洞泉寺(読み)とうせんじ

日本歴史地名大系 「洞泉寺」の解説

洞泉寺
とうせんじ

[現在地名]岩国市横山一丁目

永興ようこう寺の西隣にある。盤目山と号し、曹洞宗本尊釈迦如来。

吉川氏の菩提寺で、岩国藩五ヵ寺の筆頭であった。元禄八年(一六九五)の「寺社記」によれば、開山の無聞は薩摩国永興寺の量外の弟子。開基の吉川経信が安芸国山県やまがた新庄しんじよう(現広島県山県郡大朝町)建立、無聞を請じて住持としたもので、その後、吉川経基が寺領などを寄進代々の菩提所となったという。

天正一九年(一五九一)吉川氏は安芸国新庄より出雲国富田とだ(現島根県能義郡広瀬町)へ移ったが、時の住持松屋は伯耆国法勝寺中谷保寧ほねい(現鳥取県西伯郡西伯町)にいて寺役を勤めていた。


洞泉寺
とうせんじ

[現在地名]大和郡山市洞泉寺町

霞渓山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀三尊像。天平九年(七三七)宝与の開基。三河国挙母ころも(現愛知県豊田市)にあった洞泉寺を平群郡長安寺ちようあんじ(現大和郡山市)に移し、天正一三年(一五八五)現在地に移転した。本尊の木造阿弥陀三尊立像は鎌倉時代の作で、寺伝では安阿弥作とする国指定重要文化財。境内には石棺と伝える石製品、南北朝時代の製作といわれる石造地蔵菩薩立像などがある。境内の源九郎げんくろう稲荷神社は「洞泉寺記録」によれば、豊臣秀長が郡山城築城の際、その守護神として吉野川のほとりから遷祀したと伝える。


洞泉寺
とうせんじ

[現在地名]八幡町中坪

小駄良こだら川右岸の山麓高台、字上尾崎かみおさきにある。松峰山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来は、寺伝では聖徳太子作という。慶長年中(一五九六―一六一五)八幡城主遠藤慶利が願主となって建立し、岐阜町本誓ほんせい寺専念の弟子然誉を開山とする。三世綽誉の代に京都知恩院直末となったという。遠藤氏家中分限帳(竹村文書)では寺領高三〇石。明治一一年(一八七八)には本堂庫裏・鐘鼓堂・表門からなり、境内坪数六六二坪。


洞泉寺
とうせんじ

[現在地名]松代町室野

室野むろの集落にあり、鶏足山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦牟尼仏。永和年間(一三七五―七九)創立と伝える。古くは現在の大島おおしま村と松之山まつのやま町の境鼻毛はなげ(法師峠)の近く鼻毛池のほとりにあり真言宗、元和元年(一六一五)室野村に移り現在に至る。本堂は棟札により明和七年(一七七〇)の建立と判明し、入母屋造で虹梁絵様など装飾細部も進んでおり、正面入口の引違戸には嘉永五年(一八五二)の墨書がある。


洞泉寺
どうせんじ

[現在地名]宮川村林

JR高山本線坂上駅に隣接し、寺の下を国道三六〇号が通る。玉皐山と号し、曹洞宗。本尊釈迦三尊。寺伝によれば、高山素玄そげん寺二世格翁門越ははやし村に一寺を定め開山となり、小島こじま(現古川町)城主小島時光の守本尊であった聖観音を本尊としたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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