英多郷
あがたごう
「和名抄」高山寺本・流布本ともに「英多」と記し、高山寺本のみ「阿加多」と訓ずる。高縄半島の北端、現越智郡波方町から現今治市波止浜・阿方・山路・矢田の地域に比定される。
波方町海岸部には縄文遺跡や古墳が多く、阿方には弥生前期の阿方貝塚がある。正安二年(一三〇〇)八月一八日付の六波羅下知状写(三島家文書)に「同国英多郷住人進士入道」の文字がみえ、応長二年(一三一二)三月日の大山祇神社々殿造営段米奉納状(大山積神社文書)に「英多郷 十三石四斗八升六合七勺加有垣五反小定」とある。
英多郷
あいたごう
「和名抄」東急本・刊本に「安伊多」の訓がある。郷域は吉野川と山家川の合流点西の段丘面を中心とする地域、現英田郡作東町川北付近に推定される。英多郡家の所在する郷で、郡家推定地である作東町川北の高本の地を江見郷域とする意見もあるが(「大日本地名辞書」「岡山県通史」など)、郡名と同名の郷は郡家所在地の例が多いこと、康永四年(一三四五)四月二七日の足利直義下知状(安東文書)に「美作国英多保河北」とあることなどから、川北の地は英多郷に属すると理解すべきであろう。
英多郷
あがたごう
「和名抄」諸本ともに訓はないが、伊勢国鈴鹿郡英多郷には「安加多」(東急本)・「阿賀多」(高山寺本)、伊与国濃満郡英多郷には「阿加多」(高山寺本)の訓注があり、英多はアガタ(県)を意味する語と考えられる。かつて県主の支配した県の地に成立した郷である。この付近で県と関係する地を求めると、河内郡に隣接する若江郡の式内社御野県主神社がある。しかし現在この神社は玉串川右岸の八尾市上ノ島町に所在する。この地は江戸時代の村名では河内郡上之島村であり、古くから河内郡に属していたと考えられる。古代の県は御野県と称して、河内・若江両郡の境をなす玉串川の両岸にわたって存し、御野県主神社はかつては玉串川左岸の若江郡にあり、のち玉串川右岸の現在地(河内郡)に移ったのではあるまいか。
英多郷
あがたごう
「和名抄」所載の郷。同書高山寺本をはじめ諸本とも訓を欠く。五ヶ瀬川下流域に比定される。「日本地理志料」は豊前宇佐宮領県庄につながるとし、「大日本地名辞書」は岡富村(現延岡市)にある安賀多神社は英多郷の旧祠とし、「日向国史」は南方・北方を南県・北県の義と考えて、いずれも当郷の所在地を現在の延岡地方とする。現延岡市街地の西側には天下、吉野、舞野、野地・野田、大貫の五支群からなる南方古墳群があり、また延岡市北部の樫山丘陵には県北最大の前方後円墳稲葉崎菅原神社古墳があるので、この一帯が臼杵郡の中心地で、おそらく臼杵郡の郡家は当郷に所在したと考えられる。
英多郷
えたごう
「和名抄」高山寺本に「英多」と記し「叡太」と訓じる。流布本には「衣太」と訓じる。当時「えた」と称していたのである。しかし、この読みについては「日本地理志料」は河内・伊勢・遠江・美作・紀伊・伊予・日向にも英多郷があるが、みな「アガタ」とよみ、往古の県を意味しているとして、この「衣太」は後の称呼であろうとする。また「大日本地名辞書」も「英多は諸州の例に徴するにアガタと読むべし。之を衣太とあるは後の一訓にして文字によりてかくも云えしならん」とし、「信濃地名考」は「エタ」「アガタ」の両訓を付している。
その郷域については「日本地理志料」は、旧松代町・寺尾・東条・西条・豊栄の各村(現長野市松代地区)を比定し、「大日本地名辞書」は「今の松代町・東条村・寺尾村などなるべし」と記す。
英多郷
あがたごう
「和名抄」東急本は「安加多」と訓じ、高山寺本は「英太」と記して「阿賀多」の訓を付す。「皇太神宮儀式帳」にみえる「川俣県造」に関係する郷名か。「延喜式」神名帳には「県 主神社」がみえる。「吾妻鏡」文治三年(一一八七)四月二九日条所載の三月三〇日付公卿勅使伊勢国駅家雑事勤否散状には不勤仕の荘園として「英多庄経俊」があげられている。
英多郷
えたごう
「和名抄」所載の郷。諸本とも「江多」と訓ずる。ただし諸国における英多郷・英太郷の読みを「あがた」とする例も「和名抄」にはみられ、当郷の場合は郷名を継承する中世英田保(現河北郡)が南県庄・県庄と記される例もあるため(正平九年一一月二三日「後村上天皇綸旨」水無瀬神宮文書)、古代においても「あがた」と訓んだ可能性がある。
英多郷
あがたごう
「和名抄」諸本にみえる郷名。訓は不明だが、アガタと読むか。式内社英多神社が現三ヶ日町三ヶ日の浜名惣社神明宮に比定されるため、「遠江国風土記伝」が三ヶ日宿とするほか、新旧の「静岡県史」なども同地に比定する。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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