龍光寺(読み)りようこうじ

日本歴史地名大系 「龍光寺」の解説

龍光寺
りようこうじ

[現在地名]鈴鹿市神戸二丁目

神館こうだち社の西にあり、山号は天沢山、臨済宗東福寺派末、本尊釈迦如来。応永三〇年(一四二三)伊勢国司北畠満雅の奏上により称光天皇勅願道場として、さわ城城主神戸実重が普請奉行に任ぜられ、現在地より西の西条にしじよう沢山さわやまに建立された(神戸録)開山は悦叟大欣。しかし「蔗軒日録」文明一七年(一四八五)三月一一日条に「夜夢伊勢龍(光)寺新造、歴々在目」とあり、また翌一八年にも当寺造営に関する記録がある。


龍光寺
りゆうこうじ

[現在地名]喜連川町喜連川 本町

旧喜連川宿の中心部に位置する。慈雲山と号し、臨済宗円覚寺派、本尊釈迦如来。ほん町からの参道を一〇〇メートル入ると朱塗山門がある。正面が本堂、その南に庫裏、北に喜連川氏の廟所、その西隣に喜連川氏代々の墓地がある。寺域二千五〇〇坪。開基は足利尊氏で、初めは東勝とうしよう寺と号したと伝え、下野国の安国寺であったという。開山は夢窓国師(旧県史・喜連川町誌)。夢窓国師の後を継いだ一一代の住職は、それぞれ室町幕府から庇護を受けたと伝える。慶長六年(一六〇一)足利(喜連川)頼純が没し東勝寺に葬られた。


龍光寺
りゆうこうじ

[現在地名]出水市麓町

花見はなみヶ城跡を背にかめヶ城(出水城)跡の西麓に位置する。達磨だるま山と号し、曹洞宗。現在は釈迦如来を本尊とするが、かつては聖観音が本尊であった(三国名勝図会)。薩州用久系図や「三国名勝図会」などによると、長禄三年(一四五九)薩州家島津国久が同家の祖である父用久(同年二月没)を弔うために鹿児島福昌寺四世景龍の弟子承珊に働きかけて西之口上高にしのくちうえたか城の東麓に伽藍を構えたのが草創で、以後は薩州家島津氏の菩提所となった。


龍光寺
りゆうこうじ

[現在地名]富岡市富岡

かみ町にある。もと宮崎みやざきにあって、富岡新田創設の際住民とともに現在地に移った。浄土宗、宮崎山と号する。本尊は阿弥陀如来観音菩薩勢至菩薩。寺伝によると奥平貞俊が宮崎に長禄年間(一四五七―六〇)建立、開山は貞誉十声一凝、慶長一五年(一六一〇)富岡町へ移り寂誉道楽を中興開山とし、然誉呑竜を請うて二代とする。慶安二年(一六四九)朱印地二六石を寄せられる。


龍光寺
りゆうこうじ

[現在地名]八王子市宇津木町

加住北かすみきた丘陵の南面する丘麓に境域を構える。増宝山密厳院と号し、本尊大日如来。真言宗智山派。開山の清雅は応永三年(一三九六)三月七日没。清雅の法流は高尾山薬王やくおう院と同じく東密三宝院流のうち松橋流で、山城醍醐寺の無量寿院俊盛より受法したとされる。寺領は朱印二〇石(風土記稿)。「武蔵名勝図会」では寺領二五石とし、末寺は武州に一八ヵ寺、相州に二ヵ寺。埼玉さいたま神社・若宮八幡宮姫宮ひめみや八幡宮の別当であった。


龍光寺
りゆうこうじ

[現在地名]大東市竜間

竜間たつまの山中にある。経寺山と号し曹洞宗。本尊十一面観音。近辺の龍間寺、龍尾りゆうび(現四條畷市)とともに、竜と水にまつわる伝説をもつ寺院だが、詳しい由緒は不明。「河内鑑名所記」によれば開基は敏達天皇で、後に源頼朝が再建したとされる。また江戸初期に当寺に住した禅僧独庵玄光(一六三〇―九八)の語録には、龍光寺はもと大伽藍で経典も多数蔵し、塔・鐘楼などもあった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「龍光寺」の解説

龍光寺

愛媛県宇和島市にある寺院。807年、空海による創建と伝わる。宗派は真言宗御室派、本尊は十一面観世音菩薩。四国八十八ヶ所霊場第41番札所。山門が鳥居であるなど神仏習合の寺として知られ「三間のお稲荷さん」とも呼ばれる。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

事典・日本の観光資源 「龍光寺」の解説

龍光寺

(東京都杉並区)
杉並百景指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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