桐竹勘十郎(2世)
きりたけかんじゅうろう[にせい]
[生]1920.1.5. 佐賀,唐津
[没]1986.8.14. 大阪,大阪
人形浄瑠璃文楽の人形遣い。本名宮永豊。1932年 2世桐竹紋十郎に入門し,桐竹紋昇を名のり,翌 1933年7月東京劇場で初舞台を踏む。1940~43年と 1944年の 2度にわたる兵役ののち,1945年11月に文楽座に復帰。1949年文楽が二派に分裂すると三和会(みつわかい)に所属,1951年6月に 2世桐竹勘十郎を襲名,座員の層の薄い三和会にあって,若くして師匠の相手役の立役(男役)を数多く務める。初期は動きが荒く外面的な表現が多いと批判されたが,年功を積むとともに内面から情愛がにじみ出るようになった。1963年の文楽協会設立以降は吉田玉男とともに,立役の二本柱として人形の屋台骨を支え,玉男の二枚目・実事(じつごと)に対して『義経千本桜』の権太などの荒物,『仮名手本忠臣蔵』の本蔵のような老け役で対抗し,『伊賀越道中双六』の玉男の十兵衛に対する平作などはほかの追随を許さなかった。滑稽なチャリ役(→ちゃり)も得意で,『生写朝顔話』の祐仙は絶品とされた。社交的な性格で後進にも慕われ,けたはずれの酒豪としても名高かった。長女は女優の三林京子。3世吉田簑助に入門した長男が 3世桐竹勘十郎を襲名した。1982年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され,1983年紫綬褒章,1986年勲四等旭日章を受章した。(→浄瑠璃,人形浄瑠璃)
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桐竹 勘十郎(2代目)
キリタケ カンジュウロウ
- 職業
- 文楽人形遣い
- 専門
- 人形浄瑠璃
- 肩書
- 重要無形文化財保持者(人形浄瑠璃文楽・人形)〔昭和57年〕
- 本名
- 宮永 豊(ミヤナガ ユタカ)
- 別名
- 前名=桐竹 紋昇
- 生年月日
- 大正9年 1月5日
- 出生地
- 佐賀県 唐津市
- 学歴
- 唐津市立育英商工塗工学科〔昭和7年〕卒
- 経歴
- 昭和7年12歳の時、2代目桐竹紋十郎に入門。桐竹紋昇を名乗り、8年初出演。24年文楽が2派に分裂、のちの三和会に入る。26年2代目桐竹勘十郎を襲名。立役・荒物遣いとして成長。57年人間国宝に。「絵本太功記」の光秀、「夏祭浪花鑑」の団七などの荒物、また「生写朝顔話」の祐仙などのおどけたチャリ物に独特の味があった。
- 受賞
- 紫綬褒章〔昭和58年〕,勲四等旭日章〔昭和61年〕 因会年間優秀賞〔昭和30年〕,大阪市民表彰〔昭和53年〕,大阪文化祭賞(金賞)〔昭和56年〕,国立劇場文楽賞(特別賞)〔昭和58年〕,大阪芸術賞〔昭和60年〕
- 没年月日
- 昭和61年 8月14日 (1986年)
- 家族
- 長男=桐竹 勘十郎(3代目),長女=三林 京子(女優)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
桐竹 勘十郎(2代目)
キリタケ カンジュウロウ
昭和期の文楽人形遣い
- 生年
- 大正9(1920)年1月5日
- 没年
- 昭和61(1986)年8月14日
- 出生地
- 佐賀県唐津市
- 本名
- 宮永 豊
- 別名
- 前名=桐竹 紋昇
- 学歴〔年〕
- 唐津市立育英商工塗工学科〔昭和7年〕卒
- 主な受賞名〔年〕
- 因会年間優秀賞〔昭和30年〕,大阪文化祭賞(金賞)〔昭和56年〕,国立劇場文楽賞(特別賞)〔昭和58年〕,紫綬褒章〔昭和58年〕,大阪芸術賞〔昭和60年〕
- 経歴
- 昭和7年12歳の時、2代目桐竹紋十郎に入門。桐竹紋昇を名乗り、8年初出演。26年2代目桐竹勘十郎を襲名。57年人間国宝に。光秀、団七などの荒物、また祐仙、丈八などのおどけたチャリ物に独特の味があった。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
桐竹勘十郎
きりたけかんじゅうろう
(1920―1986)
文楽(ぶんらく)人形遣い。本名宮永豊。佐賀県唐津(からつ)生まれ。12歳で2世桐竹紋十郎に入門、紋昇を名のり翌年に東京劇場『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』の峰松で初舞台。第二次世界大戦後の文楽の二派分裂で師匠とともに三和(みつわ)会に属し、立役(たちやく)の中心的存在として頭角を現し、1951年(昭和26)2世勘十郎を襲名した。切れのよい技と肚(はら)の強さで立役とくに荒物(あらもの)遣いの第一人者。82年重要無形文化財保持者に認定された。長男豊実(1953― )は1967年3世吉田簑助(みのすけ)に入門し、吉田簑太郎を名のる。68年初舞台。立役、女形両方を遣う。2003年(平成15)3世勘十郎を襲名した。なお、初世は16世紀末から17世紀にかけての人形の立役者で、桐竹派の祖とされるが、さだかでない。
[山田庄一]
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桐竹勘十郎(3代) きりたけ-かんじゅうろう
1953- 昭和後期-平成時代の人形浄瑠璃(じょうるり)の人形遣い。
昭和28年3月1日生まれ。2代桐竹勘十郎の長男。昭和42年吉田簑助(みのすけ)に入門し,翌年大阪毎日ホールで初舞台。芸術選奨新人賞,国立劇場文楽奨励賞などを受賞。新作文楽も創作するなど幅ひろく活躍。平成15年3代桐竹勘十郎を襲名。20年「絵本太功記」「夏祭浪花鑑」で芸術選奨文部科学大臣賞。22年「文楽人形遣いとして高度な技をもった活躍及び文楽界における貢献」で芸術院賞。大阪出身。前名は吉田蓑太郎。本名は宮永豊実。
桐竹勘十郎(2代) きりたけ-かんじゅうろう
1920-1986 昭和時代の人形浄瑠璃(じょうるり)の人形遣い。
大正9年1月5日生まれ。2代桐竹紋十郎の門弟。前名は桐竹紋昇。戦後師とともに三和(みつわ)会に所属し,昭和26年2代勘十郎を襲名。57年人間国宝。立役(たちやく)遣いとして荒物(あらもの)や三枚目役を得意とした。昭和61年8月14日死去。66歳。佐賀県出身。本名は宮永豊。
桐竹勘十郎(初代) きりたけ-かんじゅうろう
?-? 江戸時代前期の人形浄瑠璃(じょうるり)の人形遣い。
延宝(1673-81)のころの虎屋(とらや)座の立役者で,桐竹派の祖とされる。元禄(げんろく)のころまで活躍した。
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桐竹 勘十郎(2代目) (きりたけ かんじゅうろう)
生年月日:1920年1月5日
昭和時代の人形浄瑠璃の人形遣い
1986年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報