ブルックナー

デジタル大辞泉 「ブルックナー」の意味・読み・例文・類語

ブルックナー(Josef Anton Bruckner)

[1824~1896]オーストリアの作曲家。ワグナーに傾倒し、ロマン主義古典主義を調和させた交響曲ミサ曲などを作曲した。

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精選版 日本国語大辞典 「ブルックナー」の意味・読み・例文・類語

ブルックナー

  1. ( Josef Anton Bruckner ヨーゼフ=アントン━ ) オーストリアの作曲家。一一の交響曲やミサ曲などで、神秘思想の要素をもつ力強い作風を開拓した。(一八二四‐九六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブルックナー」の意味・わかりやすい解説

ブルックナー(Josef Anton Bruckner)
ぶるっくなー
Josef Anton Bruckner
(1824―1896)

オーストリアの作曲家。シューマン以後ほぼとだえていたドイツ・オーストリアの交響曲の伝統を再興し、優れて個性的な発展を成就(じょうじゅ)したブルックナーは、9月4日、オーストリア北東部、リンツにほど近い小村アンスフェルデンの学校長の長男として生まれた。幼少から楽才を示し、11歳になる1835年の春、やはりリンツ近郊のヘルシンクに住む名親のワイスのもとに預けられ、本格的な音楽教育を受けた。12歳で父を亡くした彼は、37年ザンクト・フロリアン修道院聖歌隊に入る。40年リンツの教員養成所に通い、小学校補助教員の免許を得て、翌41年にはボヘミア国境の村、ウィントハークの補助教員となった。シュタイア近郊のクロンシュトルフの勤務を経て、45年ザンクト・フロリアンに補助教員として戻ってきたブルックナーは、やがてオルガン奏者となり、作曲も試みていた。55年末、ブルックナーはふとしたきっかけからリンツ大聖堂オルガン奏者という要職につく。飛び入り参加した試験演奏は、どの応募者よりもはるかに優れていたのである。56年から13年間に及ぶリンツ時代は、オルガン奏者から交響曲作家へと脱皮するための修業時代だった。61年まで続けられたウィーンの音楽理論家ジモン・ゼヒターによる作曲理論の通信教育、それに続くリンツ市立歌劇場指揮者オットー・キツラーのもとでの音楽形式論と管弦楽法の研究、そして63年、キツラー指揮によるワーグナーの歌劇『タンホイザー』のリンツ初演は、38歳のブルックナーに強い衝撃を与えた。こうして彼の交響曲の創作が始まった。まず習作的な交響曲ヘ短調(1863)と交響曲第0番(1864)、そしていよいよ第1番(1866)である。しかしリンツ時代のブルックナーを代表する作品はむしろ、ニ短調(1864)、ホ短調(1866)、ヘ短調(1868)の3曲のミサ曲である。

 ミサ曲ヘ短調の完成直後の1868年10月、ブルックナーはウィーンに進出した。恩師ゼヒターの後任として、ウィーン音楽院の和声学と対位法、さらにオルガン演奏の教授として迎えられたのである。最初の弟子のなかには、後の大ピアニスト、パハマンと大指揮者モットルがいた。また75年以降はウィーン大学でも音楽理論を講じている。ウィーン進出当時のブルックナーは44歳、こうして72歳で世を去るまでの28年間、苦難と栄光の半生をこの音楽の都で過ごすことになる。その間に第2~第9番までの8曲の交響曲のほか、珠玉のようなモテット、大規模な宗教曲『テ・デウム』(1883)、最後の世俗的合唱曲『ヘルゴラント』(1893)などが生み出されるのだが、その創作活動にはある種の周期性がみられる。まず、進出当初はオルガンの名演奏家としての活躍が目だつ。1869年にはナンシーからパリ(ノートル・ダム大聖堂)への演奏旅行、さらに71年にはロンドン万国博覧会に招かれ、水晶宮(クリスタル・パレス)などで大成功を博した。71~76年は集中的な創作期で、交響曲の第2番から第5番までの4曲が次々に作曲された。その後の3年間は自作品の改訂の時期で、79~87年にふたたび大作が続々と生まれる。弦楽五重奏曲(1879)、交響曲第6番(1881)、第7番(1883)、そして『テ・デウム』を挟んで第8番(1887)が書かれた。85年以降、ブルックナーはふたたび自作の改訂に取り組んでいる。長大であまりに個性的な作品を、当時の聴衆に理解されるようにと、省略し短縮し、多数の変更を加えたのである。最後の交響曲となった第9番の作曲はすでに87年に始まったが、それはついに完成されることなく、96年10月11日、生涯独身のままブルックナーは世を去り、その遺骸(いがい)は彼の心の故郷、ザンクト・フロリアン修道院教会の、大オルガンの真下の地下室に安置された。

 ブルックナーはそのワーグナーへの傾倒から、ワーグナー派とみなされ、ハンスリックやブラームス周辺の伝統派からは敵対視されたが、交響曲の純粋な構築美を目ざした彼の音楽は、むしろベートーベンの交響曲第9番やシューベルトの交響曲の伝統を発展させたものであり、リストやワーグナーの標題性を重視した「新ドイツ派」とは相いれぬものであった。オルガン奏者としての経験に基づいた音響効果や各旋律の対位法的な処理、交響曲にもみられる敬虔(けいけん)な感情表出など、19世紀後半に生きながらも、その芸術的精神は、シュタイアやザンクト・フロリアンの、ゴシックバロックの教会堂建築にも通じるような深い宗教性に根ざすものなのである。

樋口隆一

『シェンツェラー著、山田祥一訳『ブルックナー――生涯・作品・伝説』(1983・青土社)』『張源祥著『ブルックナー・マーラー』(1971・音楽之友社)』『デルンベルク著、和田旦訳『ブルックナー その生涯と作品』(1967・白水社)』『レルケ著、神品芳夫訳『ブルックナー 音楽と人間像』(1968・音楽之友社)』『グレーベ著、天野晶吉訳『アントン・ブルックナー』(1987・芸術現代社)』


ブルックナー(Karl Bruckner)
ぶるっくなー
Karl Bruckner
(1906―1982)

オーストリアの児童文学作家。28歳でブラジルに渡るが、2年後に帰国。メキシコ革命に材をとった『メキシコの嵐(あらし)』(1949)、家出少年の物語『ナポリの浮浪児』(1955)、ツタンカーメン王の墓の発掘を描いた『黄金のファラオ』(1957)、広島への原爆投下を扱った『サダコは生きる』(1961)など、人道主義的な立場から戦争、貧困、暴力、無知など、子供の幸福を妨げる悪を、強く興味をかきたてる物語によって批判し続けた。ほかに、イタリアの家出少年を描いた『ジーノのあした』(1955)などがある。

神宮輝夫

『北条元一訳『メキシコの嵐』(1958・岩波書店)』『片岡啓治訳『サダコは生きる』(1964・学習研究社)』『塩谷太郎訳『ロボット・スパイ戦争』(1972・あかね書房)』『北条元一訳『黄金のファラオ』(1973・岩波書店)』『山口四郎訳『ジーノのあした』(1990・福武書店)』


ブルックナー(Ferdinand Bruckner)
ぶるっくなー
Ferdinand Bruckner
(1891―1958)

オーストリアの劇作家。本名テーオドア・タッガー。ウィーン生まれ。表現主義が新即物主義に移行する時期に、アクチュアルな時事劇で成功。退廃的な戦後の世相をフロイト的に扱った『青年の病気』(1926)、法の不備をつく社会批判劇『犯罪人』(1928)で名声を獲得し、ベルリンにルネサンス劇場を開場した。1933年アメリカに亡命、51年に帰国。歴史劇『イングランドのエリザベス』(1930)、『シモン・ボリバー』(1945)や古典改作『タイモンと金』(1931)、『ピュルスとアンドロマック』(1952)や詩劇なども書いた。

[岩淵達治]

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百科事典マイペディア 「ブルックナー」の意味・わかりやすい解説

ブルックナー

オーストリアの作曲家,オルガン奏者。リンツ近くのアンスフェルデンに学校教師の長男として生まれ,村の教会のオルガン奏者を兼ねる父のもとで早くから音楽に親しむ。13歳で父を失ったのち近くのザンクト・フロリアン修道院の寄宿舎に入り,少年聖歌隊員としてオルガンやピアノ,バイオリンを学ぶ。師範学校を経て1841年に助教師となるが作曲にも手を染め,ザンクト・フロリアン修道院のオルガン奏者,1856年にはリンツ大聖堂のオルガン奏者に就任。以後作曲の勉強に本格的にとりくみ,R.ワーグナーの音楽に傾倒。1864年−1868年,《ミサ曲第1番ニ短調》にはじまる〈三大ミサ曲〉を完成。1868年ウィーン音楽院教授に就任し,1873年からはワーグナーと親交を深める。また1875年にはウィーン大学講師となり,学生だったマーラーと交流。《交響曲第4番ロマンティック》(1881年初演)以来ようやく高まり始めた作曲家としての名声は60歳の年,1884年のニキシュによる《交響曲第7番》初演の大成功で頂点を迎え,生涯初の栄光をブルックナーにもたらした。1891年ウィーン大学名誉博士。《交響曲第9番》を未完のまま72歳で永眠。その音楽の基盤には敬虔(けいけん)なカトリック信仰があり,教会オルガン奏者として精通した多声音楽の伝統とベートーベン以来のドイツ,オーストリア音楽の諸様式とが融合し,独自の書法を形づくっている。第0番と習作1曲を含む11曲の交響曲(1863年―1896年)のほか,《テ・デウム》(1884年),《詩篇第150番》(1892年)など多くの教会音楽,《弦楽五重奏曲》(1879年)などがある。→ハンスリック/Franzシュミット
→関連項目朝比奈隆キリスト教音楽クナッパーツブッシュクライスラー第九交響曲ロマン主義

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改訂新版 世界大百科事典 「ブルックナー」の意味・わかりやすい解説

ブルックナー
Anton Bruckner
生没年:1824-96

オーストリアの作曲家。教育者を父としてアンスフェルデンに生まれ,敬虔なカトリック信仰の環境に育った。幼少よりオルガンなどの楽器に親しみ,11歳で作曲を試みた。1837年ザンクト・フロリアン修道院合唱児童を皮切りに,55年までにオーバーエスターライヒ各地で助教師,オルガン奏者を務めるかたわら,音楽理論を学んだ。ザンクト・フロリアンの臨時オルガン奏者に続いて,56年リンツ大聖堂オルガン奏者の要職に就き,68年まで教会音楽家,合唱指揮者として活躍。このリンツ時代に作曲の勉強に本格的に取り組み,ウィーン音楽院のゼヒターSimon Sechterに通奏低音と和声学,対位法を,指揮者・チェロ奏者O.キツラーに楽式と管弦楽法を師事。後者の影響でR.ワーグナーら新ドイツ楽派の音楽を知り,同時に交響曲の創作に着手した。68年以降ウィーンに定住し,ウィーン音楽院教授(1868-91),ウィーン大学講師(1875-94)などを歴任,91年にはウィーン大学より名誉博士号を授与された。ウィーン時代の初期に2度にわたって国外のオルガン・コンクールで絶賛を博し,卓越したオルガン奏者としての評価を国際的なものとした。また作品も少しずつ演奏され,77年の《第3交響曲》初演は失敗に終わったものの,84年の《第7交響曲》初演では大成功をおさめ,交響曲の作曲家としても徐々に名声を高めていった。一方,73年に始まるワーグナーとの親交は,ウィーンの有力な批評家で反ワーグナー派の筆頭E.ハンスリックの反感を買い,このことが彼の後半生にとって少なからぬ障壁となった。

 ブルックナーは教会音楽と交響曲の分野で19世紀後半を代表する作曲家であるが,後期ロマン派という時代様式の中では特異な存在であった。彼の作風は当時のいずれの楽派にも属さず,カトリック信仰を精神的基盤として,イタリア・ルネサンス以来の対位法とオーストリアの地方教会音楽の伝統,ベートーベン,シューベルトらの古典的な絶対音楽の形式,加うるにワーグナーの近代的和声法と管弦楽法が混在している。オルガン的発想の音響と大規模な造形をもつ交響曲はなかなか世間に認められず,しばしば自ら(場合によっては弟子)による改訂を余儀なくされ,複雑な異稿問題を残した。主要作品として,交響曲11曲(習作ヘ短調,〈第0番〉から未完の第9番まで),数曲のミサ曲,《テ・デウム》および《詩篇第150篇》,多数のモテット,弦楽五重奏曲ヘ長調などがある。作品全集には,第2次大戦を境に新旧二つのシリーズがある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ブルックナー」の意味・わかりやすい解説

ブルックナー
Bruckner, (Josef) Anton

[生]1824.9.4. アンスフェルデン
[没]1896.10.11. ウィーン
オーストリアの作曲家,オルガン奏者。聖フローリアン修道院の少年聖歌隊員として教育を受けたのち,1851年同院の,56年リンツ大聖堂のオルガン奏者。 56~61年ウィーンで S.ゼヒターについて学び,68年その後任としてウィーン音楽院教授,75年ウィーン大学の和声と対位法の理論講師となる。作曲は 40歳を過ぎてから始めたが,ブラームス対ワーグナーの抗争に巻込まれ,批評家 E.ハンスリックの妨害,新聞の嘲罵を受け,『第7交響曲』の成功 (1884,A.ニキシュ指揮,ライプチヒ) を除き生前は妥当な評価を得なかった。彼の作品が世界的に評価されたのは第1次世界大戦後のことである。作品は,ミサ曲や交響曲9曲 (第9交響曲は未完) のほか,『テ・デウム』 (84) ,『弦楽五重奏曲』 (78~79) などがある。

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ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者) 「ブルックナー」の解説

ブルックナー

オーストリアの作曲家。少年の頃に、いとこのヴァイスに和声やオルガンの奏法を学んだ。10代の時に父親を亡くすと、ザンクト・フローリアン修道院で少年聖歌隊の一員として育ち、オルガニストのカッティンガーの ...続き

出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報

世界大百科事典(旧版)内のブルックナーの言及

【交響曲】より

…1811ころ‐28)は,本領のリート(歌曲)の曲想を生かしつつ,断片動機の集中的展開よりもむしろそれ自体で充足した旋律をのびのびと歌わせ,和声的色彩で陰影を施しながら反復させるという独特な形式感を打ち出している。第7番(従来の番号付では第8番)《未完成》(1822)と第8番(同じく第7番ないし第9番)《ザ・グレート》(1828)では,トロンボーンが定着し,規模も拡大されて,後のブルックナーを思わせるような息の長い呼吸が認められる。 その他,初期ロマン派交響曲では,メンデルスゾーン(初期の弦合奏主体の13曲と,1824‐42の5曲)とシューマン(未完とスケッチのほか,1841‐51の4曲)が重要である。…

【ロマン派音楽】より

… 19世紀の後半,とくにその70年代以降のロマン主義は,〈後期ロマン主義Spätromantik〉の名でよく呼ばれる。ここには普通,ブラームス,ブルックナーに始まってフーゴー・ウォルフ,マーラー,シェーンベルクやR.シュトラウスの初期に豊かな全体が収められる。しかし19世紀後半から20世紀初めにかけての音楽が示す多様な相は,もはやロマン主義の一元で処理することはできない。…

※「ブルックナー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」