陸軍大将。嘉永(かえい)2年11月11日、長州藩士族乃木希次(まれつぐ)の三男として江戸藩邸に生まれる。萩(はぎ)(山口県萩市)の明倫館(めいりんかん)に学び、報国隊に属し、戊辰戦争(ぼしんせんそう)では東北を転戦。維新後、フランス式軍事教育を受け、1871年(明治4)陸軍少佐となる。西南戦争では歩兵一四連隊長として出陣、植木の戦いで西郷軍に軍旗を奪われ、自決を決意したが思いとどまった。1886年11月ドイツ留学、翌1887年6月帰国し、近衛(このえ)歩兵第二旅団長などを経て一時休職となったが歩兵第一旅団長に復職。日清戦争には第二軍に属し、戦争末期には第二師団長となり、台湾に進駐し、1896年に第3代台湾総督となった。日露戦争には第三軍司令官となり、大将に昇進、旅順(りょじゅん)を苦戦のすえに攻略。凱旋(がいせん)後、軍事参議官、1907年(明治40)には学習院長を兼任、伯爵を授けられる。1912年9月13日、明治天皇の大喪儀(たいそうぎ)当日妻静子と自刃した。軍人としては戦略、機略に乏しかったが、古武士的精神主義者として、その後の日本軍隊に影響を与えた。
[由井正臣]
『横山健堂著『大将乃木』(1912・敬文館)』▽『松下芳男著『乃木希典』(1960・吉川弘文館)』
明治期の陸軍大将,伯爵 学習院院長。
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(影山好一郎)
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明治期の代表的陸軍軍人。海軍の東郷平八郎とともに〈聖将〉と呼ばれた。長州藩士の出身。吉田松陰に心服し,伯父玉木文之進の塾に学ぶ。藩の新軍に加わり第2次征長戦争に山県有朋の指揮下で戦い,1871年(明治4)新陸軍の少佐となり,西南戦争に歩兵第14連隊長心得として参加,軍旗を薩軍に奪われ一生の恥辱とした。86年ドイツに留学。日清戦争に山路元治第1師団長の下,歩兵第1旅団長として出征。同師団は旅順要塞を1日で攻略したが,占領時の大虐殺事件は国際的非難を浴びた。第2師団長として台湾征討,96年台湾総督となったが統治に失敗して98年辞職。1904年日露開戦後,休職中から起用されて大将・第3軍司令官となり,旅順攻撃を指揮,3回の総攻撃に失敗し,半年の攻囲戦と6万余の死傷者を出したのち攻略,自身も2児を戦死させた。戦後07年学習院長として皇長孫裕仁親王の教育に従事,信任が厚かった明治天皇大葬の12年9月13日夜,妻静子とともに自決した。若いころは遊蕩の限りを尽くしたが,ドイツから帰国後は謹厳質素な生活を送り,武士道の体現者として神格化された。
執筆者:大江 志乃夫
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1849.11.11~1912.9.13
明治期の陸軍軍人。萩藩士の子。1865年(慶応元)報国隊に参加し幕府軍と戦う。69年(明治2)伏見御親兵兵営に入営,翌年脱藩騒動鎮圧のため帰藩。西南戦争では軍旗を失う。86~88年川上操六とともにドイツ留学,帰国後軍紀確立を主張する報告書を提出。日清戦争では歩兵第1旅団長として旅順攻略。96年に台湾総督に就任。日露戦争では第3軍司令官として旅順攻撃を指揮,2子をはじめ多くの戦死者をだす。戦後学習院院長。明治天皇の大喪の日,妻静子とともに殉死。国民的英雄として多くの伝説をうみ,またその死は賛否両論をまきおこした。
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…5代将軍綱吉の代からは武家諸法度の本文に殉死禁止の条項が加えられた。 近代になって,長く絶えていた殉死が再現されて人々を驚かせたのは,1912年9月,明治天皇の大喪の日に陸軍大将乃木希典が,夫人とともに天皇の恩に対する感謝と謝罪の意を述べた遺書を残して自殺したことであった。この殉死は,一部の知識人からは時代錯誤として批判的に見られたが,一般には美談とされ,やがて政府により軍国主義の風潮を鼓吹するために利用されることともなった。…
…同藩士玉木正路の養子となり,30代の初めに松下村塾を開いて松陰や杉民治らを教育した。時期が異なるが乃木希典(まれすけ)を寄寓させたこともある。明倫館の都講や諸郡の代官,また郡奉行なども務めた。…
…8月末から9月初めの遼陽の戦は,日露両軍が総力を結集した戦闘となり,双方ともに2万名以上の損害を出すという激戦となり,ここでもロシア軍は後退したが,日本軍の被った打撃も深刻なものがあった。他方,乃木希典(まれすけ)を司令官とする第3軍の旅順攻略も8月下旬から開始され,3度の総攻撃を含む攻囲戦は日本軍が6万名近い死傷者を出して,05年1月ようやく開城させることができた。3月の奉天会戦も日露両軍ともに最大限の兵力を結集しての激闘となり,日本側にとってこれ以上戦争を継続することは,軍事力のうえでも,戦費負担の面でも限界をこえるものになっていた。…
…陸軍大将乃木希典(まれすけ)をまつる神社で,各地にある。乃木大将は,明治天皇大葬の1912年9月13日の夜,夫人静子とともに殉死した。…
…やや長編の作では,知識青年の個性形成史を追った《青年》(1910‐11),薄幸な女性のひそかな覚醒と失意のドラマを描いた《雁》(1911‐13)などがあり,後者は青春の追憶をこめたロマンティックな抒情がただよう。 大正期の鷗外は乃木希典の殉死に触発されて,歴史小説に新しい領域を開くことになった。《興津弥五右衛門の遺書》(初稿1912)は殉死者の遺書に擬して乃木への賛歌を語り,《阿部一族》(1913)は殉死の掟と人間性の相克を描いて,武士道を貫いた死者への感動を隠さない。…
…1904年日露戦争が勃発すると,日本はロシアの太平洋艦隊の基地である旅順をバルチック艦隊の来着に先立ち占領し,制海権を確保するため,乃木希典の第3軍(4個師団,後方部隊を含み約13万)をもってロシア軍司令官A.M.ステッセリの守る旅順要塞を陸路攻撃した。同年8月第1回の総攻撃は強襲により行われたが失敗し,10月の第2回総攻撃は正攻法によったが再び失敗,11月よりの第3回総攻撃の途中から二百三高地に重点を変更してこれを占領,ここに観測所を設けて28cm重砲により港内のロシア艦隊のほとんどを撃破するに及び,05年1月1日旅順は陥落し,講和の気運が生じてきた。…
※「乃木希典」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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