敗戦までの近代日本において欧化ないし欧化主義に対立して,国粋つまり日本国民固有の長所を維持・発揚するよう主張した思潮。日本主義ともいう。時期により変遷はあるが,血統的に一系の天皇をいただく日本の国家体制の〈優秀性と永久性〉を強調する国体論が,核心をなした点では変りがないといってよい。
〈国粋〉〈国粋主義〉という言葉は,1880年代後半に三宅雪嶺,志賀重昂ら政教社の雑誌《日本人》が,明治維新後の文明開化,直接的には条約改正と関連して政府が推進していた欧化主義に反対して,〈国粋保存主義〉を唱道したのに始まる。もっとも天皇崇拝や家族的・共同体的秩序の尊重といった国粋主義の要素はそれ以前から存在していたし,国体論もとくに明治14年の政変(1881)以後に天皇制国家を確立していく過程で,明治政府が意識的につくりあげていたものである。政教社によって国粋主義の語が打ち出され,かつそれが有力な思潮として普及したのは,維新後20年が経過して文明開化のゆれ戻しが始まったこと,彼ら自身が文明開化の洗礼を受け,近代ナショナリズムをいちおう踏まえていたことに原因がある。事実その〈国粋〉はナショナリティnationalityの訳語で,他国が模倣できぬ日本〈国民固有の元気〉を意味した。ただ,ここでも国粋が国体観念に収斂していく傾向がみられるけれども,その国粋主義は天賦人権論などを排撃する一方では,民衆の生活と利害を無視した政府による制度輸入型近代化をも鋭く批判しており,この観点から一定の意味の立憲化,つまり責任政府の実現にはむしろ積極的であった。日清戦争とともに国体論が社会に定着するだけでなく,軍事的膨張主義が民党にも浸透するようになると,三宅雪嶺らは西洋帝国主義の模倣としてこれに抵抗し,立憲的な側面をむしろ前面に押し出してくる。他方,この時期に〈日本主義〉を主張して大日本協会を結成した高山樗牛,木村鷹太郎らは,国体論を核心に据えると同時に,ドイツ流の国家主義を肯定しつつ,いっさいの自由主義的・民主主義的要素を排除しようとした。しかし皮肉なことにも,国体論の社会的定着という事実のために,それは一つの運動としては振るわなかった。
第1次大戦とともに民主主義の思潮が世界的に高まり,日本にも急激に波及すると,これに対立して〈大日本国粋会〉など国粋主義の集団が簇生する。しかも,この民主主義の風潮に沿って社会主義や労働運動・農民運動が急速に展開すること,日本が侵出していた中国や朝鮮でナショナリズムが高まること,さらに世界恐慌とともに世界的にブロック経済の動向が進行するのみならず,国内で深刻な農業恐慌が起こることなどを通して,体制の危機が深まると,国粋主義の運動も急激に高揚する。ここでは,日本資本主義の矛盾の顕在化に対応し,また社会主義的および民主主義的な改革論に対抗する必要からして,一方では農村的・共同体的秩序の〈自然〉性を強調する農本主義(これは政治的に実践化する場合には直接行動論となる),他方では対外侵出をめざした国家社会主義的な制度改造論が現れる。これらの動向はこの時期の国粋主義の運動をそれ以前から区別する特徴であるが,それはファッショ化と15年戦争への道を払い清めた。
国粋主義は国体論を基礎とし,一系の天皇と歴史的共同体としての国民を絶対化する。その場合,天皇は後者のいわば凝集核にほかならぬが,天皇との対比において国民にどの程度の価値をおくかをめぐって,近代性の程度が変わってくる。ところで,国体論は近代日本の国家体制の基礎をなすものだから,国粋主義はそれを一面的に強調することによって,国家体制の今ひとつの要素をなす欧化主義に対立したものといえよう。そうした国粋主義は急激な欧化=近代化に伴うさまざまな矛盾を背景とし,その矛盾を集中的にうける民衆と直接の接触をもついわゆる政治的中間層(軍人をも含めた下級の役人,小企業主や中小地主など)を主たる基盤として展開された。しかし,それは天皇への絶対的恭順を説くだけでなく,歴史的共同体としての国民の基本秩序は所与として存在すると考える傾向が強いため,みずから政治的・社会的改革の青写真を提示し,権力を獲得してそれを実現しようとする傾向がないか,または極めて弱かった。このため,その主たる活動は,反体制的な運動はもちろん,既存の国家機構ないし政治的・経済的支配層を,日本国民としてあるべき〈正道〉へ立ち返らせることに向けられていたといってよい。このことは必ずしもその選ぶ手段の過激さを否定することではない。いな,むしろそうであるがために,国粋主義は,〈正道〉から外れたと判断する者を〈反国体〉〈非国民〉として激しく排撃し,危機的な状況のもとではテロや武力行使をすら辞さなかった。
国粋主義は西洋文明に対して東洋文明を対置し,儒教など東洋文明の価値を強調する場合がある。しかし,これは天皇の名や元号が中国の古典から選ばれることに象徴されるように,儒教を中心とした中国文明のある要素が国家体制の構成要素となっているからであって,必ずしも東洋文明そのものの尊重ではない。他方,国粋主義は欧化主義に対立したが,たとえば科学技術や産業制度,ナショナリズムやドイツ流国家主義,帝国主義やナチズムといった点で,ほぼ例外なく西洋文明の影響をとり入れている。近代日本では,圧倒的に優勢な西洋列強に対抗して独立・発展を達成するために,西洋文明の導入がなされたが,欧化主義に反対した国粋主義もそれと完全に無縁ではなかったわけである。そして,この点は欧化主義もごく一部の例外を除いて国体論をうけ入れたのと対応する。なお,国粋主義は対外態度の面ではアジア主義の傾向を帯びる場合が多いが,対内論(文明論)と対外論(国際関係論)の次元は,いちおう区別して考えるほうがよいように思われる。
→欧化主義 →国体思想
執筆者:植手 通有
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広義には一国家ないし国民の人種(民族)的文化的特性を他国のそれと区別して強調する考え方をいい、それはまた、民族の歴史的栄光や伝統的価値の強調と結合して主張されることが多い。民族主義、国家主義、国民主義などと同じくナショナリズムnationalismないしナショナリティnationalityの訳語の一つとして理解されている。
近代日本における国粋主義の源流は、19世紀後半の幕末期に外圧に直面して台頭してきた尊王攘夷(じょうい)論や西洋文明の排除にみられる。こうした土着主義的な固有文化の価値の自覚は、やがて明治時代に入って、明治政府の推進する条約改正交渉や「鹿鳴館(ろくめいかん)」に象徴される皮相的な欧化政策への反発となって現れた。
すなわち、明治10年代後半から20年代にかけて結成された各種の国粋派グループや、思想集団政教社のメンバーたちによって唱導された「国粋保存旨義(しぎ)(主義)」運動がそれである。ところが明治中期の国粋主義は後年の排外的な国家主義(ナショナリズム)とは異なり、欧化それ自体に反対を示すものではなかった。志賀重昂(しがしげたか)のことばを用いれば、「徹頭徹尾日本固有の旧分子を保存し旧原素を維持せんと欲するものに非(あら)ず、只泰西(ただたいせい)の開化を輸入し来るも、日本国粋なる胃官を以(もっ)て之(これ)を咀嚼(そしゃく)し之を消化し、日本なる身体に同化せしめんとする者也(なり)」(「『日本人』が懐抱(かいほう)する処(ところ)の旨義を告白す」)という、わが国の文明を発達させるための主体的な西洋文明の選択的摂取にその特質があった。しかし、このようないわば開かれた視座をもつ健康なナショナリズムとしての国粋主義は長くは続かず、やがて、高山樗牛(ちょぎゅう)や木村鷹太郎(たかたろう)らによって提唱された日本主義、大正中期の右翼的な国家主義団体の叢生(そうせい)(猶存(ゆうぞん)社、行地(こうち)社、大日本国粋会など)そして昭和初期の満州事変から日中戦争にかけて、青年将校らと協働したファッショ的政治運動へと進展してゆく。とりわけ太平洋戦争の時期にかけては、国粋主義は偏狭な国家主義、排外主義のイデオロギー(皇国史観や日本精神論)として猛威を振るった。このような昭和初期の歴史的事情から、往々にして国粋主義即ファシズムないし超国家主義という一元的な理解がなされやすいが、それはかならずしも正しい把握の仕方とはいえないであろう。
[西田 毅]
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明治中期,憲法・民法や改正通商航海条約などが制定・実施される時期,伝統文化否定の西洋化政策を批判して,「国粋保存」すなわち西洋文化の批判的摂取を主張した思想運動で,1888年(明治21)創立の政教社に代表される。政教社の指導者三宅雪嶺(せつれい)・志賀重昂(しげたか)と,新聞「日本」の主宰者陸羯南(くがかつなん)が指導的理論家。雪嶺はのちの大正デモクラシー期に長谷川如是閑(にょぜかん)・丸山幹治・鳥居素川(そせん)らとともに指導者として活動するように,この時期の国粋主義は大正末~昭和期の排外的国家主義とは異なる。
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…明治初年の啓蒙思想と文明開化はその最初の高まりであるが,そこでは独立の危機が深刻に自覚されればされるほど,それだけ急激に欧化が推進された。1880年代半ばになると,この急激な欧化に対する反動として国粋主義が興隆し,天皇の神聖性や家族的・共同体的秩序など伝統の保守を強調するが,〈採長補短〉という言葉が示すように,それも西洋の〈長所〉の導入には必ずしも反対でなかった。それ以後,欧化主義と国粋主義とは対立しつつ併存し,それぞれのしかたで近代日本の国家体制を支える。…
… この困難を補う点で重要な役割を果たしたのが民族主義であり,民族国家,国民国家が歴史の流れとなるなかで国家主義は民族主義との融合をとげ,その理念を補完することになった。実際,日本では従来,国家と民族との重なりがほぼ自明視されてきたこともあって,国家主義,民族主義,国民主義,国粋主義といった言葉はほとんど同義に用いられている。したがってこれらの語は国家主義の第2の内容をなすといってよい。…
※「国粋主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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