( 1 )奈良時代の「大宝令」「養老令」では、唐朝の官人の服装に準じて、大祀、大嘗、元日には「礼服」、尋常の朝廷行事には「朝服」を着用するように規定している。
( 2 )平安時代にはいると、即位の儀に「礼服」を着用する以外は、通常の参内には、奈良時代の「朝服」から日本的な変化を遂げた服装が用いられるようになり、九~一〇世紀には「そくたい(束帯)」の呼称が確立していたと考えられる。
( 3 )「束帯」は、「ひのよそい(日装・昼装)」「ひのそうぞく(日装束・昼装束)」とも呼ばれ、「枕草子」や「源氏物語」ではこの呼称が用いられる。
公家(くげ)男子の正装。朝廷の公事に位を有する者が着用する。養老(ようろう)の衣服令(りょう)に規定された礼服(らいふく)は、儀式のときに着用するものとされたが、平安時代になると即位式にのみ用いられ、参朝のときに着る朝服が礼服に代わって儀式にも用いられ、束帯とよばれるようになった。この名称は『論語』の公冶長篇(こうやちょうへん)の「束帯立於朝(そくたいにしてちょうにたつ)」より出たといわれている。束帯の初見は『西宮記(さいぐうき)』で、『延喜式(えんぎしき)』にはみられないが、その縫殿寮(ぬいどのりょう)の条、年中御服の項に、天皇の朝服とみられる袍(ほう)、襖子(おうす)、半臂(はんぴ)、汗衫(かんさん)、(あこめ)、表袴(うえのはかま)、中袴、褌(したばかま)などが掲げられていて、束帯への動向をうかがわせる。従来の中国風で直輸入的な服装から、日本の気候風土に順応し、生活に適合するものとなって、和様化が進み、衣服の長大化と直線裁式に戻ることによって朝服が非常に優雅典麗な形式に発展した。束帯は儀式や行事などに着装して晴装束とし、また昼間に用いられるもののため昼(ひの)装束ともよばれた。したがって宿直(とのい)装束の布袴(ほうこ)や衣冠(いかん)のごとき略装と区別される。
武家も将軍以下五位以上の者は大儀に際して着用した。束帯の構成は冠、袍、半臂、下襲(したがさね)、袙(あこめ)、単(ひとえ)、表袴、大口(おおぐち)、石帯(せきたい)、魚袋(ぎょたい)、襪(しとうず)、履(くつ)、笏(しゃく)、檜扇(ひおうぎ)、帖紙(たとう)よりなる。束帯に文官用と武官用、および童形用の区別がある。文官は、有襴(うらん)の袍または縫腋(ほうえき)の袍とよばれる上着を着て、通常は飾太刀(かざりたち)を佩(は)かぬが、勅許を得た高位の者は儀仗(ぎじょう)の太刀(たち)を平緒(ひらお)によって帯びる。武官は冠の纓(えい)を巻き上げて、いわゆる巻纓(けんえい)とし、緌(おいかけ)をつけた緒を冠にかけてあごの下で結んで留める。そして無襴の袍または闕腋(けってき)の袍といわれる、両脇(わき)を縫い合わせずにあけた上着を着て、毛抜形と称される衛府(えふ)の剣(たち)を佩く。弓箭(きゅうせん)を携え、箭(や)を収める具として胡籙(やなぐい)を後ろ腰に帯びる。儀仗の武官は、袍の上に貫頭衣式の裲襠(うちかけ)をかぶり、腰に摂腰(せびえ)といわれる帯を締め、また装飾的な挂甲(けいこう)という鎧(よろい)をつけた。三位以上の公卿(くぎょう)で武官と文官を兼任する者は、儀仗の際を除いて縫腋の袍を着用した。したがって巻纓ではなく垂纓で、緌はかけない。六位以下の武官の冠には、細纓(さいえい)といって、巻纓を簡略化して纓の縁のみ輪奈(わな)にしたものをつけた。またこれにも緌をかける。緌は衣服令に規定されているが、その形式については明らかではなく、行動の便と威儀を示すために用いられたと思われ、平安時代後期以後の形式は、馬の尻毛(しりげ)を放射状に並べて半円形とし、冠にかける緒につけて両耳のところに当てた。少年は、みずらといって、髪を顔の両側に分けて束ねる形のため、冠をかぶらず、闕腋の袍を着る。
束帯の袍は、位袍といって位階により服色が決められている。すなわち当色に従うもので、これも基本的には衣服令によっている。しかし、806年(大同1)以来、若干の変化をみせ、三位(さんみ)以上の者の紫は深浅の区別なく、みな深紫となり、四位以下もそれぞれ深緋(あけ)、深緑、深縹(はなだ)となり、また820年(弘仁11)より、嵯峨(さが)天皇は白のほか黄櫨染(こうろぜん)の袍を用い、前者は祭祀(さいし)のとき、後者は公事の場合に着装した。そのほか青白橡(あおしろつるばみ)、青色(あおいろ)、あるいは麹塵(きくじん)ともいわれる灰色みがかった黄緑色の袍を行事に用いた。さらに10世紀には深紫が黒に変わり、四位も黒を用い、六位以下はみな緑となって、六位の袍を緑衫(ろうそう)とも称したが、これら緑は、12世紀より実際は縹色となっている。
袍の下に着る半臂は袖(そで)幅のごく狭い袖をつけた胴衣で、裾(すそ)に襴がついているが、平安時代中期以後は袖を除いた形となった。平安末期以降、縫腋の袍を着るときは省略された。下襲は半臂または直接袍の下に着る内衣で、後ろの裾を尻(しり)ともいい、しだいに長いものとなって、天皇、皇太子、親王のもの以外は後ろ身頃(みごろ)から裾を切り離して、別に腰から垂らす形式に変えて別裾(べっきょ)と称した。束帯に用いられる衵は紅色とされ、夏季は単(ひとえ)仕立てで比倍木(ひえぎ)とよんだ。単も紅色と定められ、夏冬とも単仕立ての衣である。表袴は、前開き式の袴で、690年(持統天皇4)に朝服に白袴と定められて以来それを守り、表地を白、裏地を紅としている。大口は下袴で四幅(よの)仕立て、側開式となっており紅色と決められ、ときに老人が白を用いる。石帯は袍の上から締める革の帯で、後ろ腰に当てる部分に銙(か)という飾りの玉や石をつけたもの。履は数種のものが用いられるが、浅沓(あさぐつ)は平常に、靴(か)は儀式に、深沓は雨泥の日に、半靴は乗馬に用いられた。絲鞋(しかい)は絹糸を編んで甲と踵(きびす)にした沓で、童形、あるいは舞楽装束に使われる。履をはくときに襪をはく。襪は靴下のことで白平絹でつくられる。笏(しゃく)は、儀式のとき式次第を備忘のため笏に記したことから始まるとされ、のちに威儀を正すための具となった。帖紙は俗に懐紙(かいし)ともいわれ、詩歌を書いたり鼻紙としても用いられた。檜扇は檜(ひのき)の柾目(まさめ)の薄板でつくられ、25枚から27枚ほどを一組としている。童は杉の板目を使った横目扇といわれるものを用いる。魚袋は、儀式のとき五位以上の者が石帯の右側につけて垂らす魚形の飾りで、もとは魚符といわれ、門鑑として用いられたものとされている。
束帯は袍以下、位階により地質、色目、文様が定められているが、一日晴(いちにちばれ)といって大儀でない行幸の供奉(ぐぶ)などに、その当日1日だけ、袍以外の衣服に好みのものを用いて着飾ることを許され、これを染(そめ)装束ともよんだ。そのほか、下襲以下、すべて白一色としたものを、白(しら)重ねまたは白(しろ)装束と称し、更衣(ころもがえ)の日に着用した。舞楽装束のうち、人長舞(にんちょうのまい)、久米(くめ)舞、東遊(あずまあそび)、平舞(ひらまい)、蛮絵装束などは、束帯ないしその変化形式である。
[高田倭男]
公家の正装。この名称は《論語》の公冶長篇の〈束帯立於朝〉より出たとされている。〈衣服令〉に規定された礼服(らいふく)は平安時代になると即位式にのみ用いられ,朝服が,参朝のときのほか,礼服に代わって儀式に用いられ束帯と呼ばれるようになった。さらに服装の長大化,和様化にしたがって優雅典麗な形式に発展した。束帯は晴装束として昼間に用いられるものであるため,昼(ひ)の装束とも呼ばれ,略装で宿直(とのい)装束の布袴(ほうこ)や衣冠(いかん)と区別した。武家も将軍以下五位以上の者は大儀に際して着装した。束帯の構成は冠,袍(ほう),半臂(はんぴ),下襲(したがさね),衵(あこめ),単(ひとえ),表袴(うえのはかま),大口,石帯(せきたい),魚袋(ぎよたい),履(くつ),笏(しやく),檜扇,帖紙(たとう)から成る。束帯や十二単のように一揃いのものを皆具,あるいは物具(もののぐ)といった。
武官は帯剣し,儀仗や警固に当たるときは弓箭(きゆうせん)を持ち,矢は胡簶(やなぐい)に盛られ後ろ腰に帯びた。また文官でも参議以上で勅許を得た者は剣(たち)を佩用し,文官,武官とも剣を吊るために平緒といわれるひもを用いた。袍は上着で,有襴衣の縫腋(ほうてき)の袍と無襴衣の闕腋(けつてき)の袍の2種がある。前者は文官の,後者は武官および若年の料である。三位以上の公卿で武官と文官を兼任する者は,儀仗の際を除いて縫腋の袍を着用した。束帯の袍は位袍(いほう)といって,位階により服色が決められている。これは〈衣服令〉に基づくものであるが,9世紀から天皇は白のほか黄櫨染(こうろぜん),青色(麴塵(きくじん)ともいう),上皇は赤色,皇太子は黄丹または赤色,親王と臣下の三位までは深紫,四位と五位は深緋,六位と七位は深緑,八位と初位は深縹(ふかはなだ)となった。10世紀から親王,臣下の四位以上はみな黒一色となり,五位は深緋,六位以下はみな緑となったが,12世紀から六位以下は緑ではなく縹を用いた。しかし,太政官,検非違使,弾正台の五位の者は職掌上から浅緋を守り,それを朱緩(しゆふつ)という名で呼んだ。蔵人は天皇と同じ青色を許されている。
袍のすぐ下に半臂を着る。平安時代以後の半臂は,袖無しとなり,垂領(たりくび)で身丈の短い,襴をつけた衣である。冬の縫腋の袍の束帯では半臂は表面に出ないため,12世紀になると省略されるようになった。半臂の下,または直接袍の下に下襲を着る。垂領で両脇を縫わずにあけた,後ろ身ごろの裾が長い衣である。この下に衵を着る。袿(うちき)と同様にただ衣(きぬ)といわれることもある。女子の衵と比べて身丈が短い。いちばん下に単を着る。夏冬とも単仕立ての衣である。型は衵とほぼ同じで,色はふつう紅である。大口といわれる紅染の袴をはいた上に表袴をはく。これは690年(持統4)以来のいわゆる白袴である。袍の上から革帯(かくたい)を締めるが,石帯とか玉帯といわれ,後ろ腰に当たる部分に石や玉の飾りがついている。履に数種あり,浅沓(あさぐつ)は平常用とし,靴(か)は儀式や行事に,深沓は雨泥の日に,半靴(ほうか)は乗馬のとき,挿鞋(そうかい)は天皇が殿上ではく沓,糸鞋(しかい)は幼童や舞楽に用いられる。襪(しとうず)はいわゆる靴下である。笏は五位以上が象牙製,六位以下は木製。檜扇は白木製が成年用,横目の杉製が幼童用である。
執筆者:高田 倭男
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平安時代以来,有位の官人が用いた朝服。令制では大儀には礼服(らいふく),通常の参内には朝服と規定するが,平安時代以降は即位式以外の行事は朝服となり,同時に和様化して束帯とよばれた。束帯とは衣服をととのえて上から石帯(せきたい)で腰を束ねるという意の服装全体の称で,冠・袍(ほう)・下襲(したがさね)・衵(あこめ)・単(ひとえ)・表袴(うえのはかま)・大口・石帯・靴(かのくつ)・笏(しゃく)などで構成。文官は縫腋袍(ほうえきのほう)と垂纓(すいえい)の冠を用い,帯剣勅許された高位の官人以外は太刀を佩用(はいよう)しなかった。武官は闕腋袍(けってきのほう)と巻纓(けんえい)の冠を用い,太刀・弓矢を所持した。袍の色は身分を表す標識として重視されたため,束帯の袍は位袍(いほう)ともよばれた。
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…平安中期(10世紀後半)以後,宮中で正装に準じて着用された略式の装束。奈良時代や平安初期の朝廷では朝服を着用していたが(《衣服令》),平安中期になると,朝服から束帯(そくたい)が成立,発展し,これが正装となった。束帯は,冠,袍(ほう),表袴(うえのはかま),大口袴(おおくちのはかま),石帯(せきたい),それに半臂(はんぴ),下襲(したがさね),衵(あこめ),単(ひとえ)などで構成されていた。…
…一方,庶民の間では,依然として貫頭衣系の衣服の着用が続いたが,律令国家は庶人が仕丁等で朝廷公事に従事するに際しても,〈制服〉として袴を着用することを規定し,奴についても袴等の〈制服〉を支給することが規定されたので,8世紀の半ばには,少なくとも公的次元にかかわる限りにおいては袴の着用が徹底されたらしい。【武田 佐知子】 このように奈良時代から平安時代初期にかけては唐風の服装が流行したが,遣唐使派遣の中止と律令体制の不成功は服装のうえにも反映して,平安中期になると礼服の着用が衰え,朝服が大きく変化して束帯となり,これが礼装として行われ,それを簡略化した布袴(ほうこ)・衣冠が準礼装として用いられた。束帯は奈良時代の朝服が日本化したもので,平安後期に入ると被り物に変化が起こって冠となり,衣も袖が広袖となり,裄(ゆき)や丈が増大し,各部が誇張されたうえにのり付けが行われ,いわゆる強装束(こわしようぞく)となった。…
※「束帯」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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