田川村(読み)たがわむら

日本歴史地名大系 「田川村」の解説

田川村
たがわむら

[現在地名]三潴町田川

筑後平野のほぼ中央、ひろ川下流左岸、長峰ながみね筋の洪積台地上にある。南は西牟田にしむた村、南西は大犬塚おおいぬづか村、西は小犬塚こいぬづか村・高三潴たかみづま村、北は早津崎はやつざき村。中世は三潴庄とう郷のうちで、田河村・田川村などとみえる。永仁四年(一二九六)一二月日の玉垂宮并大善寺仏神事記文(御船文書/鎌倉遺文二五)によると、三潴庄の鎮守大善だいぜん玉垂たまたれ(現久留米市)の正月三日御供米五斗六升、春祠使幣官料五斗の神事用途を負担し、五月会で左方相撲人を出し、九月一九日の九月会では西牟田とともに十六番の頭役を勤め、分米三石五斗四升を負担した。貞和三年(一三四七)九月二三日の高良宮祭料米色々神役村々注文写(同文書/南北朝遺文(九州編)二)では春祭分の祭料米五斗、元三日御供料米五斗六升、九月会・祭頭・相撲、大善寺檀供五枚を負担した。当地を名字の地とする田河氏は西牟田氏の有力家臣であった。天文一九年(一五五〇)四月一九日、肥後国の菊池義武に呼応して挙兵した西牟田弥次郎の名代として、田河中務丞・田河民部丞が溝口丹後守の溝口みぞくち(現筑後市)から三池親員の在所まで通過しようとした際、鷹尾たかお(現大和町)に拠る田尻親種の伏兵と戦闘に及び両名をはじめ多数の軍勢が戦死している(「大友義鎮袖判田尻親種手負注文」田尻家文書/佐賀県史料集成七)


田川村
たがわむら

[現在地名]鶴岡市田川

水沢みずさわ村の南東、大山(八沢)川の両岸に開ける。村のほぼ中央で南東から流れる少連寺しようれんじ川が大山川に合流する。東は大日だいにち坂を越えて田川湯たがわゆ村。下田川しもたがわ村・町田川まちたがわ村ともいわれ、郷帳類では下田川村とある。郡名発生の故地といわれ、文政年間(一八一八―三〇)鈴木重典の著した「田川の桴」には田川八幡神社の前鎮座地上津瀬かみつせ(大机)坂野下さかのしたを上田川、大山川の川下を下田川と称したと記している。また当地は田川郡の豪族田川(河)氏の本拠地とされる。「吾妻鏡」によれば奥州合戦の際の文治五年(一一八九)八月七日、奥州藤原氏方の田河太郎行文は秋田三郎致文とともに出羽国の警固にあたった。しかし同月一三日出羽国へ進出した比企能員らの軍に敗れ、行文・致文らは梟首となった。行文は藤原泰衡の郎従とみえており、田川氏は藤原氏滅亡後衰えたと考えられる。


田川村
たがわむら

[現在地名]小矢部市田川

法楽寺ほうらくじ村の北東、小矢部川子撫こなで川の合流地北西岸の平地と稲葉いなば山東麓丘陵に立地。小矢部川対岸にも飛地がある。氷見ひみ道が通る。「蔭涼軒日録」延徳二年(一四九〇)二月八日条に「大徳院領越中田河保」がみえる。同日条によるともと田河氏の所領であったが、南北朝期に同氏が桃井直常に属したため室町幕府に収公されて幕府奉公衆の波多野氏に与えられ、その後波多野氏から京都相国しようこく大徳だいとく院に寄進された。


田川村
たがわむら

[現在地名]五所川原市田川

岩木川下流右岸に位置し、南東は新宮しんみや村、北は川元かわもと村に接する。

貞享四年(一六八七)検地帳に田方二〇町四反一畝一歩・畑方三町八反六畝一九歩、田畑屋敷合せて二四町二反七畝二〇歩、村高一八二・五五石とある。寛永年間(一六二四―四四)から開発が始まった五所川原新田の一つで(平山日記)、天和元年(一六八一)円満館として五所川原遣へ入り、貞享四年田川村と改称した(五所川原町誌)。元禄三年(一六九〇)には広田組に属し、村位は下で、家数一一、うち庄屋一・百姓六・水呑四であった。寛政元年(一七八九)当村の検地があり、経費を組割合にし、明和元年(一七六四)荒田畑の開発を藩へ願出ている。


田川村
たがわむら

[現在地名]浅井町田川

瓜生うりゆう村の南西、川右岸に位置。北部の小谷おだに山系の山地に一対の古墳があり、その東麓に田川溜池がある。南西端を北国脇往還が通る。天正二〇年(一五九二)の料足借状(平野庄郷記)に村名がみえる。文禄五年(一五九六)三月一日、石田三成が年貢・夫役などに関する一三ヵ条の掟を出しており(小室文書)、慶長五年(一六〇〇)九月一六日には徳川家康が当村など一九ヵ村に三ヵ条の禁制を出している(南部文書)


田川村
たがわむら

[現在地名]堀之内町田川

下島しもじま村の東。魚野うおの川の支流田河たがわ川が、魚野川に開ける宇賀地平うがちだいらに出る口の左岸にある。南の田河川上流は魚野地うおのじ村。天文二一年(一五五二)一〇月一〇日の宇佐美定満書状(平子文書)に「押生田河本領之義」「田河全部被押領」とみえる。これは長尾景虎が故多却小三郎の本領をひう(現小千谷市)の平子孫太郎に与えたことに対し、宇佐美定満が反対している。


田川村
たがわむら

[現在地名]三間町田川

三間盆地の北部に位置し、三間川の支流牛岩うしいわ川に沿う村で、南は金銅村、東は音地おんじ村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「田川村 茅山有」と村名がみえる。吉田藩領であった。太閤検地の石高は三五〇石、正保検地の石高は三二八石五斗二升七合である。


田川村
たがわむら

[現在地名]古座川町田川

赤木あかぎ村の北にある小村。山を隔てて東は樫山かしやま村の小名山手川やまてがわ、西は宇筒井うづつい村。慶長検地高目録に「我野村」とみえ、村高二七石余、小物成一・一七三石。


田川村
たがわむら

[現在地名]木更津市田川

草敷くさじき村の東に位置する。正保国絵図に村名がみえ、高二六八石。元禄郷帳では高二七六石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳によると家数四七、旗本曾雌・折井・大井の三家領。旧高旧領取調帳では幕府領と前掲三家領。


田川村
たがわむら

[現在地名]河内村田川

利根川左岸の堤防沿いの低地にある。村の北部一帯は利根川の旧氾濫原の新田地帯。時期は不明であるが、野村氏が上田川かみたがわ、糸賀氏が中田川を開拓し、戸数が六軒となり耕地に「六軒割」の名を生じたといい、また新兵衛が下田川を、広沢伊兵衛がその一部を開いたといわれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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