那覇市の南西約二九〇キロに位置する低島。面積一五八・七三平方キロ。方音ではミャークズマで、麻姑山などとも記され、また
宮古島を城辺町を中心とする東部地域、平良市辺りの西部地域、下地町辺りの南部地域、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
沖縄県宮古島,伊良部(いらぶ)島にある市。2005年10月平良(ひらら)市と伊良部,城辺(ぐすくべ),下地(しもじ)の3町および上野(うえの)村が合体して成立した。人口5万2039(2010)。
宮古島市西部,旧宮古郡に属する島。面積30.4km2。宮古島の西方約7kmに位置し,西に隣接する下地島をあわせて伊良部町を形成していた。同町の人口は6903(2000)。全島琉球石灰岩で覆われ,北の海岸は急崖をなし,南に向かって緩傾斜する。伊良部,仲地,国仲,長浜,佐和田,および佐良浜と総称される前里添,池間添の7集落からなる。古くからの伊良部のほかは,近世に首里王府の政策により発生した集落である。池間島からの分村に由来する佐良浜集落は,県下でも著名なカツオ漁を中心とした漁村で,ミクロネシアなどの南方海域への漁業出稼者も多い。他の集落では,サトウキビ作を中心とした農業が盛ん。
宮古島市南部の旧村。旧宮古郡所属。人口3182(2000)。1948年に下地町から分離した。西は旧下地町,北は旧平良市,東は旧城辺町に隣接し,南は太平洋を望む。地質は琉球石灰岩からなり,地形は北の野原(のばる)岳(109m)を最高位に南になだらかに傾斜する。野原岳には,宮古列島唯一の軍事施設,航空自衛隊那覇基地の宮古島分屯基地があるほか,眺望がよいため公園として整備されている。村落は18世紀に創建あるいは再建された野原,宮国,新里のほか,それ以後に開拓された6村落がある。サトウキビを基幹作物とし,葉タバコ,カボチャが栽培される。また,肉用牛の畜産も行われる。1873年,南部の宮国沖合海上で座礁したドイツ商船の救助活動に対し,ドイツ皇帝より〈博愛記念碑〉が贈られ,旧平良市内に建てられた。こうした歴史的背景から,1996年に〈うえのドイツ文化村〉を開設した。
宮古島市南東部の旧町。旧宮古郡所属。人口7291(2000)。西は旧平良市,旧上野村と接し,南と北は太平洋に面する。洋上に2kmほど突出する東端の東平安名岬(あがりへんなざき)は,景勝の地で,観光地として整備されている。町の地形は琉球石灰岩からなるカルスト台地で,北西から南東方向へ数列の石灰岩堤が走る。これらの石灰岩堤間の平たん地には,耕地と集落が展開し,サトウキビを基幹作物として,タバコ,カボチャ,ユリの球根のほか,養蚕用の桑の栽培がみられる。また,肉用牛を中心とした畜産も行われている。島には地表水はなく,上水道はじめすべての水源を地下水に依存しているが,不足ぎみの農業用水確保のため,1979年琉球石灰岩の地下水盆を利用した皆福地下ダムが完成し,世界初の本格的地下ダムとして期待されている。海岸線はほとんどが急崖からなる。古くは海岸沿いに多くの村落があったが,マラリアと1771年(明和8)の大津波によりすべて廃絶した。その後,首里王府によって強制移住が進められ,当時の開拓村落が今日に至っている。
宮古島市南西部の旧町。旧宮古郡所属。宮古島南西部と,2km沖合の来間(くりま)島からなる。人口3172(2000)。地形は北東部が高く,南西方向へ緩傾斜する。地質はほとんどが琉球石灰岩からなるが,一部第三紀泥灰岩がみられる。魚介類の豊富な与那覇湾から入江湾にかけての地域は,現在サトウキビ畑として利用されているが,以前は水田耕作もわずかながら行われていた。サトウキビのほか,タバコや野菜が栽培され,肉用牛,乳用牛の畜産も盛んである。風光明美な与那覇前浜には,本土観光企業による大型ホテルが建設され,観光地としての整備が進展している。来間島は周囲約6km,面積約3km2,ほぼ円形の小島で,島の北から東にかけての海岸は高さ40m余の切りたった崖をなしている。人口は166人(1995)で,過疎化が進んでいる。
宮古島市北部の旧市で,宮古島の中心都市。1947年市制。人口3万3701(2000)。市域は宮古島の北部を占め,池間島,大神島の離島を含む。池間島と宮古島とは池間大橋がある。ほとんどが琉球石灰岩(一部は第三紀泥灰岩)からなる低平な台地であるが,北西から南東方向に走る数条の石灰岩堤が地形に変化を与えている。漲水(はりみず)港に面したピイサラ(平良)。荷川取(にかどり),東仲宗根,西仲宗根,西里,下里の各字からなるが中心市街地をなし,このほかの集落は久松,池間,狩俣などで,カツオの遠洋漁業を中心とする漁業が盛んなほかは農村地域であり,サトウキビを中心に,タバコ,カボチャが栽培され,養蚕や肉用牛の畜産も盛んである。琉球王朝時代から明治期に至るまで,過酷な人頭税が課せられていたが,1893年からの新潟県人中村十作,那覇出身の城間正安らの指導による人頭税廃止運動で,1903年にようやく撤廃された。貢納布であった宮古上布は,78年に国の重要無形文化財の指定を受けた。北部の島尻から北へ海上約4kmの大神島(面積約0.3km2)は御嶽(おたけ)信仰の祭事に古くからの伝統を守り,外来者は参加できない。宮古空港があり,航空路線が整備され,那覇,石垣,多良間のほか大阪,東京へも路線が開設されている。
執筆者:町田 宗博
沖縄県宮古列島の主島。沖縄島(本島)の南西約300kmに位置する。面積158km2。最高点の標高が109m(野原(のばる)岳)の低平な島で,琉球王朝時代に宮古は太平山(たいへいざん)とも呼ばれた。平良(ひらら)市と宮古郡の下地(しもじ)町,城辺(ぐすくべ)町,上野村からなっていたが,2005年10月伊良部島の伊良部町を含めた合併により宮古島市となった。島の輪郭はほぼ三角形で,南岸と北東岸はおおむね直線状,西岸は大浦湾,漲水(はりみず)湾,与那覇湾が湾入する。北端に西平安名(いりへんな)岬と瀬戸崎が突出する狩俣半島,東端に平安名崎があり,西の与那覇湾には西浜崎が突出する。島は第四紀の琉球石灰岩からなる台地状の地形で,北西から南東方向へ約2kmの間隔で数条の石灰岩堤が走る。石灰岩堤は,おおむね北東に急崖をなして南西に緩傾斜し,岩堤間の平地や緩斜面には,耕地や集落が展開している。琉球石灰岩は多孔質で割れ目が多く,降雨は地下に浸透しやすい。このため地表河川は発達せず,宮古島の上水源はすべて湧泉や地下水に依存してきた。島内の4市町村で宮古島上水道企業団(1965年前身の宮古島水道組合設立,72年本土復帰にともない改称)を組織し,沖縄でも有数の水量を誇る北部海岸近くの白川田湧水を水源として各家庭に水が送られていた。また,土層が保水力に乏しく,しばしば干ばつに見舞われてきたため,1979年に農業用水の確保を目的として,世界初の本格的地下ダムである皆福(みなふく)地下ダム(総貯水量120万m3)が城辺町に完成した。古くからの代表的湧泉はほとんど海岸沿いに分布し,これに対応して伝統的な古い村落も海岸沿いにある。内陸部の村落はほとんど近世以後の開拓によるもので,集村の多い沿岸部に対し,散村景観が著しい。なお合併に伴い,宮古島上水道企業団と伊良部町水道課が統合されて宮古島市水道局となった。
宮古島は台風の常襲地域でもあり,島名を冠した台風が三つある。1959年の第1宮古島台風(サラ台風)は,陸上観測史上最低気圧の908hPaを記録。66年の第2宮古島台風(コラ台風)では,最大瞬間風速85.3m(気象庁の観測史上最大)を記録している。さらに2年後の68年には第3宮古島台風(デラ台風)に見舞われた。このような強風に耐えるため,島の民家は周囲に石垣や防風樹をめぐらし,しっくいで固めた屋根瓦をもつ低層のものが多い。このほか,第2次大戦後に防遏(ぼうあつ)されるまで,宮古島はマラリアの有病地域でもあり,数多くの集落が廃絶あるいは移動を余儀なくされている。また,琉球王朝時代から明治初期に至るまで,過酷な人頭税が八重山列島と同様に課せられていた。その貢納布であった宮古上布は,1978年国の重要無形文化財に指定されている。島はサトウキビを基幹作物とし,冬から春にかけての端境期に出荷されるカボチャ,トウガン,スイカなどの野菜や,タバコ,花卉が栽培され,養蚕や畜産も盛んである。風光明美な下地町与那覇前浜には,本土の観光企業による大型リゾートホテルが建設され,観光地としての開発が進んでいる。
執筆者:町田 宗博
上野村のピンザアブ洞穴遺跡から洪積世人骨が出土するなど注目すべき発見がみられるが,先史時代の解明は近年はじまったばかりで詳しい事情はわかっていない。12,13世紀から宮古式土器と称される赤色粗製土器をもつ人々が居住し,外来文化のインパクトを受けつつ活発な歴史形成を行ったとみられている。各地から大量に出土する中国製陶磁器はそのよい証拠といえよう。14世紀ころから〈豊見親(とゆみや)〉と呼ばれる首長が登場し,一時期与那覇勢頭(よなはせど)豊見親が優勢となった。15世紀末には仲宗根豊見親が強大となり全島を制圧したが,1500年首里の琉球王朝に服属してその地位を安堵されるようになった。1609年(慶長14)の島津侵入事件(琉球征服)を契機とする近世期に入ると,島政は著しく強化されるようになる。まず宮古島とその周辺離島を平良,下地(しもじ),砂川(うるか)の3間切(まぎり)に区分し,3人制の頭(かしら)を頂点とする島政機関〈蔵元(くらもと)〉の整備がはかられた(1628)。そして,島政の御目付として〈在番〉が首里王府から派遣されてきて常駐するようになり(1629),全体を首里王府の御物(おもの)奉行が総理する体制が確立した(1650)。一方,各村,各島に対しては蔵元から首里大屋子(おおやこ),与人(ゆんちゆ),目差(めざし)と称される〈噯(あつかい)役人〉が派遣され,末端の地方行政を担当した。人口調査にもとづく〈人頭税〉も1637年(寛永14)から施行され,宮古上布の納入など過酷な税負担を義務づけられた。
1879年(明治12)の琉球処分によって沖縄県が設置されたことにともない,在番制度が廃されて宮古島役所(1896年宮古島庁と改称)が置かれたが,蔵元および3間切制はそのまま存続した。96年の郡区編成により宮古郡が誕生し,1908年になって沖縄県に町村制が施行され,間切制が廃された。第2次大戦後の50年アメリカ統治下で宮古群島政府がスタートしたが,52年琉球政府の発足にともない廃止された。
執筆者:高良 倉吉
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沖縄県先島(さきしま)諸島中の宮古列島にある市。沖縄本島の南西約300キロメートルに位置し、主島の宮古島、伊良部島(いらぶじま)などの島嶼(とうしょ)からなる。2005年(平成17)平良市(ひららし)、宮古郡城辺町(ぐすくべちょう)、下地町(しもじちょう)、伊良部町、上野村(うえのそん)が合併して成立。伊良部島を望む、宮古島の西部に平良港があり、海路で多良間(たらま)島と結ばれる。市街地は平良港の後背地に発達、国道390号が通り、港を中心に各地へ道路が延びる。平良地区の南方には宮古空港があり、空路で羽田、関西、那覇(なは)、石垣、多良間、中部の各空港とを結んでいる。また伊良部島の下地島(しもじじま)にある下地島空港は、1980年(昭和55)から2015年まではパイロット訓練専用空港であった。2022年(令和4)現在、羽田、成田、神戸、福岡、那覇、香港(ホンコン)の各空港との間に定期便が就航している(香港便は運休中)。市域には数百の御嶽(ウタキ、ムトゥ)が確認されており、ツカサを中心とする神女組織と宮古独特の祭祀(さいし)、精神文化が残存する。平良の漲水御嶽(はりみずうたき)(ピャルミズウタキ)は宮古島の創世神話を、伊良部の比屋地御嶽(ピャーズウタキ)は伊良部島の創世神話を伝える。12~15世紀のグスク時代、各地の按司(あじ)(土豪)が覇権を争ったが、高腰(たかうす)按司の拠った高腰城跡(県指定史跡)などの遺跡が残る。1500年(明応9)、仲宗根豊見親(なかそねとゆみや)が八重山(やえやま)のオヤケアカハチ事件(琉球政府と八重山の首領オヤケ・アカハチとの間で行われた戦い。アカハチ・ホンガワラの乱ともいう)に際して、琉球(りゅうきゅう)王府軍の先導役を務め、宮古の首長に任じられる。仲宗根豊見親は漲水泊(とまり)(平良港)に面した漲水御嶽側に蔵元(役所)を置き、宮古島を統轄。その子は王府より平良大首里大屋子(ひららおおしゅりおおやこ)に任じられ、蔵元を中心に道筋を整備し、以降は現在の平良市街が宮古諸島の政治、経済、社会などの中心地となった。1609年(慶長14)薩摩藩の軍勢が琉球に侵入して支配下に置くと、宮古島は平良、下地(スムズ)、砂川(ウルカ)の3郡(3間切)に分けられ、三頭制支配となり、伊良部島は伊良部首里大屋子が統轄した。以降、江戸時代を通じて薩摩藩からは人頭税(雑穀と反布による納税)が強制された。
第二次世界大戦では平良に海軍、下地に陸軍の飛行場が設営され、宮古全域に3万余の陸海軍将兵が展開。このため大戦末期には米英軍の猛爆にさらされ、市街地など大半が焼け野原となった。現在は、サトウキビを主体とする農業が基盤で、高野(たかの)漁港、真謝(まじゃ)漁港などを拠点としたカツオ、マグロ漁やモズク、ウミブドウなどの海藻養殖も盛ん。下地島も含めた伊良部島全体が伊良部県立自然公園の指定域で、市域は観光施設も整っており、訪れる観光客も多い。豊見親墓3基は国指定重要文化財、洞井(ウリガー)水の大和井(ヤマトウガー)は国指定史跡。下地島の通り池は国指定名勝、天然記念物。宮古島の東平安名崎(岬)(ひがしへんなざき)は国指定名勝。宮古上布(工芸技術)は国指定重要無形文化財。祭祀のパーントゥ(島尻・野原地区)は国指定重要無形民俗文化財ならびに「来訪神:仮面・仮装の神々」を構成する行事の一つとしてユネスコ(国連教育科学文化機関)登録無形文化遺産。宮古のクイチャー、野原のマストリャーなどは国選択無形民俗文化財にそれぞれ指定される。面積204.27平方キロメートル、人口5万2931(2020)。
[編集部]
沖縄県先島(さきしま)諸島中の宮古列島の主島。沖縄本島の南西約300キロメートルに位置する。面積159.21平方キロメートルで、最高点114.6メートルの低平な台地状の低島。宮古島市の主島。第三紀島尻(しまじり)層群を基盤として第四紀琉球(りゅうきゅう)石灰岩に全島の90%が覆われる。そのため河川がまったくなく、地下水依存の水社会をつくっている。このため、農業用の地下ダム計画が進められ、1979年(昭和54)実験用地下ダムの皆福ダム(みなふくだむ)が完成、その後も1993年(平成5)砂川ダム、2000年福里ダムを建設、世界的にみても大規模な地下ダムが実用化されている。段丘と断層崖(がい)に沿う石灰岩堤が南北に走るカルスト主体の地形をなし、八重干瀬(やびじ/やえびし)などのサンゴ礁の発達が島の周囲で良好である。大半が農地となり、サトウキビを主体として、肉用牛の生産など複合経営のほか、熱帯果樹の栽培も行われている。民俗・言語など琉球文化のなかでも特異な存在として知られており、「あららがま」(自分を鼓舞する場合に使う宮古方言)という自他を挑発する島独特の精神文化もある。伝統工芸品に宮古上布がある。東京(羽田)、大阪(関西)、那覇、石垣の各空港から宮古空港に定期便がある。また、宮古列島の多良間(たらま)島とは航空便と船便が、伊良部(いらぶ)島、大神(おおがみ)島とは船便がある。池間(いけま)島とは池間大橋が、来間(くりま)島とは来間大橋で結ばれている。近年観光地としても脚光を浴び、サンゴ礁や海水浴場、熱帯植物園などに観光客が多い。人口4万7631(2009)。
[目崎茂和]
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…前者はその石の高さになると人頭税が課されたと伝え,後者は税負担に耐えかねて島中の妊婦に割れ目をとばせ人口調節を行ったと伝える。1879年の琉球処分で沖縄県が設置されて以後もなおこの税制度は温存されたが,宮古島人頭税廃止運動や土地整理などを契機に廃止されることとなり,1903年からは近代的税制度に切り換えられたため消滅した。【高良 倉吉】。…
…1771年4月24日(明和8年3月10日)午前8時ころ,〈石垣島付近東南東数十粁の処を東北東西南西に走る線〉を震源地とし,マグニチュード7.4の地震が発生した。その結果,まもなく未曾有の大津波が八重山・宮古両列島(現,沖縄県)の島々村々を襲った。津波の被害が甚大で,〈明和の大津波〉とも呼ばれる。当時の記録《大波之時各村之形行(なりゆき)書》には,地震直後石垣島の東海に雷鳴のような轟音(ごうおん),そして退潮現象,東北・東南海上に黒雲のように波が翻り立った,という異常現象のあったことを伝えている。…
…沖縄の廃藩置県のこと。明治政府は王国体制のまま存続しつづける琉球の処遇について画策し,1872年(明治5)9月,琉球王国をひとまず〈琉球藩〉とし外務省の管轄とした。つづいて〈琉球藩〉を廃して〈沖縄県〉を設置しようとしたが,琉球側の執拗な抵抗と琉球に対して宗主権を主張する中国(清朝)の強い抗議にあい,容易に意図を実現することができなかった。74年,明治政府は先に台湾に漂着して殺害された琉球人に対する報復措置を名目に台湾出兵を行い,琉球が自国の版図であることを中国側に示した。…
※「宮古島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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