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中国、唐代の禅僧。北宗禅(ほくしゅうぜん)の開祖。諡号(しごう)は大通禅師(だいつうぜんじ)。開封尉氏(いし)県(河南省)の生まれ。幼時には儒学を学ぶ。出家ののち、蘄州(きしゅう)東山の弘忍(こうにん)(禅宗第五祖)に師事して法を嗣(つ)いだ。弘忍の没後、荊州(けいしゅう)(湖北省)江陵の当陽山に住して名声をあげた。700年、則天武后に召されて宮中で法要を説き、また中宗や睿宗(えいそう)(在位684~690、710~712)に重用されたので、「三帝の国師」「両京の法主(ほっしゅ)」と称された。宮廷官吏の張説(ちょうえつ)も弟子となり、武后は当陽山に度門寺(どもんじ)を建てて居住させた。その禅法は、離念(りねん)を説き、五方便(ごほうべん)を重んじ、禅宗第六祖慧能(えのう)の頓悟(とんご)(速やかに悟る)南宗禅に対して漸悟(ぜんご)(漸次に悟る)北宗禅といわれた。その門下は華北や江南にまで及び、中唐までは隆盛であった。706年(神竜2)2月28日、洛陽(らくよう)の天宝寺(てんぽうじ)で没した。著作に『観心論』『大乗無生方便門(だいじょうむしょうほうべんもん)』などがある。
[椎名宏雄 2017年2月16日]
中国,唐代中期の禅僧。大通禅師。恵秀,僧秀などともよばれた。菩提達磨を初祖とする禅宗の六祖で,事実上の開創者。俗姓は李氏,河南の尉氏の人。禅宗五祖弘忍に参じて,東山法門をうけたのち,はじめは荆州玉泉にあり,則天武后に召されて,洛陽,長安に教えをひろめ,両京法主,三帝国師となる。多くの弟子のうちから,神会(じんね)が独立して頓悟禅を唱え,師と同門の慧能(えのう)を正系の六祖とし,北宗漸教と批判したため,その資料は早く散逸したが,敦煌文書によって,《観心論》《大乗五方便》《無生方便門》などの作が再発見された。
別に,華厳宗の法蔵の弟子に,ほとんど同時同名の神秀があり,《華厳経疏》30巻,《妙理円成観》2巻の作品で知られる。2人はときに混同されやすい。
執筆者:柳田 聖山
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…日本で,茶道その他の諸芸の奥義を意味するのは,その転化である。インド仏教の戒律で,僧伽梨衣(普段着),鬱多羅僧(上衣),安陀衣(下着)という3種の袈裟(けさ)と,一つの鉢多羅,すなわち鉢盂(はつう)を所持することを認めたのが原義で,中国の禅宗では,五祖の法をつぐ神秀(じんしゆう)と慧能(えのう)がその衣鉢を争ったとされる。【柳田 聖山】。…
…頓悟は,戒律や禅定によらず,直ちに本来清浄な自性にめざめる,般若の知恵を指す。弘忍の十大弟子のうち,神秀(じんしゆう)その他が則天武后の時代に,長安や洛陽の地に進出,主として上層貴族に迎えられて,華厳や天台などの伝統仏教学と融合し,総合の傾向をとるのに対し,慧能は教外別伝の立場をとり,新しい地方文化の先駆となる。その言行を記す《六祖壇経》は,伝説的な部分が多いけれども,神秀が自己の心境を,〈身は菩提樹,心は明鏡の台,時々に払拭に努めて,塵埃を惹く莫かれ〉と歌い,当時なお一介の行者であった慧能が,〈菩提もとより樹なし,明鏡また台にあらず,本来無一物,何処にか塵埃を惹かん〉と応じたという話は,2人のちがいを明示する。…
※「神秀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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