林光(読み)ハヤシヒカル

デジタル大辞泉 「林光」の意味・読み・例文・類語

はやし‐ひかる【林光】

[1931~2012]作曲家。東京の生まれ。尾高尚忠師事。「オペラシアターこんにゃく座」の芸術監督をつとめ、日本オペラ発展に寄与した。新藤兼人監督の作品中心に、映画音楽世界でも活躍代表作に、合唱曲「原爆小景」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「林光」の意味・わかりやすい解説

林光
はやしひかる

[生]1931.10.22. 東京
[没]2012.1.5. 東京
作曲家。東京芸術大学作曲科中退後の 1953年,間宮芳生外山雄三と「山羊の会」を結成。1961年,新藤兼人監督の映画『裸の島』(1960)の音楽で第2回モスクワ国際映画祭の作曲賞を受賞。以後,新藤監督のほとんどの作品で音楽を担当する。1975年,日本語による歌芝居を全国で巡演するオペラシアターこんにゃく座の音楽監督(のち芸術監督)に就任。『セロ弾きのゴーシュ』(1986,原作宮沢賢治),『森は生きている』(1992,原作サムイル・Y.マルシャーク),『吾輩は猫である』(1998,原作夏目漱石)など多くの創作オペラを残す一方で,全国の学校を訪問し,子供たちの伴奏に興じるなど,社会に根ざした音楽活動も志した。1989年の中国の天安門事件後に第3交響曲『八月の正午に太陽は…』(1990),阪神・淡路大震災後(→兵庫県南部地震)にビオラ協奏曲『悲歌』(1995,尾高賞)を発表。1971年の合唱曲『原爆小景』(詞原民喜,完結版 2001)は 1980年から毎夏,東京混声合唱団と演奏を続けた。1996年紫綬褒章,1999年サントリー音楽賞を授与された。

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百科事典マイペディア 「林光」の意味・わかりやすい解説

林光【はやしひかる】

作曲家。東京都出身。慶應義塾高等学校から東京芸術大学音楽部作曲科に進む(中退)。10歳の頃から尾高尚忠に作曲を学び,尾高の死後池内友次郎に師事。10代ですでに,室内楽管弦楽の作品を発表して天才を謳われる。日本語による歌曲,オペラの作曲,舞台演劇のソングにも意欲的に取り組み,オペラシアターこんにゃく座の音楽監督・作曲家を務めた。代表作に合唱曲《原爆小景》(1958年,原民喜の詩による),管弦楽《ヴィオラ協奏曲悲歌》(1995年,尾高賞受賞),劇音楽《森は生きている》(オペラ版,1992年)など。映画音楽にも秀作が多い。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「林光」の解説

林光 はやし-ひかる

1931-2012 昭和後期-平成時代の作曲家。
昭和6年10月22日生まれ。尾高尚忠(ひさただ),池内(いけのうち)友次郎にまなぶ。昭和28年間宮芳生(みちお)らと山羊の会を結成。33年合唱曲「原爆小景」第1部「水ヲ下サイ」で脚光をあびた。のち「セロ弾きのゴーシュ」などのオペラから映画音楽まで多彩な作品を発表。平成24年1月5日死去。80歳。東京出身。東京芸大中退。

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ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者) 「林光」の解説

林 光

東京生まれ。作曲を尾高尚忠、池内友次郎に師事。東京芸大中退後、間宮芳生、外山雄三と共に「音楽のあらゆる分野にわたって日本の国民音楽の発展に役立つ仕事をしていきたい」と、「山羊の会」を結成。社会に目を向 ...続き

出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報

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