平島村(読み)ひらしまむら

日本歴史地名大系 「平島村」の解説

平島村
ひらしまむら

[現在地名]藤枝市平島

こおり村の東に位置し、益津ましづ郡に属する。東は志太しだ上当間かみどうま村、北は同郡鬼島おにじま村、南東は益津郡越後島えちごしま(現焼津市)。永禄一二年(一五六九)一月一七日、前年暮れの武田信玄による駿河侵攻に際し、いち早く武田氏に帰属した志太郡青島あおじまの土豪青島五郎兵衛尉(長忠)に恩賞として平島のうち二四貫文などが与えられた(「武田信玄判物写」判物証文写)。元亀四年(一五七三)一〇月二一日には同じく武田氏に帰属した今川家旧臣の神尾左近丞に平島内二〇貫文の地が給付された(「武田家朱印状写」同証文写)。さらに伊勢から招聘した水軍の将向井正重にも平島郷の増分四七貫三〇〇文が与えられ、正重が天正七年(一五七九)用宗もちむね(現静岡市)で戦死すると、武田勝頼は同年一〇月一六日に息子の向井兵庫助(正綱)に遺領を安堵した(「武田勝頼判物写」伊勢国度会郡古文書)

平島村
ひらしまむら

[現在地名]植木町田底たそこ

村の北、合志こうし川沿いの平坦地を占め、東は合志郡小野崎おのざき(現菊池郡七城町)、北は山城やましろ村に接する。分田ぶんだ溝が合志川の西側を貫流し、来民くたみ町道から分岐した小野崎村道が交差する。建武五年(一三三八)九月二三日、範綱(姓未詳)は肥後国「平嶋板井名一所」を「かう二郎丸」に譲り(「範綱譲状案」詫摩文書)、至徳四年(一三八七)閏五月八日には、今川了俊は「肥後国平嶋名板井名拾壱町」を御領金剛殿に安堵している(「九州探題今川了俊安堵書下」同文書)

平島村
へいじまむら

[現在地名]岐南町平島

野中のなか村の東方に位置。「承久記」に「稗島へは矢野次郎左衛門・原左衛門・長瀬判官代、五百余騎にて向けり」などとみえるひえ島は当地のことといわれる。本願寺蓮如が願主道法に下付した絵像裏書(河野西入坊文書)に「葉栗郡河野門徒行念相承(中略)本庄郷平島」とある。慶長郷帳に村名がみえ、高四三七石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳によると旗本坪内領。

平島村
へいじまむら

[現在地名]新潟市平島・平島一―三丁目・青山あおやま一丁目・小針こばり一―二丁目・関南せきなみ

青山新田村の南、北東流する西にし川左岸に沿い、同川は当地で信濃川に注ぐ。西は市左衛門郷屋いちざえもんごや新田村。正保国絵図に村名がみえ、高一二〇石余、長岡藩領。安永二年(一七七三)の坂井組割付帳(吉田ツタ氏蔵)では、古新田高一五八石・外新田高一〇二石余・新田高二五石二斗余で、諸役銀は「前々用捨」とあり、三〇石は白山社領引。鳥屋野とやのにいた親鸞が信濃川を渡って蒲原の西部へ赴こうとしたとき暴風に遭ったが、船首に直筆の六字名号の札を掲げたところ無事当地へ渡り着いたという伝えがある。

平島村
ひらしまむら

[現在地名]掛川市平島

原野谷はらのや川上流の谷間にあり、南西は正道まさみち村、南は上垂木かみたるき村。元亀二年(一五七一)三月四日の武田信玄判物(孕石文書)によると、孕石元泰に「小和田 萩間 たんま 手嶋 坂之名 賀嶋」で七〇貫文の地が与えられており、さらに「平嶋」の付箋が付けられている。これらの地は天正五年(一五七七)閏七月一二日に武田勝頼によって元泰に安堵されているが、平島の地は含まれていない(「武田勝頼判物写」土佐国蠧簡集残篇)。文禄二年検地高目録に村名がみえ、高一三〇石余。正保郷帳では田方一〇三石余・畑方四五石余、掛川藩領。国立史料館本元禄郷帳では同藩領。「掛川誌稿」では同藩領と旗本松平領の相給。旧高旧領取調帳では同藩領一三五石余。

平島村
ひらしまむら

[現在地名]合志町さかえ

鹿水しかみず村の東、竹迫たかば町の西北にあり、肥後国絵図(「国誌」補遺所載)によれば竹迫町小合志おごうし(現西合志町)を結ぶ往還沿いに立地する。集落の東から北西に塩浸しおひたし川が流れる。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳に「下庄平島村」とみえ、田五町二反八畝・畠五二町九反五畝余、分米三八〇石五斗余。寛永一〇年(一六三三)人畜改帳では弘生組に属し、戸数一〇・家数七〇、人数八九(うち庄屋一・百姓八・名子一五・下人二・鍛冶一)、牛馬二六、高四五六石八斗余。

平島村
ひらしまむら

[現在地名]東海市荒尾あらお

村内の東南部は丘陵が連なり、集落は半田はんだ街道沿いに北に発達。村の中央を川が南に流れる。北は渡内わたうち村、西は加家かけ村に接する。

村の東の平島城跡は、水野藤助(または藤蔵)・池田信輝が居城した。一説には池田輝政はここで誕生したという。「寛文覚書」によれば、概高七三六石余、田二五町九反三畝余・畑一四町八反三畝余、家数七三、人数三九〇。現浄土宗宝国ほうこく寺中興の祖長益は、織豊期「知多一郡ニ隠レ無キ有徳ノ人也」といわれ、付近の農民たちのために年貢減免などで奔走したが、讒言のため罪を一身に背負わされ、慶長二年(一五九七)死刑となった。

平島村
ひらしまむら

[現在地名]鏡町中島なかしま

東は種山手永かこい(現宮原町)、南は野津手永上土あげつち(現千丁町)、西はしも村、北は中野なかの村に境した沖積平野である。近世初期までは中野村に属していた。「国志草稿」に「中野村ノ内平嶋村」とみえる。肥後豊後検地諸帳目録(県立図書館蔵)には、慶長一二年(一六〇七)の検地帳の項に「平島村一冊」、寛永一五年(一六三八)の地撫帳の項に「平島村一冊」とみえ、中野村から分村していた。細川氏入国後、興善寺助右衛門手永に属していたが、同手永は、その子興善寺与左衛門の寛文一〇年(一六七〇)頃に廃止され、同手永に属していた村は、高田・野津・種山三手永に分割され、当村は種山手永に属することとなった。

平島村
へいじまむら

[現在地名]一色町治明じめい

一色町西の砂州に開けた集落。しま村に隣する。弓取ゆみとり川により州となった所で、村名も地形によると考えられる。「三河国二葉松」に「平嶋 磯」とある。寛永一二年(一六三五)の村高七五石四斗七升九合、元禄一四年(一七〇一)一三二石余に増加(三河国絵図)、さらに寛政八年(一七九六)二四九石余となるのは、砂州を順次干拓していったことを思わせる。

平島村
ひらしまむら

[現在地名]行橋市平島・北泉きたいずみ五丁目・泉中央いずみちゆうおう五―七丁目・東泉ひがしいずみ一―四丁目

竹田たけだ村の南に位置し、はらい川西岸の沖積平野に立地する。元和八年人畜改帳に村名がみえ、給人一人分の高七二一石余、家数二四・人数五四(うち庄屋一・百姓五・名子等一〇)、牛六・馬三。寛永九年(一六三二)の高七三六石余(「仲津郡寛永六年七年八年三ヶ年之御免帳」永青文庫)。宝永三年(一七〇六)の水帳では高五二四石余で、村高の減少は竹田村に二二一石余を分割したためとみられる(嘉永五年仲津郡本田畑御勘定帳)

平島村
へいしまむら

[現在地名]石井町高原たかはら 平島

高原村の西に位置し、西はせき村、南は諏訪すわ村。北部を吉野川が東流する。慶長二年(一五九七)の分限帳に村名がみえ、長谷川兵庫助が二五八石余を知行。寛永一五―一八年(一六三八―四一)頃の作製と推定される阿波国大絵図には桑島くわじま村と大満だいまん(大万村)の間に平島とある。なお慶長期のものと推定される国絵図にみえる「屋い嶋」は当村のことか。

平島村
ひらじまむら

[現在地名]日田市東有田ひがしありた 諸留町もろどめまち

諸留もろどみ村の南方、有田川左岸に位置する。「豊西記」に天文期(一五三二―五五)日田親将の近習として平島主水亮がみえ、その専横のことが記される。正保郷帳に村名がみえ、田高一七八石余・畑高四九石余で、有田郷に属し、柴山有とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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