中国,東晋の僧。雁門楼煩(山西省寧武)の人。俗姓は賈(か)氏。中国浄土教の祖師といわれ,念仏の結社〈白蓮社〉の開祖とされる。廬山に住したので〈廬山の慧遠〉といい,隋代の地論宗の浄影寺の慧遠と区別している。13歳のときに郷里を離れて,許昌,洛陽に遊学し,儒教の六経を修め,ことに老荘の学をよくした。354年(永和10),21歳のとき,胡族支配下の混乱のつづく華北から,江南に行き隠士范宣を訪ねようとしたが果たせず,帰って弟の慧持とともに,太行恒山の寺で大いに弘法に努めていた釈道安のもとに参じて弟子となり,仏門に入ることになった。かくて釈道安に従って各地を転々として,365年(興寧3)に襄陽に移った。しかし襄陽が379年(太元4)に前秦の軍隊に襲われ,釈道安らが長安に拉致(らち)されたため,慧遠は乱を避け弟子数十人を引きつれて荆州上明寺にいたり,さらに羅浮山に赴こうとする途中,廬山の景勝の地で先輩の慧永にとどめられ,江州刺史の桓伊の寄進で東林寺を建て,そこに住した。
それ以後,416年に83歳で没するまでの30年ばかり,〈影,山を出でず,迹,俗に入らず〉の生活をつづけたが,その宗教的感化は江南全域におよび,多くの僧侶のみならず,劉遺民,宗炳(そうへい),雷次宗といった知識人が雲集することになった。インド僧のサンガデーバ(僧伽提婆)が廬山に来るや《阿毘曇心論》《三法度論》の重訳を請うて,彼自身は序文を書き,曇摩流支には《十誦律》の漢訳を依頼し,仏陀跋陀羅が長安から廬山に入るや,《修行方便禅経》などの訳出を要請した。またクマーラジーバ(鳩摩羅什)が長安に迎えられると,書簡を送ってよしみを通じ,たびたび弟子を遣わして教義をただした。この成果が《大乗大義章》である。廬山といえば〈白蓮社の念仏〉,慧遠といえば蓮宗(浄土宗)の祖師といわれるほどに,後世への影響の大きなものは,123人の同志と般若台,阿弥陀像の前において念仏実践を誓約した事跡である。その立誓文は慧遠に代わって劉遺民が書いた。その誓いは,無常観と三世因果応報の教義の上に立てられている。この念仏三昧実践の主要な依拠となった仏典は《般舟三昧経》であって,釈道安の熱心な般若学を継承した慧遠は,称名念仏を説いたのではなく,見仏三昧の念仏をすすめたのである。
慧遠を中心とする廬山教団が隆盛となるにつれ,当時の国家権力との摩擦は避けられなかった。東晋の実力者桓玄が,仏教教団の王権への従属を要求するにいたるや,慧遠は《沙門不敬王者論》を著して反対し,さすがの桓玄も強行を差し控えねばならなかった。しかし,当時の教団が肥大化に伴い俗化してきたことも認めざるをえなかったので,教団の自粛を求めて,教団生活の清規とも称すべき〈法社節度序〉などをつくった。これが後世〈遠規〉とよばれたものである。慧遠から始まる浄土教を〈慧遠流〉とよび,慈愍(じみん)三蔵の流れ,道綽(どうしやく)・善導の流れとともに,中国における浄土教の三流の一つとされている。
執筆者:礪波 護
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中国、東晋(とうしん)時代の仏僧。俗姓は賈(か)。山西省の雁門(がんもん)郡楼煩(ろうはん)県の出身。21歳のころ、釈道安(しゃくどうあん)の『般若経(はんにゃきょう)』の講義に啓発されて弟の慧持(えじ)(337―412)とともに出家した。道安のもとで25年間修学したのち、師と分かれて廬山(ろざん)に入り、東林寺をつくる。廬山に白蓮社(びゃくれんしゃ)という阿弥陀仏(あみだぶつ)の念仏結社をつくり、没するまでの30余年間、廬山を離れず、教団の指導にあたった。後世、中国浄土教の祖師と仰がれる。時の権力者桓玄(かんげん)(369―404)の「沙門(しゃもん)は王者に敬礼すべし」という要求に反対して、404年(元興3)に『沙門不敬王者論(しゃもんふけいおうじゃろん)』を著した。また鳩摩羅什(くまらじゅう)とも書簡を通じて意見を交換し、両者の意見は現在『大乗大義章(だいじょうたいぎしょう)』として残っている。慧遠は東晋時代の仏教界の最高の指導者であり、仏教教団の整備や仏教教理の発展と普及に果たした彼の功績は大きい。
[小林正美 2017年1月19日]
『木村英一編『慧遠研究 遺文篇』『慧遠研究 研究篇』(1960、1962・創文社)』
中国、南北朝から隋(ずい)にかけての地論宗南道(じろんしゅうなんどう)派の学僧。俗姓は李(り)氏。上党の高都(山西省沢州)の出身。13歳で出家、のち東魏(ぎ)の都の鄴(ぎょう)に行き、法上(ほうじょう)(495―580)に就いて『十地経論(じゅうじきょうろん)』を中心とした教学を修めた。その後故郷の沢州で研究講説していたが、北周の武帝の破仏にあい、その際、武帝に対してひとり慧遠のみが、三宝を破壊することは地獄に落ちる仕業であるといさめた。隋の文帝(楊堅(ようけん))は慧遠のために長安に浄影寺(じょうようじ)を建て、以来そこで講説し、示寂したので浄影寺慧遠と称する。沢州に住したころから多くの弟子があり、智顗(ちぎ)や吉蔵(きちぞう)とともに隋の三大法師とよばれる。著作も多く現存し、『大乗義章(だいじょうぎしょう)』26巻はその主著である。
[吉津宜英 2017年1月19日]
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…中国,北周・隋代の僧侶。敦煌(甘粛省)の人。俗姓は李氏。地論宗南道派の法上の門下の第一人者で,北周の武帝が行った廃仏の際に,ひとり抗弁したことで有名。隋の文帝による仏教復興策により,六大徳の一人として召されて長安に入った。浄影寺に住して講読したので廬山の慧遠と区別して〈浄影寺の慧遠〉とよぶ。主著の《大乗義章》14巻をはじめ,《十地経論》《涅槃経》《無量寿経》の注釈を書いた。【礪波 護】…
…中国,廬山の東林寺に住していた晋の慧遠(えおん)法師が安居禁足の誓いをたて虎渓を渡らずにいたところ,ある日,陶潜(淵明),陸修静の2人を送りながら,知らぬまに虎渓を渡ってしまったことに気づき,3人で大笑したという故事。東洋画の画題としてとりあげられることが多く,中国では宋以降禅宗系の絵画に,日本では室町以降漢画系の絵画に,その作例を残している。…
…中国,廬山の慧遠(えおん)撰。5篇。…
…この阿弥陀浄土をとくに説く浄土経典としては《般舟三昧(はんじゆざんまい)経》と《無量寿経》《阿弥陀経》《観無量寿経》のいわゆる〈浄土三部経〉がある。道安の弟子である東晋の慧遠(えおん)は,廬山の東林寺で僧俗123名と念仏結社,いわゆる白蓮社(びやくれんしや)の誓約をしたことで知られ,中国では慧遠を浄土宗(蓮社)の始祖と仰いでいる。ただし,慧遠を中心とする結社は高僧隠士の求道の集まりで,主として《般舟三昧経》に依拠して見仏を期し,各人が三昧の境地を体得しようと志すものであって,ひろく大衆を対象とする信仰運動ではなかった。…
…中国,江西省北部の廬山の北西麓に位置する寺院。東晋の僧慧遠(えおん)が,桓伊(かんい)の寄進で,4世紀末に建てた古刹。慧永の住した西林寺に対した。…
…早く南北両派に分かれ,北道派は後発の摂論(しようろん)宗とその教義が近く,より精緻な摂論宗へしだいに吸収されたのに対し,南道派には多くの学僧が出て盛えた。隋の浄影寺慧遠(えおん)は最も有名で,彼の著《大乗義章》は,南道派地論宗からみた南北朝期の仏教教理学の集大成として重要である。唐代に華厳宗が興ると発展的にその内に吸収されていった。…
※「慧遠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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