デジタル大辞泉
「賽の河原」の意味・読み・例文・類語
さい‐の‐かわら〔‐かはら〕【×賽の河‐原】
1 死んだ子供が行く所といわれる冥途の三途の川の河原。ここで子供は父母の供養のために小石を積み上げて塔を作ろうとするが、絶えず鬼にくずされる。そこへ地蔵菩薩が現れて子供を救うという。
2 むだな努力のたとえ。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
賽の河原
さいのかわら
願に近い海沿いにある海食洞窟群。地籍は鷲崎であるが、古くから願の人々が世話をしてきたので、願の賽の河原とよばれる。面積一三〇平方キロ。高さ約一〇〇メートルの岩壁下にある岩窟で、入口の高さ五メートルほどの窟内には地蔵と積石が多い。北の海中に二ッ亀島がある。洞窟内に積石をする風習は、室町頃の地蔵信仰に伴い現れた流行といわれるが、祀られた年代は明瞭でない。文化―文政(一八〇四―三〇)頃の佐渡奉行巡村絵図(舟崎文庫蔵)には、「サイノカワラ」「才ノ河原」とあり、願村寄りには「タイナイクグリ」の洞窟や「ハエフシカ沢川」、鷲崎寄りには「タカノスカケ」が記される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
賽の河原
さいのかわら
親に先だって死んだ子供が苦を受けると信じられている冥土(めいど)にある河原。西院(さいいん)(斎院)の河原ともいう。ここで子供が石を積んで塔をつくろうとすると、鬼がきてそれを崩し子供を責めさいなむが、やがて地蔵菩薩(じぞうぼさつ)が現れて子供を救い守るという。このありさまは、「地蔵和讃(わさん)」や「賽の河原和讃」などに詳しく説かれ、民衆に広まった。賽の河原は、仏典のなかに典拠がなく、日本中世におこった俗信と考えられるが、その由来は、『法華経(ほけきょう)』方便品(ほうべんぼん)の、童子が戯れに砂で塔をつくっても功徳(くどく)があると説く経文に基づくとされる。また名称については、昔の葬地である京都の佐比(さい)川や大和(やまと)国(奈良県)の狭井(さい)川から出たという説、境を意味する賽から出たという説などがある。
[松本史朗]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
さいのかわら【賽の河原】
冥途にあるという河原。小児が死後に赴き,鬼から苦しみを受けると信じられている。《法華経》方便品にある〈童子戯れに砂を聚めて塔を造り,仏道を成ず〉から構想された鎌倉時代の偽経《地蔵十王経》や解脱上人(貞慶)作という《地蔵和讃》,また江戸時代の《賽の河原地蔵和讃》などにより,地蔵信仰のたかまりとともに,中世以降とくに江戸時代に普遍化した俗信である。《賽の河原地蔵和讃》は〈死出の山路の裾野なる賽の河原の物がたり〉で,十にも足らない幼き亡者が賽の河原で小石を積んで塔を造ろうとするが,地獄の鬼が現れて,いくら積んでも鉄棒で崩してしまうため,小児はなおもこの世の親を慕って恋い焦がれると,地蔵菩薩が現れて,今日より後はわれを冥途の親と思え,と抱きあげて救うようすがうたわれている。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
賽の河原【さいのかわら】
子どもが死後行き,苦を受けると信じられた,冥土の三途(さんず)の川のほとりの河原。子どもは石を積み塔を作ろうとするが,大鬼がきてこれをこわし,地蔵菩薩が子どもを救う。塞の神(道祖神)信仰と地蔵信仰の中世以来の習合とみられ,仏典には典拠がない。→地蔵
→関連項目三途の川
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報