ターナー(英語表記)Joseph Mallord William Turner

精選版 日本国語大辞典 「ターナー」の意味・読み・例文・類語

ターナー

[一] (Joseph Mallord William Turner ジョゼフ=マロード=ウィリアム━) 一九世紀前半のイギリスの代表的風景画家。初め、光と闇のコントラストの強い、ロマン主義的な風景画を描いたが、のち大気の現象、光の効果そのものを対象とした抽象的、幻想的作品を生んだ。印象主義の先駆者の一人。代表作「雨、蒸気、速力」。(一七七五‐一八五一
[二] (Cyril Tourneur シリル━) イギリスの劇詩人。伝未詳。エリザベス朝の恐怖悲劇、「復讐者の悲劇」「無神論者の悲劇」の作者と推定されている。一六二六年没。
[三] (Frederick Jackson Turner フレデリック=ジャクソン━) アメリカの歴史学者。ヨーロッパの影響を重視するアメリカ史観を批判、ナショナリズム形成におけるフロンティアの存在と影響を強調し、アメリカ史に新生面を開いた。著「アメリカ史におけるフロンティア」など。(一八六一‐一九三二

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デジタル大辞泉 「ターナー」の意味・読み・例文・類語

ターナー(Joseph Mallord William Turner)

[1775~1851]英国の画家。光と大気の表現に基づく、煙るような空間構成の風景画を制作。印象派に大きな影響を与えた。作「雨・蒸気・速力」など。

ターナー(turner)

フライ返し
轆轤ろくろ

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改訂新版 世界大百科事典 「ターナー」の意味・わかりやすい解説

ターナー
Joseph Mallord William Turner
生没年:1775-1851

イギリスの画家。コンスタブルと並んでイギリス風景画の黄金期を代表し,その作品数,後世への影響の大きさなどから,同国最大の画家といえる。

 ロンドンのコベント・ガーデンの理髪師の息子として生まれる。幼時から画才を示し,1789年から4年間ローヤル・アカデミーに学んだ。そのかたわら当時需要のあった地誌的(トポグラフィカル)な銅版画の下絵や彩色に携わり,またカズンズ等の風景素描の模写複製の仕事をし,しだいに風景画家としての道を歩み始める。早くから国内の制作旅行を試み,1802年にはフランスとスイスにも旅行し,アルプスの壮大崇高な風景に打たれ,ルーブル美術館の巨匠たちの作品から大きな影響を受けた。同年ローヤル・アカデミー会員になり,このころから意識的に正統的アカデミズムの作品,すなわち大画面の歴史画を手がけるようになる。その生い立ちのゆえに歴史画制作に必要な古典的教養に欠け,ときに主題解釈上の誤りを犯しているといわれる。しかし,この分野の彼の作品では,主題の物語る〈過去〉が,背景として描かれた風景を満たす生き生きとした光や大気の〈現在〉によって生気を与えられ,そこに独特のドラマ性がみられる(《雪の嵐:アルプスを越えるハンニバルとその軍勢》1812)。歴史画制作のかたわら身近なイギリスの自然を描き,天候と大気が風景に与える変化を追究し,《霜の朝》(1813)などを完成する。19年夏に最初のイタリア旅行を行った。帰国後は,旅行中の無数のスケッチを用いて旅先に取材した大作に取り組む。また南国の体験は,彼の作品における光の役割を大きなものにした。28年,2度目のイタリア旅行を試み,29-46年にはイタリアに主題を採った作品を毎年のようにローヤル・アカデミーに発表した。他方国内では20年代末から30年代にかけて,サセックスのペットワースにあるエグルモント伯爵の館を足場に多くの風景画や室内画を描き,スコットランドなどにも制作旅行を行った。また,《雨,蒸気,速度》(1844)のように,汽車や船など,蒸気を用いる当時の最新の乗物の美にも開眼する。総じて晩年の画面からは事物の細密な描写が失われ,光や霧のもうろうとした表現がその主役となり,ことに40年以降多く描かれたベネチア風景にその傾向が顕著である。ローヤル・アカデミーの院長代理を務めるなど画家としての地位は高く,莫大な財産も築いたが,母親の精神病の遺伝を恐れてか生涯独身で,ロンドン市内に本宅と別の隠れ家でひっそりと世を去った。

 ターナーの風景画家としての軌跡は,18世紀イギリスの伝統的な水彩画,地誌画に始まり,ロマン主義的情趣に満ちた物語(歴史)主題の風景画によって盛期を迎え,印象主義やときには非具象絵画さえも先駆する晩年の作品によって幕を閉じた。それと並行して,光と天候と大気という近代風景画の基本的課題を,生涯をかけて追究しつづけた。
執筆者:

ターナー
Cyril Tourneur
生没年:?-1626

イギリスの劇作家。初期の晦渋(かいじゆう)な寓意詩《変身の変容》(1606)のほか数編の詩の作者であること,晩年セシル卿のスペイン遠征に参加して途中アイルランドで病死したこと以外,彼の生涯について知られることは少ない。今日確実に彼の作とされる戯曲は《無神論者の悲劇》(1609ごろ初演)の1編のみである。〈正義の士の復讐〉という副題をもつこの悲劇は,無神論者の悪党の企むグロテスクな陰謀を軸に,腐敗した貴族社会の乱倫の図をなまなましくくりひろげる。さらに殺人と亡霊の出現がそれに加わって典型的なセネカ風復讐劇を予想させるが,最後は悪党がみずからの振り上げた斧でみずからの頭を割るという神による復讐の形で終わっている。

 安直なモラル,生硬で誇張に富んだ文体,人為的な筋立てと生気に乏しい人物像などの欠点にもかかわらず,この作品に,最近まで彼の作とみなされてきた《復讐者の悲劇》(1606ごろ。T.ミドルトン作)に共通する生への否定的精神の表出を見取り,この劇をジェームズ朝悲劇の一つの代表作とする向きもある。
執筆者:

ターナー
Frederic Jackson Turner
生没年:1861-1932

アメリカの歴史家。ウィスコンシン州出身。ウィスコンシン大学(1891-1910),ハーバード大学(1910-24)でアメリカ史を教え,1927年から死去までカリフォルニア州のハンティントン・ライブラリーの研究員。1893年《アメリカ史におけるフロンティアの意義》を発表,その後の一連の論文は〈フロンティア学説〉としてまとめられ,アメリカ史の見方を,当時主流を占めていた制度史,憲政史,東部中心のものから,フロンティアおよび西部という環境に重点をおく見方に変えた。同時に,アメリカ史を多数のセクション間の対立,抗争,合従,連衡という角度から見ることの必要性を強調した。1920年代には,アメリカ歴史学界は〈ターナー党〉になってしまった,といわれるほど強力な影響力をもっていた。
執筆者:

ターナー
Nat Turner
生没年:1800-31

アメリカ最大の奴隷暴動の指導者。バージニア州サウスハンプトン郡生れの奴隷で,生来豊かな才能に恵まれ,神秘的な傾向が強く,予言者として奴隷たちの信望を集めた。28歳のとき天啓を受けて奴隷に自由を与える使命にめざめ,1831年8月21日,天候の異常現象を神の啓示と感じ,数名の奴隷たちと暴動を起こした。翌日は数十名に膨張し,白人約60人を殺害した。暴動はまもなく軍隊に鎮圧され,ターナーも10月末に捕らえられて11月に処刑されたが,全南部は恐慌状態に陥り,奴隷取締りが厳重になった。1968年にピュリッツァー賞を受けたW.スタイロンの小説《ナット・ターナーの告白》(1967)は,これをテーマにしたものである。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「ターナー」の意味・わかりやすい解説

ターナー

英国の代表的風景画家。ロンドン生れ。幼少時から油絵,水彩画に親しみ,初めプッサンロランらの影響のもとに古典的風景画を描いたが,1819年のイタリア旅行後,自由奔放に光と大気の相を追求し,ダイナミックな光の効果を駆使して同時代のコンスタブルと対照的な幻想的・象徴的な画境をひらいた。代表作《戦艦テメレール》(1838年,ロンドン,ナショナル・ギャラリー蔵),《雨・蒸気・速度:グレート・ウェスタン鉄道》(1844年,同ギャラリー蔵)など。死後約2万点の作品が国家に遺贈され,ロンドンのテート・ギャラリーに所蔵されている。
→関連項目郡山市立美術館テート・ギャラリーデュプレナショナル・ギャラリー風景画ラスキンロマン主義

ターナー

英国の人類学者。ザンビアのヌデンプ社会の事例などから象徴の問題を研究。儀礼においては,世俗的社会構造に規定されぬ,人間どうしの平等で根源的な絆が実現する〈境界状態〉の段階があると論じ,そのような人間存在のあり方を〈コムニタス〉と名づけた。著書に《儀礼の過程》《象徴と社会》など。
→関連項目文化人類学

ターナー

米国の歴史家。1893年フロンティアの役割を重視した論文〈アメリカ史におけるフロンティアの意義〉を発表して米国史研究に大きな影響を与えた。C.ビアード,M.パリントンとともに〈革新主義歴史家〉の代表的存在。母校ウィスコンシン大学,ハーバード大学で教え,多くの弟子を輩出した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ターナー」の意味・わかりやすい解説

ターナー
Turner, John Napier

[生]1929.6.7. イギリス,サリー県,リッチモンド
[没]2020.9.18. カナダ,トロント
ジョン・ネーピア・ターナー。カナダの政治家,法律家。首相(在任 1984.6.~9.)。1932年家族とともにイギリスからカナダに移り,オタワで初等教育を受けた。1949年ブリティシュコロンビア大学で政治学の学士号を取得後,1年間フランスのパリに留学。その後ローズ奨学生としてイギリスのオックスフォード大学で学び,1952年法学学士号,1957年修士号を取得。帰国後さまざまな企業で働き,1962年の選挙にカナダ自由党から立候補して初当選。1965年に初入閣し,1968年に自由党党首選挙でピエール・エリオット・トルドーに敗れた。トルドー政権で司法大臣を経て財務大臣を務めていたが 1975年9月に突然辞任,翌 1976年2月には議員の職も辞した。会社法の研究に戻り,その後 8年間いくつかの企業の重役を務める一方で政界との緊密な関係を保持した。1984年トルドー首相の政界引退表明をうけ,後継党首に選ばれ首相に就任したが,その直後の選挙でブライアン・マルルーニー率いるカナダ進歩保守党に敗北を喫した。首相在位期間は 3ヵ月にも満たず,短命政権に終わった。1988年の選挙で再び保守党に敗れると,翌 1989年に自由党党首を辞任した。1993年まで下院議員を務め,政界引退後は弁護士として活動した。

ターナー
Turner,Ted

[生]1938.11.19. オハイオ,シンシナティ
アメリカのニュース専門テレビ局CNN創設者。ブラウン大学を校則違反で中退後,父親の経営する看板広告会社ターナー広告社に入社。 24歳のときに父親が死亡し事業を継承。 1970年経営難に陥っていたアトランタの UHFテレビ局を買収してテレビ業界に参入した。 1976年ターナー・ブロードキャスティング・システム TBSを設立。番組を通信衛星経由で全米のケーブルテレビ CATV局に広域配信することで,収益の急拡大に成功した。 1980年6月,ニュース専門のケーブルテレビ,CNNを設立し,メディア界の風雲児として注目を集めた。 1989年の天安門事件,1991年の湾岸戦争の報道は,CNNの名を一躍世界に知らしめた。 1991年『タイム』誌恒例の「マン・オブ・ジ・イヤー」にも選ばれた。 1996年 10月娯楽・メディア大手タイム・ワーナーの TBS買収 (75億ドル) によりタイム・ワーナーの筆頭株主となり,同社副会長を務めたが,2003年5月辞任した。私生活では,1991年女優ジェーン・フォンダと結婚したものの,2001年離婚。アメリカズカップでの優勝 (1977) 経験をもつヨットマン。 1997年財政難の国際連合に 10年間で総額 10億ドルの寄付を表明した逸話もある。

ターナー
Turner, Joseph Mallord William

[生]1775.4.23. ロンドン
[没]1851.12.19. ロンドン
19世紀イギリスで最も偉大な風景画家。理髪師の子に生まれ,ロイヤル・アカデミーに学び,27歳でアカデミーの正会員となった。同年初めてフランスに旅行,N.プーサンや C.ロランの強い影響を受ける。 1819年から3度イタリアに旅行。初期の忠実な描写は,これらの旅行を通ししだいにロマン主義的なものに移り変わり,空と水と光の描写に集中,自由で幻想的な独自の風景画を創造した。名作『チャイルド・ハロルドの巡礼』 (1832) ,『戦艦テメレール』 (1839) ,『雨,蒸気,速度』 (1844) は光と大気の完全な調和を示す。彼の色彩画法はその後モネをはじめ印象派 (→印象主義 ) の画家たちに大きな影響を与えた。孤独を愛したため,チェルシー地区の下宿屋に変名で隠遁生活を送り,知る人もなく世を去った。

ターナー
Turner, Frederick Jackson

[生]1861.11.14. ウィスコンシン,ボルテージ
[没]1932.3.14. カリフォルニア,サンマリノ
アメリカの歴史家。ウィスコンシン大学 (1889~1910) とハーバード大学 (10~24) でアメリカ史を教えた。 1893年『アメリカ史におけるフロンティアの意義』 The Significance of the Frontier in American Historyと題する論文を発表し,アメリカの諸制度がゲルマンに起源をもつとする支配的な学説を批判し,フロンティアの存在こそがアメリカ人の国民性の形成や民主制の発展に寄与したとした。また,『アメリカ史におけるセクションの意義』 Significance of Sections in American History (32) では,北部,南部,西部の地域的特性を強調した。いずれもおりからのナショナリズムの風潮を反映するもので,アメリカ史の解釈に大きな影響を与えた。著書"The Frontier in American History" (20) 。

ターナー
Turner, Victor Witter

[生]1920.5.28. グラスゴー
[没]1983
イギリスの人類学者。マンチェスター大学で M.グラックマンに師事し,アフリカ研究に従事。母校で教えたのち,渡米してコーネル大学,シカゴ大学,バージニア大学で研究・教授職を歴任。ザンビアのンデンブ族社会などにおける儀礼の象徴人類学的研究を行うなかで,A.ファン・ヘネップの通過儀礼論を発展させ,儀礼を社会構造転換のプロセスとして象徴的かつダイナミックに理解する視点を提示した。主著『儀礼の過程』 The Ritual Process: Structure and Anti-structure (1969) ,『象徴と社会』 Dramas,Fields,and Metaphors (74) 。

ターナー
Turner, Nat

[生]1800.10.2. バージニア,サザンプトン
[没]1831.11.11. バージニア,エルサレム
アメリカの黒人奴隷。奴隷暴動の指導者。信仰心の厚かった彼は,2番目の主人に売られた頃から自分を黒人解放の使徒と考えるようになり,近傍の黒人に対して大きな影響力をもち,「予言者」と呼ばれた。 1831年8月 21日夜,バージニア州南東部のサザンプトンでほかの奴隷7人とともに暴動を起し,3番目の主人一家を殺害,その後2日間で白人 51人を殺したが,1人の奴隷も所有しない家庭は襲撃対象から除外された。しかし,従う者 75人にすぎず,白人の武力抵抗と 3000人の民兵の出現で暴動は崩壊,絞首刑となった。この奴隷自身による解放闘争は南部一帯の奴隷所有者を恐慌状態に陥れ,その後奴隷弾圧が一層強化された。

ターナー
Tourneur, Cyril

[生]1575頃
[没]1626.2.28. アイルランド,キンセール
イギリスの劇作家。伝記不詳。生涯の大半を軍人として過し,外交使節としてネーデルラントに渡ったこともあるらしいが,1625年 E.セシルに従ってスペインのカディス遠征に加わり,病を得て帰途死亡。文筆に打込んだ6年間には風刺詩や哀歌などの詩作もあるが,特にシェークスピア時代に続くジェームズ朝の退廃的な作風を代表する2編の恐怖悲劇『復讐者の悲劇』 The Revenger's Tragedy (1607刊) と『無神論者の悲劇』 The Atheist's Tragedy (11刊) で知られる。ただし前者は J.ウェブスターや T.ミドルトンの作とする学者もある。

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食器・調理器具がわかる辞典 「ターナー」の解説

ターナー【turner】

フライ返し。⇒フライ返し

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世界大百科事典(旧版)内のターナーの言及

【イギリス文学】より

…ハムレット,マクベス,リア王,フォールスタッフなど,強烈な存在感のある人物を数多く造った点でも,彼の右に出るものはいない。
[屈折と終息]
 シェークスピアの同時代人には,〈気質喜劇〉と呼ばれる卓抜な風刺劇の作者ベン・ジョンソンがいたが,ほかにも,《白魔》《モールフィ公爵夫人》のJ.ウェブスター,《復讐者の悲劇》のC.ターナー,《あわれ彼女は娼婦》のJ.フォードなど,すぐれた才能がひしめいていた。加虐,嗜虐,近親相姦といった屈折し倒錯した主題を,マニエリスム的な手法で劇化した彼らの作品には,ルネサンス末期の魂の苦悩と,痛ましい抵抗の身もだえが満ちている。…

【アメリカ合衆国】より

…90年代にアメリカはイギリスに追いつき追いこして世界一の工業国になり,それを誇示するかのように93年アメリカの急成長を象徴する都市シカゴで盛大な万国博覧会が開催された。
[フロンティアの消滅と海外進出]
 そのシカゴ万博の会場の一隅で,F.J.ターナーという歴史学者が1890年にフロンティアが消えたことを論じ,〈フロンティアの消滅とともに,アメリカ史の第1期は終わった〉とその報告を結んだ。アメリカの限りなき発展を象徴するフロンティアが失われたことは,ヨーロッパと異なるアメリカ社会というイメージの基底が失われたことを意味する。…

【開拓】より

…アメリカの開拓は,単に農地を拡大し,農業生産を増大させたのみならず,開拓者精神を生み出した。歴史家F.J.ターナーは,西部開拓がアメリカの個人主義,経済的平等,立身出世の自由,民主主義を促進したと指摘している。このようなアメリカ開拓の精神と技術は,日本の北海道開拓にあたり,H.ケプロンやW.S.クラークによって伝えられたのである。…

【フロンティア】より

…さらに約300年にわたって北アメリカに存在し続けたフロンティアはアメリカの文明や社会に大きな影響を及ぼした。アメリカ史におけるフロンティアの存在の重要性を初めて総合的に主張した歴史家F.J.ターナーの〈フロンティア学説〉を参考にしてフロンティアの意義について見てみよう。フロンティアと密接な関係にあるのが未開拓の自由地(フリーランド)である。…

【イギリス美術】より

…しかし,いずれも独自の国民様式として定着するにはいたらず,時代による質的な差も目だつ。また少なくとも19世紀のJ.M.W.ターナー,J.コンスタブルの時代までは,ジャンルを問わず大陸諸国に与えた影響よりは受けた影響の方が大きかった。島国という地理的特殊性がイギリス美術にどれだけ作用しているかは微妙な問題であるが,様式の伝播という点からすれば,大陸諸国との間に時間的なずれがしばしば認められる(マネ,セザンヌ,ゴッホ,ゴーギャンなどの作品がイギリスで初めて本格的に紹介されたのが,ようやく1911‐12年の〈マネと後期印象派〉展によってであったというのは,その一例である)。…

【近代画家論】より

…一貫した体系を持つ学術論文ではないが,作者の美意識,とくに19世紀イギリス社会の芸術に対する無理解を断罪する社会改革的使命感がよく表れている。自然と人間との関係,ヨーロッパの風景画についての論考など,話題は広く多様だが,画家ターナーをいち早く賞賛している点などが注目に値する。【小池 滋】。…

【ティンターン・アベー】より

…時まさにイギリス・ロマン主義の時代である。1792年17歳の若き画家J.M.W.ターナーが,翌年,青年詩人ワーズワースがここを訪れる。ターナーはその後幾度か足を運び数多くのすぐれた作品を残し,ワーズワースは5年後の98年に妹とここを訪れ,〈人間性の奏でる静かな悲哀の音色〉を耳にして《ワイ川再訪に際しティンターン・アベーの数マイル上流にて詠めるうた》を書く。…

【奴隷廃止運動】より

奴隷奴隷貿易【猿谷 要】。。…

※「ターナー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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