水沢村(読み)みずさわむら

日本歴史地名大系 「水沢村」の解説

水沢村
みずさわむら

[現在地名]鶴岡市水沢

広浜ひろはま村の北東、虚空蔵こくぞう山の北麓にある。東は大山(八沢)川を挟んで田川たがわ村。水沢・楯河原たてがわら石山いしやまの三集落からなり、近世には行政上はしもたに・中ノ谷・上ノ谷といわれ、文化一三年(一八一六)からは下水沢・中水沢・上水沢と改称された(水沢部落史)。石山・水沢城みずさわきしたなどからは須恵器・土師器系の蔵骨器が発見され、墳墓とみられている。また地蔵堂じぞうどう山からは銅板製経筒や刀子・開元通宝が発見され、経塚とみられている。これらは平安から鎌倉時代にかけてのものといわれる。石山(上水沢)の曹洞宗不二ふじ軒のうしろは本陣ほんじん山といわれ、また山門の近くの小丘は土矢倉つちやぐらといわれる。楯河原(中水沢)水上みなかみ・八幡神社は神楽かぐら館という館跡にあり、水沢(下水沢)には城ノ下の地名がある。


水沢村
みずさわむら

[現在地名]峰浜村水沢

日本海に注ぐ水沢川を遡行するように、東北に細長く広がる。東ははなわ村、北は目名潟めながた村、南は沼田ぬまた村・田中たなか村・畠谷はたや村に接し、西は日本海。水沢村本郷は砂丘上に発達するが、村の東北部は山地。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「五百五拾六石七斗三升三合 たハら田村 水沢村」とある。

享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」は支郷として川野尻かわのしり村・三森みつもり村・大台おおだい村、大保台おおほだい(大久保台村)、鉱山を記し、三森村は寛文(一六六一―七三)頃、大台村は天和(一六八一―八四)頃、大保台村は元禄末期の開村とし、いずれも秋田郡比内ひない(現北秋田郡・大館市)からの移住としている。川野尻村は文化一二年(一八一五)の「秋田風土記」に「今はなし」とある。「六郡郷村誌略」に「此村農業の外産なし」とあり、周辺の村々で最大の石高を得ていた。


水沢村
すいざわむら

[現在地名]四日市市水沢町

小山おやま村の西方、内部うつべ川の左岸台地上にある。古代の葦田あしみた郷に属すと考えられる。「神鳳鈔」に出る「足見田社神田三反」はこの地に比定される。水沢の地名は、文明年間(一四六九―八七)末と思われる伊勢国智積・川嶋山田境指図(醍醐寺文書)にみえる。

江戸時代は菰野藩領。当村および鈴鹿郡の深溝ふかみぞ村・大久保おおくぼ(現鈴鹿市)は、台地上にあり水利の便が悪く、内部川からの取水をめぐってしばしば水論が起こっている。大久保村との間では、当村が大久保村の井堰の上手に井堰を作り取水したことに端を発して争いとなったが、慶安五年(一六五二)幕府の裁許が下り、当村の勝訴となった(「岡田将監裁決覚書」丹羽家蔵)。深溝村との水論は、寛文三年(一六六三)当村が深溝村の井堰を切落し、水沢村新田下河内しもごちに取水したことより起こった。


水沢村
みずさわむら

[現在地名]西川町水沢

寒河江さがえ川中流左岸の低い河岸段丘上に位置し、南流する支流横岫よこごき(「よこぐき」とも)川まで石倉いしぐら・横岫の小集落があり、東は水沢川を境に綱取つなとり村となるが、水沢川上流に下小沼しもおぬま・上小沼の二集落がある。黒森くろもり山の麓に縄文時代の遺跡がある。最上氏領から元和八年(一六二二)酒井忠重領となり、寛永一五年(一六三八)幕府領、安政三年(一八五六)以降松前藩領。最上盛衰実録(西川町史資料)では元和八年の高四六六石余とあり、寛永二年の高四七〇石余。正保郷帳では田方四三三石余・畑方三六石余。近世中期には天候不順で悪作が続き、米価も上がって人々は難儀していた。日々飢えが迫るなかで、寛延元年(一七四八)当村百姓大八は寒河江・白岩領三九ヵ村総代として山本代官に川普請費用・金納値段・畑上納・検見仕法・年貢軽減などを訴え、さらに勘定奉行に訴願した(西村山郡史)


水沢村
みずさわむら

[現在地名]伊香保町水沢

浅間せんげん(水沢山)の東麓に位置し、北境を同山北麓を水源とする黒沢くろさわ川が、南境を同山南麓船尾ふなお滝に源を発する滝沢たきざわ川がそれぞれ東流する。東は湯上ゆのうえ村・有馬ありま(現渋川市)および当村入会の秣場、南は上野田かみのだ(現吉岡村)ほか一二ヵ村入会秣場、北は伊香保村ほか五ヵ村入会秣場。集落の西に坂東三十三ヵ所一六番札所の水沢観音(寺)があり、同観音の門前町といえる。「万葉集」(巻一四)東歌、相聞の「伊香保ろの八尺の堰塞やさかのいでに立つ虹の顕のじのあらはろまでもさをさ寝てば」にみえる八尺の堰塞(井堤)跡を当地の井堤平いでだいら辺りに比定する説もある。


水沢村
みずさわむら

[現在地名]栃尾市水沢

栃尾盆地の北西部、刈谷田かりやだ川の蛇行によって作られた氾濫原を中心に、北東側は文納ぶんのう村に続く山林が広がり、南東は悪戸川あくとがわ村、南は楡原にればら村、西は岩野いわの村新田、北はからすしま村。刈谷田川の洪水で川の流路や幅が変わり、土手が移動し、その度ごとに居住地を移転した。村名も「温古之栞」の天正村名考にも「水たまり(水沢)」と記される。開村年代は不明であるが、口碑によると関東管領上杉氏が戦いに敗れ、その落人が住みついたという。


水沢村
みずさわむら

[現在地名]飯山市大字常盤ときわ

長峰ながみね丘陵のほぼ中央東麓、水沢平みずさわだいらの西側に立地。上水沢かみみずさわ・下水沢を含めて一村をなし、北に大塚新田おおつかしんでんがある。

応安三年(一三七〇)六月八日付藤井下野入道宛上杉朝房奉書(上遠野文書)に「信濃国水内郡常岩南条・後閑・水沢・有尾・中曾禰等事」とあるのが初見で、藤井氏の知行地であったことがわかる。

慶長七年(一六〇二)森忠政の検地では高四六九石三升二合でその後変わらず、天保郷帳では大塚新田を併せて一千一一六石二升三合、増加が著しいのは平用水の開削による。


水沢村
みずさわむら

[現在地名]熱塩加納村熱塩

熱塩村の北東、日中につちゆう(押切川上流)の左岸に位置する。かつて集落は南方下流三町ばかりの地にあったが、日中川の洪水によりいつの頃か上流に移ったという(「新編会津風土記」など)。集落の北を日中川に注ぐ渓流自村じそん沢が西流する。永和二年(一三七六)閏七月五日の正秀寄進状(示現寺文書)に「岩崎村内(中略)水沢」とみえ、正秀(太郎丸氏か)は当地などを示現じげん寺に寄進、寄進地の万雑公事を停止している。


水沢村
みずさわむら

[現在地名]羽後町水沢

出羽丘陵の東部、新町しんまち川の谷口近くに位置し、北は林崎はやしざき村、東は足田たらだ村、西は上到米かみとうまい村、南は西馬音内堀廻にしもないほりまわり村と各々山越えに接する。

天正一八年(一五九〇)頃と推定される「別紙覚書の写」(色部文書)に「横手領 馬守よりの請分」として

<資料は省略されています>

とあり、太閤蔵入地となっていた。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に一九一石とある。宝永二年(一七〇五)の雄勝郡村々御黒印高牒(秋田県庁蔵)によれば、高は本田一五四石七斗八升四合、新田二一石五斗三合、合計一七六石二斗八升七合(当高一八七石七斗四升二合)。享保八年(一七二三)の雄勝郡郡村本村支村御高共調帳(秋田県庁蔵)では当高は変わらず、家数は一七軒。


水沢村
みずさわむら

[現在地名]大野村水沢

高家こうげ川の水源地帯にあり、西は小軽米こがるまい(現軽米町)との境をなす丘陵で、東部は緩やかな丘陵地帯。北は大野村、東は夏井なつい(現久慈市)、南は戸呂町へろまち(現山形村)。元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳には帯島たいしま村三ヵ村の一として村名がみえ、田六石余・畑四三石余。天保八年(一八三七)の仮名付帳でも帯島村の枝村とされる。旧高旧領取調帳で独立村とされ、高四三石余。元禄一六年の飢饉で、大野村・帯島村と当村の死馬一〇九頭(八戸藩日記)。宝暦五年(一七五五)の飢饉では大野・帯島・阿子木の三村とともに藩へ味噌一二五貫の拝借を請願したが(同日記)、翌六年の餓死者七人(御勘定所日記)


水沢村
みずさわむら

[現在地名]雄和町平沢字水沢

雄物川左岸、東は小山を境に相川あいかわ村、北西は白根館しらねだて跡を隔てて下黒瀬しもくろせ村と接する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に鮎川村の内氷川村とある。のち平沢村の支郷となり、享保一四年(一七二九)の河辺郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)に「水沢村 平沢村支郷、御境近処」とあり、同一五年の「六郡郡邑記」には「水沢村九軒」と記される。文化一二年(一八一五)の「秋田風土記」には「支村水沢、此村に村長役人有、平沢は川を隔て在、不通用の里也」とある。

背後に深い山をひかえ、また、亀田藩境に近く、「峯の上道あり、此辺ハ亀田城下及村々に通る道幾筋もあり」(六郡郷村誌略)とある要地であった。


水沢村
みずさわむら

[現在地名]猪苗代町三郷みさと

堀切ほりきり村の北東、ひじり川の西岸平地に位置する。「新編会津風土記」にみえる内野うつの村端村大水沢おおみずさわ新田(家数五)・堀切村端村大水沢(家数三)が幕末に一村となったものと思われる。同書によれば、大水沢新田は寛永年中(一六二四―四四)の開発という。当村鎮守熊野神社の灯籠には寛保元年(一七四一)の年紀と「内野新田大水沢村」の銘が刻されている。


水沢村
みずさわむら

[現在地名]仁賀保町水沢

冬師とうし山の西麓、大沢おおさわ川上流にあり、北は小国おぐに村、東は冬師山を隔ててかま台新田だいしんでん村、西ははた村に接する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に三七石とある。支配の変遷は平沢ひらさわ村と同じで、寛永元年(一六二四)仁賀保家の分知で内膳誠政(二千石家)領となる。


水沢村
みずさわむら

[現在地名]双葉町水沢

前田まえだ川左岸の小集落で、北東は前田村、北は目迫めさく村。明暦二年(一六五六)宮迫みやさく村として独立し、当時の高一六三石余とあるが(相馬藩政史)、すでに正保郷帳に宮迫村とあり、田方九八石余・畑方一八石余。元禄郷帳でも宮迫村で高一二三石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

グレーゾーン解消制度

個々の企業が新事業を始める場合に、なんらかの規制に該当するかどうかを事前に確認できる制度。2014年(平成26)施行の産業競争力強化法に基づき導入された。企業ごとに事業所管省庁へ申請し、関係省庁と調整...

グレーゾーン解消制度の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android