黒土村
くろつちむら
[現在地名]五城目町内川黒土
内川川と富津内川の合流点東の小集落。北は湯野又村、西は小倉村・山内村、南は富田村と接する。
「梅津政景日記」寛永二年(一六二五)一〇月五日条に「石井監物知行五十目ノ内黒土村ノ小二郎と申百姓、当夏夜うち二家ヲやかれ云々」とある。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に四六石、新田とあるが、享保一四年(一七二九)の秋田郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)に「正保誤而新田出」とあり、藩政初期には成立していたと思われる。
黒土村
くろつちむら
[現在地名]中仙町清水 上黒土・下黒土
平地にあり、南は大蔵村、東は村杉村・金鐙村、西と北は長野村に接し、北を斉内川が西流する。
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に五四九石とある。享保一四年(一七二九)の黒印高帳(秋田県庁蔵)に当高六五二石余とあるが、翌年打ち直され当高四九九石余となった。同期の仙北郡郡村本村支村御高調帳(秋田県庁蔵)に家数二三軒、支郷として野口村三軒、高谷村三軒、道万村一軒、板屋村三軒、一部村三軒、前むら四軒、三尺村四軒がある。
黒土村
くろづちむら
[現在地名]千種町黒土
千種川の左岸に位置し、北は千草町。明治一〇年(一八七七)の御用留書(千種町役場保管文書)に「地味大に悪敷く土質黒マサ多くして土力劣り」とあり、村名は黒ボコとよばれる火山灰層の土地柄に由来するか。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は千草町と同じ。正保郷帳では田方一八四石余・畠方三四石余。元禄郷帳では高二三五石余。寛保二年(一七四二)の宍粟郡村々高附(尾崎家文書)によると総反別二三町歩。
黒土村
くろつちむら
[現在地名]久留米市荒木町荒木
上荒木村の南、広川流域に位置する。西は西古賀(現三潴町)を挟み今村。中世は三潴庄東郷荒木村のうち。乾元二年(一三〇三)二月二二日の沙弥宗戒譲状案(近藤文書/鎌倉遺文二八)によると、姪今鬼御前に譲渡された三潴庄荒木村内中富名の田地分のうちに「二たん二つへ くろつちのうちあけ」とあり、「くろつち」は当地に比定される。「寛文朱印留」に黒土村とみえ、本高は一六六石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」によると古高一七〇石・役高一七二石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高一七八石。文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田六町九反余・開田四反余・畑田一町八反余・畑一二町八反余・居屋敷二反余、ほかに植立四反。
黒土村
くろつちむら
[現在地名]豊前市久路土
岸井村の南、岩岳川と佐井川に挟まれた沖積平野に立地する。久路土とも記される(旧高旧領取調帳)。江戸時代の領主の変遷は今市村に同じ。元和八年人畜改帳に村名がみえ給人分、家数六・人数一〇(うち百姓一・名子二)、牛二・馬二。延享三年(一七四六)の御案内覚帳(稲葉文書)では高一千五六石余、免六ツ三厘、春免四分引、竈数一一〇、家数一五〇・人数五九〇、牛八・馬四四。天保五年(一八三四)の郷村高帳(小笠原文庫文書)では高一千七六石余、うち新田高三石余。同九年の道路及び郡内地付戸籍控帳(矢野文書)によれば新地高四石余、反別田六七町八反余・畠二五町二反余、家数一六二・人数六六一、牛一・馬七四、小物成は茶年貢・竹藪代が米三石余、薪札代銀八一匁余・漆代二匁余。
黒土村
くろつちむら
[現在地名]打田町黒土
広野村の南に位置し、西は打田村、東は上田井村(現粉河町)。村の南を大和街道が通る。中世は田中庄に含まれた。慶長検地高目録では村高三三一石余。田中組に属し、元禄二年(一六八九)の田中組指出帳(田中家文書)によると田方三二二・四六九石(一九町五反余)、畠方八・五八五石(八反余)、家数四六、人数二一五、牛二四。
黒土村
くろつちむら
[現在地名]賀陽町黒土
貞村の東にあり、宇甘川対岸は矢野村。横部・的場・空・森屋・二重坂などの集落がある。正保郷帳には竹庄村の枝村として村名がみえる。元禄郷帳では竹庄と肩書されるものの一村扱いとなっている。
黒土村
くろつちむら
[現在地名]勝央町黒土
岡村の南東に位置。正保郷帳に村名がみえ、田四三五石・畑八〇石。慶長九年(一六〇四)の森忠政判物(東作誌)で「勝間田之黒土村」一三〇石が可児兵太に与えられている。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高一三一石余・開高一八石余、村位は中。美作国郡村高并戸数里程事(武家聞伝記)によると延宝(一六七三―八一)頃と考えられる戸数三七(うち胸友七・栗屋三・及二など)。津山藩主森氏断絶後の領主の変遷は初め勝間田村と同じであるが、元文四年(一七三九)から大坂定番丹羽和泉守薫氏領。
黒土村
くろつちむら
[現在地名]八女市黒土
本村の南にあり、山ノ井川が流れる。永正一五年(一五一八)三月八日の大友氏加判衆連署状(上妻文書/大日本史料九―七)によれば「黒土」八町が上妻上総介に与えられた。文禄四年(一五九五)一二月の上妻郡内知行方目録写(筑紫家文書)に黒土村とみえ、高四七石余。本高は一〇五石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高一八五石・役高三三四石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高二二七石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田九町一反余・畑田三町四反余・畑二町余・居屋敷二反余。
黒土村
くろつちむら
[現在地名]大和町黒土
黒土新田の東、北は水無川対岸の荒金村・堂島新田、東は大倉新田・川棚新田、南は船ヶ沢新田。正保国絵図に村名があり、高五九石余。天和三年郷帳では高五三石三斗余。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では黒土新田と一村で、田九町六反余・畑一二町一反余。
黒土村
くろどむら
[現在地名]揖斐川町黒田
岡村の南西、粕川左岸に立地する。黒坪・黒田ともいう。天正一九年(一五九一)と推定される二月二日の豊臣秀吉朱印状(阿子田文書)に池田郡黒坪村三四二石余とみえ、阿子田家久に与えられている。慶長郷帳に村名がみえ、高三三五石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では松平忠良(大垣藩)領。
黒土村
くろつちむら
[現在地名]弘前市黒土
大秋川を挟んで東は国吉村、西は桜庭村に接し、南は目屋川に面する。
正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の鼻和郡の新田に村名があり、村高三七〇石。元禄一四年(一七〇一)の陸奥国津軽郡郷帳(市立弘前図書館蔵)でも村高は同じ。元禄三年には駒越組に属し、村位は上とある(平山日記)。天保郷帳には「山成亡所」とあり、村高が記されず、水田耕作のほかに炭・薪など山方の生産性の高い村であったと推測される。
黒土村
くろつちむら
[現在地名]野津町落谷 黒土
落谷村の南東、野津川東岸にある。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には黒土村が「落合村」など七ヵ村分と一括された一冊が含まれ、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳では川登村のうちに含まれる。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば本高八三石余・出来高一一石余、田方四四石余・畑方五〇石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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