枢密院(読み)すうみついん

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

枢密院(日本)
すうみついん

明治憲法体制下の国政に関する天皇の最高諮問機関。1888年(明治21)大日本帝国憲法草案審議などのために創設され、翌年発布の明治憲法第56条で「枢密院官制ノ定ムル所ニ依(よ)リ天皇ノ諮詢(しじゅん)ニ応(こた)ヘ重要ノ国務ヲ審議ス」と規定された。創設者伊藤博文(ひろぶみ)らの意図は、議会開設後に予想される政府=藩閥官僚と、議会=政党との対立、紛議の調停者として枢密院を機能させることにあった。構成は議長、副議長、顧問官、書記官長、書記からなり、内閣総理大臣、国務各大臣および丁年に達した親王は会議に出席し評決に加わることができた。顧問官は12名以上とされたが、1890年には25名となり、1913年(大正2)以来24名となった。顧問官は「元勲及ヒ錬達(れんたつ)ノ人」とされたが、多くは官僚が任命された。諮問事項は枢密院官制第6条で、(1)憲法および憲法付属法令の改正案、(2)重要な勅令、(3)外国との条約および行政組織計画、(4)その他とくに諮問された事項、などとされた。会議は天皇の諮問をまって開かれ、審査委員会で審議し、審査報告書を本会議に提出し、審議のうえ決定し、天皇に上奏した。その後1900年(明治33)に山県有朋(やまがたありとも)内閣は政党勢力の官僚機構への侵食を防ぐため御沙汰(ごさた)書をもって、諮問事項に内閣各省官制、文官任用令など官僚組織に関する勅令および教育に関する勅令などを加えて、枢密院の権限を強化して官僚の牙城(がじょう)とした。
 枢密院は「施政ニ干与スルコト」を禁じられていたにもかかわらず、政党内閣が出現すると、政府の法案に意見を付け加えたり、異なった決定をすることにより政府と対立した。1925年(大正14)の普選法制定に際しては治安維持法との抱き合わせを図り、27年(昭和2)には台湾銀行救済の緊急勅令を否決して若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣を倒し、30年のロンドン軍縮条約批准に際しては浜口雄幸(おさち)内閣を攻撃するなど、きわめて政治的な役割を果たした。31年の満州事変以後、政党勢力が後退するとその役割は低下した。第二次世界大戦敗戦後の47年(昭和22)日本国憲法施行に伴って廃止された。[由井正臣]
『美濃部達吉著『枢密院論』(『現代憲政評論』所収・1930・岩波書店) ▽朝日新聞政治経済部編『枢密院問題』(『朝日政治経済叢書5』1930・朝日新聞社) ▽諸橋譲著『明治憲法と枢密院制』(1964・芦書房)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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