願行寺(読み)がんぎようじ

日本歴史地名大系 「願行寺」の解説

願行寺
がんぎようじ

[現在地名]下市町大字下市小字寺内

秋野あきの川左岸、下市の中央部御坊ごぼう山麓を削平した台地にある。至心山と号し、浄土真宗本願寺派下市しもいち御坊という。本尊阿弥陀如来。当寺は南北朝期に吉野地方に初めて遊化した本願寺第三世覚如の長男存覚の廟所のあった古御坊を、第八世蓮如が現在地に移して吉野地方の拠点としたものという。吉野の秋野川流域は南北朝期より近江瓜生津系の教線進出が愚咄との関係から考えられており、存覚は康永二年(一三四三)より貞和五年(一三四九)の間しばしば大和に赴いているが(存覚一期記)、この頃存覚と瓜生津愚咄との関係が緊密であったことから、大和のうち当寺への下向が考えられる。蓮如は明応四年(一四九五)春に下市に願行寺を建立したとされ(蓮如上人拾塵記)、寺蔵の金泥九字名号は裏書により同三年に堺信証しんしよう(現大阪府堺市)に安置されていたことがわかり、この九字名号を本尊としたものであろう。

願行寺
がんぎようじ

[現在地名]玉名市高瀬 新町

国道二〇八号の北、第二区公民館の西、保田木ほたき城があった台地に位置する。時宗、蒼園山と号し、本尊は阿弥陀三尊。貞和五年(一三四九)相模国藤沢清浄光ふじさわしようじようこう寺五世他阿の開山と伝え、肥後における時宗二ヵ寺の一つ。永正元年(一五〇四)菊池氏から寺領の安堵がなされ(同年三月二一日「菊池氏家臣連署奉書」願行寺文書)、また年未詳四月一一日の菊池義武書状(同文書)などから守護菊池氏とのかかわりが推測される。

願行寺
がんぎようじ

[現在地名]品川区南品川二丁目

心海しんかい寺に隣接し、西に海蔵かいぞう寺が並ぶ。既成山光明こうみよう院と号し、本尊阿弥陀如来。浄土宗。鎌倉光明寺八世の長蓮社観誉祐崇によって開創された。寛正三年(一四六二)に品川の海辺に念仏聖が結ぶ庵があって、それを文明年間(一四六九―八七)に観誉がこの地に移したとされる(蓮門精舎旧詞)。観誉は鎌倉光明寺の開山然阿良忠や白旗派寂慧良暁の法脈をくみ、戦国時代に浄土宗の教線拡大に貢献した僧である。

願行寺
がんぎようじ

[現在地名]上田市中央二丁目

浄土宗知恩院末、本尊阿弥陀如来。

真田昌幸小県ちいさがた海野うんの郷より城に近い御厩おんまやの地に移したが、元和七年(一六二一)焼失、よこ町に再度建立した(「願行寺世系記伝」上田市史)。昌幸は願行寺を重くみて、天正一四年(一五八六)八月一八日家臣に「願行寺後坊主の事、然るべき知識相招き、住まはせられ候様に馳走尤もに候。然して自今以後門前屋敷等の諸役、赦免せしむべきものなり」と申し伝えた(願行寺文書)。元和八年、真田信之松代まつしろ移封にあたり、松代にも願行寺を建立している。

願行寺
がんぎようじ

[現在地名]天童市高擶

高擶北たかだまきたにあり、龍池山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。蓮如の弟子願正の開基と伝える。文明七年(一四七五)願正は高擶北方に庵を結んだ。草庵跡は現在では願正がんしよう壇とよばれ、「当国真宗興隆 願正草建之地」の碑が建つ。永正三年(一五〇六)に没した願正は遺言により、清池しようげ小柳原こやなぎはらに埋葬された。慶長年間(一五九六―一六一五)斎藤伊予守から敷地の寄進を受け、廟堂を建立、通称清池の骨堂こつどうとよばれ、毎年旧七月二三日の命日に法要が営まれる。

願行寺
がんぎようじ

[現在地名]福栄村大字福井下 榎屋

法性山と号し浄土宗。本尊阿弥陀如来。

「注進案」によれば、文禄元年(一五九二)僧願誉が「長州阿武郡椿福井手水川上ノ深山」に仏堂を建て、この地に慶長一五年(一六一〇)福井ふくい村にあった安全あんぜん庵を移したという。その後願行寺と改称したが、天和二年(一六八二)大破したので現在地に移建したとある。

願行寺
がんぎようじ

[現在地名]長野市松代町御安町

浄土宗知恩院末。功徳山広大院願行寺。本尊は阿弥陀如来。天文年中(一五三二―五五)小県ちいさがた郡に海野庄幸義が開基、開山は松誉上人。四代目の時真田氏が上田より松代へ移封に際し、道山を召し連れて現在地に建立し、合力米五〇俵を賜った。

願行寺
がんぎようじ

[現在地名]一宮市千秋町浮野 屋敷

横超山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。境内五七六坪。文明四年(一四七二)常順の創建。初め常順坊と号し、延宝五年(一六七七)現寺号に改め、常如より授けられた木像を本尊とし、西派直参となったが、同七年(「尾張志」は宝永七年とする)東派直参となった(徇行記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報