艮神社(読み)うしとらじんじや

日本歴史地名大系 「艮神社」の解説

艮神社
うしとらじんじや

[現在地名]御調町大蔵

御調川南岸山麓に鎮座大蔵だいぞう白太はかた中原なかばらひら大町おおまち釜窪かまくぼ江田えた国守くにもりすげ大塔だいとう菅山方すげやまかた平木ひらぎ仁野にのおよび僧殿そうどの河南かなん篠根しのね(現府中市)の御調川南部の一六ヵ村によって祀られる。「神社明細帳」(広島県庁蔵)によると、祭神は吉備津日子命・大穴牟遅命、相殿に少名毘古那神・高神を祀るとあり、「芸藩通志」は、伊弉冉尊を祭神とし、同殿に清滝神竜王ありと記す。


艮神社
うしとらじんじや

[現在地名]庄原市本郷町

こう山山麓に鎮座。祭神は伊弉諾命・素盞嗚命・久那戸神。社伝では大同元年(八〇六)尾張国の大国霊おおくにたま神社(現愛知県稲沢市)から、長矢権頭吉資なる者がその祭神を供奉してこの地に来て祀ったという。じび庄の地頭山内通資が甲山居城を構えるに及び、歴代城主は当社を尊崇した。

境内末社に白子しろこ神社があり、白子ノ塚が本殿裏にあるが、伝えによれば甲山城主山内氏に白子ノ前という愛妾があったが、正室が家中諸士と謀った讒言によって惨殺された。以来城中には変異が頻発し、怨霊に悩まされたため、当社祠官児玉千日大夫は新宮を造立し、白子大明神と号し、怨魂を鎮めたという。


艮神社
うしとらじんじや

[現在地名]吉舎町吉舎 鳥井沖

吉備津比古命・伊邪那岐尊・伊邪那美尊を祀る。旧村社。勧請年月は不明であるが、承久の乱の後、後鳥羽上皇が隠岐配流の途次、当社を行宮としたとの伝えがあり、そのとき社の背後の勝田かつたの池の蛙の鳴声がやかましかったので、一首を詠んだところ鳴声がやんだと伝える。社の近くの鳥居の木とりいのきとよぶ地の水田から「丑寅宮」の古額が出土し、これも後鳥羽上皇の宸筆と伝えていたが、明治九年(一八七六)焼失した。


艮神社
うしとらじんじや

[現在地名]尾道市長江一丁目

正授しようじゆ院・慈観じかん寺などの西に鎮座。旧尾道町西半部の産土神。祭神は伊邪那岐命天照大神・素盞男命・木匠神など一〇神。旧村社。境内社に稲生いなり神社・猿田彦さるだひこ神社・恵美須えびす神社など一〇社がある。

尾道志稿」によると、大同元年(八〇六)の創建と伝え、火災で宝器・旧記などを焼失、棟札写に文明七年(一四七五)平盛祐が再興、その後、文禄四年(一五九五)、慶長一六年(一六一一)、寛文六年(一六六六)などに重修されたという。「芸藩通志」に、当時の社殿は宝永年間(一七〇四―一一)再造とあり、旧版「尾道市史」所収の棟札写によると、唯一神道を奉じている。中世末には禰宜職が成立しており、長禄二年(一四五八)尾道丑寅社禰宜分田畑宛行状をはじめ、永正一五年(一五一八)までの禰宜職宛行状が杉原氏から発給されている(同書)


艮神社
うしとらじんじや

[現在地名]福山市北吉津町

福山八幡宮の東にある。祭神は伊弉諾尊・素盞嗚尊で、古くから吉津よしづ庄の産土神であったようである。旧県社。水野勝成が福山城築城のとき鬼門守護神とし、秋津艮大明神と称した。水野勝種の時代子息四人までが夭死したので、五男を当社の神子として秋津虎千代と名付け、祈願のため天和三年(一六八三)神殿拝殿・随身門・神輿蔵・鳥居などを寄進造営した(備陽六郡志)。宝暦五年(一七五五)から明和五年(一七六八)の一四年間にわたり当社の神職中島相光と別当観音寺とが争論に及んだが、これに関する艮神社昇格願書(社蔵)によれば、艮社は昔から吉津村の氏神で、その頃は三吉みよし村・城下六町およびひがし町の藩士の産土神となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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