日本歴史地名大系 「水沢村」の解説
水沢村
みずさわむら
水沢村
みずさわむら
日本海に注ぐ水沢川を遡行するように、東北に細長く広がる。東は
天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「五百五拾六石七斗三升三合 たハら田村 水沢村」とある。
享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」は支郷として
水沢村
すいざわむら
江戸時代は菰野藩領。当村および鈴鹿郡の
水沢村
みずさわむら
水沢村
みずさわむら
水沢村
みずさわむら
水沢村
みずさわむら
水沢村
みずさわむら
水沢村
みずさわむら
出羽丘陵の東部、
天正一八年(一五九〇)頃と推定される「別紙覚書の写」(色部文書)に「横手領 馬守よりの請分」として
とあり、太閤蔵入地となっていた。
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に一九一石とある。宝永二年(一七〇五)の雄勝郡村々御黒印高牒(秋田県庁蔵)によれば、高は本田一五四石七斗八升四合、新田二一石五斗三合、合計一七六石二斗八升七合(当高一八七石七斗四升二合)。享保八年(一七二三)の雄勝郡郡村本村支村御高共調帳(秋田県庁蔵)では当高は変わらず、家数は一七軒。
水沢村
みずさわむら
水沢村
みずさわむら
雄物川左岸、東は小山を境に
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に鮎川村の内氷川村とある。のち平沢村の支郷となり、享保一四年(一七二九)の河辺郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)に「水沢村 平沢村支郷、御境近処」とあり、同一五年の「六郡郡邑記」には「水沢村九軒」と記される。文化一二年(一八一五)の「秋田風土記」には「支村水沢、此村に村長役人有、平沢は川を隔て在、不通用の里也」とある。
背後に深い山をひかえ、また、亀田藩境に近く、「峯の上道あり、此辺ハ亀田城下及村々に通る道幾筋もあり」(六郡郷村誌略)とある要地であった。
水沢村
みずさわむら
水沢村
みずさわむら
水沢村
みずさわむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報