地名]岐阜市魚屋町

久屋ひさや町の南に位置する南北に延びる両側町。町南端を東に折れると加和屋かわや町、西に折れるとほん町で、南は西に若干寄って靭屋うつぼや町に通じる。岐阜町四四町の一で、織田信長による岐阜町建設のとき、尾張国清須きよす(現愛知県西春日井郡清洲町)から町人を呼寄せて成立した町とされ、漁業・魚屋を営むものが居住したのが町名の由来といわれる(旧岐阜市史)。承応町絵図に町名がみえ、岐阜由緒書(小林文書)では地子免許地反別一反六畝余。「増補岐阜志略」によれば町の長さ四五間余、家数一九。


魚屋町
うおやまち

[現在地名]篠山市魚屋町

篠山城の北西方、下二階しもにかい町の南西に位置する。西手に武家地が続く。篠山城下一一ヵ町の一つ。慶長一五年(一六一〇)一月から八上やかみの町家を移して家が建てられたというのは(「篠山旧記御城取立」渋谷家文書)、当町であろう。正保笹山城絵図(内閣文庫蔵)では「肴町」とみえる。正徳年間(一七一一―一六)の高付帳(多紀郷土史考)によれば、南側は一〇〇間余、北側は九〇間余の両側町で、御門番所があり、家数五一のうち役家二九(宿老)、五人組は一八組で、浄土宗誓願せいがん寺が記される。


魚屋町
うおやまち

[現在地名]島原市新町しんまち弁天町べんてんまち

島原城の南方、風呂屋ふろや町の南に位置する。魚町ともいう。寛永一五年(一六三八)の島原町人数覚(島原の歴史藩制編)では二三〇人。寛文一二年(一六七二)の島原藩庁日記に町名がみえ、宝永四年(一七〇七)検地とある島原領内明細帳では新町別当の管轄五ヵ町として魚屋町とある。


魚屋町
うおやちよう

[現在地名]丸亀市魚屋町

南北の通りに沿う両側町で、「西讃府志」に「米屋町ヨリ北ニ続キ西平山ニ至ルヲ魚屋町トス、町長八十一間」とある。東はかや町、北は西平山にしひらやま町、西は宗古そうこ町・松屋まつや町、南は米屋こめや町。万治年間(一六五八―六一)の城下図には通りと町割のみが記されており、京極氏入封以後に成立したと考えられる。


魚屋町
うおやまち

[現在地名]西条市本町ほんまち

寛永開町当時から続いた町。玉蔵ぎよくぞう院の先祖の宝学院が大町おおまち村から移って、町を開いた。西条陣屋町の北端にあり、東は明屋敷あきやしき分飛地字北町きたまち、西は明屋敷分、北は神拝かんばい村飛地、南は中之なかの町に接する延長二町余の町(西条誌)


魚屋町
うおやちよう

[現在地名]伊丹市伊丹一丁目・中央ちゆうおう三丁目

伊丹町を構成する二七ヵ町の一つ。いずみ町の南側に位置し、ほん町筋を挟んだ両側町。文禄伊丹之図に町名がみえる。魚店とも書いた(有岡古続語)。会所入用割の間数は一一七間(「正心調法記」武田家文書)。天明六年(一七八六)には惣宿老を代々勤めた紙屋八左衛門、小西新右衛門ら酒造家四人が居住(「酒造家名前覚」小西家文書)


魚屋町
うおやちよう

中京区竹屋町通富小路東入

東西に通る竹屋町たけやまち(旧大炊御門大路)の両側町で、麩屋町ふやちよう通を挟む東にわずかな飛地がある。

平安京の条坊では、左京二条四坊三保一四町の北西角付近及び、大炊御門大路上にあたる。平安中期以降は大炊御門富小路の東にあたる。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「うおや丁」とみえ、その後寛文後期洛中洛外之絵図に「木屋町」とあるほかは、「魚屋町」で変化はない。


魚屋町
うおやまち

[現在地名]亀岡市本町ほんまち柳町やなぎまち塩屋町しおやまち

東西の町並である本町・柳町・塩屋町の中ほどを南北に塩屋町から本町へ通る町並。長さ五〇間、天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」では戸数二一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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