ウィリアム(英語表記)William, prince of Wales

デジタル大辞泉 「ウィリアム」の意味・読み・例文・類語

ウィリアム(William)

イングランド王。
(1世)[1027~1087]在位1066~1087。イングランドの王位継承権を主張し、ヘースティングズの戦いに勝って王位につき、ノルマン朝を創始。ノルマンディー公。征服王。
(3世)[1650~1702]在位1689~1702。ネーデルラント連合の総督であったが、名誉革命で「権利宣言」を承認して王位につき、議院内閣制への道を開いた。オレンジ公

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精選版 日本国語大辞典 「ウィリアム」の意味・読み・例文・類語

ウィリアム

  1. ( William )
  2. [ 一 ] ( 一世 ) イングランド王(在位一〇六六‐八七)。ノルマン王朝の創始者。征服王。(一〇二七‐八七
  3. [ 二 ] ( 三世 ) イギリス国王(在位一六八九‐一七〇二)。オランダ終身統領(在位一六七二‐一七〇二)。オレンジ公。イギリスジェームズ二世の長女メアリーと結婚、一六八九年名誉革命後「権利宣言」を承認して、妻とともに即位。(一六五〇‐一七〇二

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウィリアム」の意味・わかりやすい解説

ウィリアム
William, prince of Wales

[生]1982.6.21. ロンドン,パディントン
イギリスの皇太子。フルネーム William Arthur Philip Louis, prince of Wales, duke of Cornwall and Cambridge, earl of Strathearn and Baron Carrickfergus。2022年9月8日のエリザベス2世死去に伴い即位した父チャールズ3世より,プリンス・オブ・ウェールズ prince of Walesの称号を授かり,コーンウォール公爵 duke of Cornwalの爵位も受け継ぐ。
チャールズ皇太子ダイアナの長男として生まれる。ロンドンのウェザビー・スクールで初期教育を受け,1990~95年バークシャーのラドグローブ・スクール,1995~2000年ウィンザーイートン・カレッジで学ぶ。その後の 1年間,慈善活動に熱心だった母の影響でチリでボランティア活動に従事したり,イギリスの酪農農家で働いたりしたほか,中央アメリカのベリーズやアフリカの国々を訪れた。スコットランドセントアンドルーズ大学では美術史や地理学を学び,2005年卒業。翌年,王立陸軍士官学校であるサンドハースト陸軍士官学校に入学し,イラク駐在イギリス軍の作戦への参加を希望したが(→イラク戦争),標的にされて味方の兵士を危険にさらすことを恐れた軍幹部から拒否された。2008年に空軍 Royal Air Force,続いて海軍 Royal Navyに入隊し,三軍すべてを経験した。2010年には空軍所属の捜査救助隊のヘリコプタ操縦士の訓練を修了,ウェールズで任務につき,2013年9月に兵役を終えるまでに 150回以上出動したといわれる。2015年7月から 2017年7月までの 2年間,救急輸送機のパイロットの仕事に従事した。
2010年11月,セントアンドルーズ大学で知り合ったキャサリン・ミドルトンとの結婚が発表され,2011年4月29日にウェストミンスター寺院で成婚。2013年7月22日に長男ジョージ・アレクサンダー・ルイが,2015年5月2日に長女シャーロット・エリザベス・ダイアナが,2018年4月23日に二男ルイ・アーサー・チャールズが誕生した。
イギリス王室で最も人気のある一人といわれ,1997年に母ダイアナを交通事故で亡くしたあとの,公の場での気品ある落ち着いたふるまいが賞賛された。10年後には弟のヘンリー(通称ハリー)王子とともにダイアナの追悼式典を企画した。父同様に熱心なスポーツマンであり,環境問題にも積極的に取り組む。2020年には向こう 10年間,五つの部門において地球の修復に貢献した事業や人・組織を顕彰するアースショット賞 Earthshot Prizeの創設を発表した。同賞は,アメリカ大統領ジョン・F.ケネディが月に人類を送り込む「ムーンショット」Moonshot構想から想を得たものである。

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百科事典マイペディア 「ウィリアム」の意味・わかりやすい解説

ウィリアム[3世]【ウィリアム】

イングランド王(在位1689年―1702年)。オレンジ公ウィリアムオラニエ公ウィレム)とも。オランダ統領ウィレム2世とイングランド王チャールズ1世の娘メアリーの子。オランダ統領(1672年―1702年)としてルイ14世の侵略に抵抗し,ナイメーヘンの和約を結ぶ。1688年イングランド王ジェームズ2世の反対派に招請されて出兵,名誉革命に成功,権利宣言を受諾して,妻メアリー(ジェームズ2世の娘,メアリー2世)とともに即位,議会中心の立憲政治の道を開く。スペイン継承戦争にあたり対仏大同盟を結成,終始ルイ14世と争った。
→関連項目オラニエ=ナッサウ[家]オランダ戦争ジャコバイトダンビー伯ハリファクスメアリー[2世]

ウィリアム[1世]【ウィリアム】

ノルマン朝初代のイングランド王(在位1066年―1087年)。〈征服王the Conqueror〉とも称される。もとノルマンディー公であったが,1066年イングランドを征服(ノルマン・コンクエスト)。王権をたかめ,封建制度による統一国家の基礎を確立。
→関連項目ウィリアム[2世]ウィンザー(イギリス)ドゥームズデー・ブックヘースティングズの戦ヘンリー[1世]ロンドンロンドン塔

ウィリアム[4世]【ウィリアム】

英国,ハノーバー朝第5代目の国王(在位1830年−1837年)。ジョージ3世の三男。1789年クラレンス公に叙せられ,翌年海軍に入り,アメリカならびに西インド諸島などで軍務につき,1827年海軍司令長官となる。1830年長兄ジョージ4世の死去により即位したが,前歴から〈水兵の国王 the Sailor King〉の異名で呼ばれた。その治世における最大の事件は,1832年の選挙法改正であったが,改正法案が貴族院の反対にあって難航したとき,賛成数をふやすための新貴族をつくる要請には応じなかったが,保守派貴族に投票の棄権を促して,改正の実現に陰の力があった。王妃アデレードとの間に王位継承者が生まれなかったため,後を姪のビクトリアがついだ。

ウィリアム[2世]【ウィリアム】

イングランド,ノルマン朝2代目の王(在位1087年−1100年)。〈征服王〉ウィリアム1世の第3子。兄のノルマンディー公ロベールとイングランド王位をめぐりしばしば争い,スコットランドに侵入してマルカム3世から臣従をかちとり,カンタベリー大司教アンセルムスと対立して追放するなど,粗野で厳格な統治によって〈赤顔王〉とあだ名されて,人民のうけはよくなかった。狩猟中弓矢に当たって死亡したが,暗殺説もある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウィリアム」の意味・わかりやすい解説

ウィリアム(3世)
うぃりあむ
William Ⅲ 英語
Willem Ⅲ オランダ語
(1650―1702)

オラニエ公(オレンジ公)、ネーデルラント連邦共和国総督(在位1672~1702)、イギリス国王(在位1689~1702)。オランダのオラニエ公ウィレム2世の子としてハーグに生まれ、誕生と同時に、すでに死亡していた父の後を継いでウィレム3世となった。ホラント州アムステルダムの有力都市貴族の寡頭制支配のなかで成長。1672年イギリスとフランスとの侵略によりオランダが存亡の危機に瀕(ひん)すると、名門オラニエ家の後継ぎとして、連邦共和国の総督兼軍終身総司令官に任命され、反ルイ14世のチャンピオンとしての期待を担った。しかし対仏戦の戦果は思わしくなく、ヨーロッパ諸国との交渉によってフランスの孤立化を図ることでルイ14世の野望をくじこうとし、77年にイギリスのヨーク公(後のジェームズ2世)の長女メアリーと結婚して、イギリスを反フランス陣営に引き込もうともくろんだ。続いて86年には、オーストリア、スペイン、ドイツ諸領邦を誘ってアウクスブルク同盟の形成に成功したが、義父にあたるイギリス国王ジェームズ2世の親仏的態度のためにオランダの安全は確保されなかった。88年、イギリス国内のジェームズ2世に対する反感が頂点に達し、ウィリアムに対し救援の招請文が送られると、ただちにこれに応じてイングランドに上陸、国民の圧倒的支持を得て、ほぼ無血のうちにジェームズを放逐、翌年2月、権利宣言を受諾して妻メアリーとともにイギリス王位につき、名誉革命を実現させた。革命後は、ジェームズを支持するアイルランド人の抵抗を鎮圧し、ウィリアムの王位を認めないルイ14世とも対決して大陸に連戦。その間イギリス国内では議会の重要性が増し、立憲君主制の基礎が築かれ、また戦費調達の必要からイングランド銀行が創設された。軍事的手腕は凡庸であったといわれるが、ルイ14世の侵略阻止を生涯の課題とした冷静な政治家であった。落馬事故がもとで、1702年3月8日ロンドンで死去。

[大久保桂子]


ウィリアム(1世)
うぃりあむ
William Ⅰ
(1027/1028―1087)

ノルマンディー公(2世。在位1035~87)、イングランド王(征服王the Conqueror。在位1066~87)。ノルマンディー公ロベール1世Robert Ⅰ(?―1035。在位1027~35)の庶子。父の死後ノルマンディー公となったが、貴族らの反乱に苦しみ、1047年バル・エイ・デューンの戦いに苦戦、フランドルの協力を得て57年バラビーユの戦いでフランス王アンリ1世を撃破して、ノルマンディー公領の統轄に成功した。51年と64年には後継子のないエドワード懺悔(ざんげ)王からイングランド王位後継の約束を得ていたが、66年懺悔王の死後ハロルド2世が王位についたのに反対してイングランドに上陸、ノルマン騎兵軍をもってヘースティングズの戦いでハロルド2世を敗死させ、同年末ロンドン入城を果たして王位につき、ノルマン朝を開いた。

 その後、各地の反乱の鎮定に多忙であったが、カンタベリー大司教ランフランクの内助を得てイングランド教会の統一、ローマ教会との関係の修復にも成功した。彼は、ノルマン貴族を各地に封じて大陸的な軍事的封建制度を導入するとともに、1086年8月ソールズベリーで貴族らから忠誠誓約Oath of Salisburyをとったように集権的な統治を行い、全国的検地を施行してドゥームズデー・ブックという土地台帳を86年末に編纂(へんさん)させた。しかしその間、フランス王フィリップ1世の攻撃に苦しみ、国内でも義兄弟バイユー司教オドと対立し、さらに長男ロベールの再三の反乱にあうなど、その治世は多難であった。ノルマンディーにおいてフィリップ1世と交戦中、87年9月9日死去。

[富沢霊岸]


ウィリアム(4世)
うぃりあむ
William Ⅳ
(1765―1837)

イギリス国王(在位1830~37)。ジョージ3世の三男として生まれ、若くして海軍に入った。1789年クラレンス公に叙される。1830年6月、兄ジョージ4世の死により王位を継承。個人的には選挙法改正に消極的であったが、同年11月に改正派のホイッグ党グレー内閣が成立すると、同内閣を支持した。32年5月、改正反対派による組閣を試みたが、世論の反対で失敗。以後ふたたびグレー内閣を支持し、貴族院の抵抗を抑えて6月に選挙法改正法を成立させた。次のメルバーン内閣が提案した政策にしばしば抵抗し、34年には保守党のピールを首相としたが、35年の総選挙におけるメルバーンの勝利をみて、政治の主導権はもはや国王にはないという事実を認めるに至った。彼の死後、姪(めい)のビクトリアがイギリスの王位を継承した。

[青木 康]



ウィリアム(2世)
うぃりあむ
William Ⅱ
(1056/60―1100)

イングランド王(赤顔王Rufus。在位1087~1100)。ウィリアム1世の第3子。父の寵愛(ちょうあい)を受けてその死後イングランド王となる。兄のノルマンディー公ロベールRobert Ⅱ(1051/54―1134。在位1087~1106)、バイユー司教オドらの反乱を切り抜け、ラナルフ・フランバードを起用して厳格な統治を展開し、聖職者叙任権をめぐってカンタベリー大司教アンセルムスとも対立した。ロベールの十字軍出征中ノルマンディー公領をゆだねられたが、狩猟中暗殺された。

[富沢霊岸]

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デジタル大辞泉プラス 「ウィリアム」の解説

ウィリアム

英国マンチェスターで結成されたバンド、ザ・スミスの曲。1984年に発表し、全英第17位を記録。「ローリング・ストーン」誌が選ぶ最も偉大な500曲第431位。原題《William, It Was Really Nothing》。

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