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オラニエ公(オレンジ公)、ネーデルラント連邦共和国総督(在位1672~1702)、イギリス国王(在位1689~1702)。オランダのオラニエ公ウィレム2世の子としてハーグに生まれ、誕生と同時に、すでに死亡していた父の後を継いでウィレム3世となった。ホラント州とアムステルダムの有力都市貴族の寡頭制支配のなかで成長。1672年イギリスとフランスとの侵略によりオランダが存亡の危機に瀕(ひん)すると、名門オラニエ家の後継ぎとして、連邦共和国の総督兼軍終身総司令官に任命され、反ルイ14世のチャンピオンとしての期待を担った。しかし対仏戦の戦果は思わしくなく、ヨーロッパ諸国との交渉によってフランスの孤立化を図ることでルイ14世の野望をくじこうとし、77年にイギリスのヨーク公(後のジェームズ2世)の長女メアリーと結婚して、イギリスを反フランス陣営に引き込もうともくろんだ。続いて86年には、オーストリア、スペイン、ドイツ諸領邦を誘ってアウクスブルク同盟の形成に成功したが、義父にあたるイギリス国王ジェームズ2世の親仏的態度のためにオランダの安全は確保されなかった。88年、イギリス国内のジェームズ2世に対する反感が頂点に達し、ウィリアムに対し救援の招請文が送られると、ただちにこれに応じてイングランドに上陸、国民の圧倒的支持を得て、ほぼ無血のうちにジェームズを放逐、翌年2月、権利宣言を受諾して妻メアリーとともにイギリス王位につき、名誉革命を実現させた。革命後は、ジェームズを支持するアイルランド人の抵抗を鎮圧し、ウィリアムの王位を認めないルイ14世とも対決して大陸に連戦。その間イギリス国内では議会の重要性が増し、立憲君主制の基礎が築かれ、また戦費調達の必要からイングランド銀行が創設された。軍事的手腕は凡庸であったといわれるが、ルイ14世の侵略阻止を生涯の課題とした冷静な政治家であった。落馬事故がもとで、1702年3月8日ロンドンで死去。
[大久保桂子]
ノルマンディー公(2世。在位1035~87)、イングランド王(征服王the Conqueror。在位1066~87)。ノルマンディー公ロベール1世Robert Ⅰ(?―1035。在位1027~35)の庶子。父の死後ノルマンディー公となったが、貴族らの反乱に苦しみ、1047年バル・エイ・デューンの戦いに苦戦、フランドルの協力を得て57年バラビーユの戦いでフランス王アンリ1世を撃破して、ノルマンディー公領の統轄に成功した。51年と64年には後継子のないエドワード懺悔(ざんげ)王からイングランド王位後継の約束を得ていたが、66年懺悔王の死後ハロルド2世が王位についたのに反対してイングランドに上陸、ノルマン騎兵軍をもってヘースティングズの戦いでハロルド2世を敗死させ、同年末ロンドン入城を果たして王位につき、ノルマン朝を開いた。
その後、各地の反乱の鎮定に多忙であったが、カンタベリー大司教ランフランクの内助を得てイングランド教会の統一、ローマ教会との関係の修復にも成功した。彼は、ノルマン貴族を各地に封じて大陸的な軍事的封建制度を導入するとともに、1086年8月ソールズベリーで貴族らから忠誠誓約Oath of Salisburyをとったように集権的な統治を行い、全国的検地を施行してドゥームズデー・ブックという土地台帳を86年末に編纂(へんさん)させた。しかしその間、フランス王フィリップ1世の攻撃に苦しみ、国内でも義兄弟バイユー司教オドと対立し、さらに長男ロベールの再三の反乱にあうなど、その治世は多難であった。ノルマンディーにおいてフィリップ1世と交戦中、87年9月9日死去。
[富沢霊岸]
イギリス国王(在位1830~37)。ジョージ3世の三男として生まれ、若くして海軍に入った。1789年クラレンス公に叙される。1830年6月、兄ジョージ4世の死により王位を継承。個人的には選挙法改正に消極的であったが、同年11月に改正派のホイッグ党グレー内閣が成立すると、同内閣を支持した。32年5月、改正反対派による組閣を試みたが、世論の反対で失敗。以後ふたたびグレー内閣を支持し、貴族院の抵抗を抑えて6月に選挙法改正法を成立させた。次のメルバーン内閣が提案した政策にしばしば抵抗し、34年には保守党のピールを首相としたが、35年の総選挙におけるメルバーンの勝利をみて、政治の主導権はもはや国王にはないという事実を認めるに至った。彼の死後、姪(めい)のビクトリアがイギリスの王位を継承した。
[青木 康]
イングランド王(赤顔王Rufus。在位1087~1100)。ウィリアム1世の第3子。父の寵愛(ちょうあい)を受けてその死後イングランド王となる。兄のノルマンディー公ロベールRobert Ⅱ(1051/54―1134。在位1087~1106)、バイユー司教オドらの反乱を切り抜け、ラナルフ・フランバードを起用して厳格な統治を展開し、聖職者叙任権をめぐってカンタベリー大司教アンセルムスとも対立した。ロベールの十字軍出征中ノルマンディー公領をゆだねられたが、狩猟中暗殺された。
[富沢霊岸]
国または地方公共団体が個々の候補者の選挙費用の一部または全額を負担すること。選挙に金がかかりすぎ,政治腐敗の原因になっていることや,候補者の個人的な財力によって選挙に不公平が生じないようにという目的で...
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