山口県の萩藩に生まれた長州閥の軍人・政治家。陸軍大臣や初代朝鮮総督を歴任した。明治維新で名をなした「元勲」の1人。1910年に韓国併合を実施した。1916年に内閣総理大臣となり、シベリア出兵を断行。米騒動がきっかけで総辞職した。風貌が似ていることなどから「ビリケン宰相」の愛称で知られる。
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元帥・陸軍大将、政治家。嘉永(かえい)5年2月5日長州藩士宇多田正輔(しょうすけ)の三男に生まれ、のち母方の寺内家の養嗣子(ようしし)となる。幕末期、幼少にして御楯(みたて)隊に入り、第二次長幕戦争に参加、戊辰戦争(ぼしんせんそう)には箱館(はこだて)まで転戦。維新後山田顕義(やまだあきよし)の勧めでフランス式歩兵術を修め、新政府の軍人として累進。西南戦争では近衛連隊(このえれんたい)の中隊長として出陣、右手に傷を受けその自由を失う。1882年(明治15)フランス留学、各国軍事制度を視察して1886年帰国。その後士官学校長、日清(にっしん)戦争時には軍輸通信長官、戦後は教育総監、参謀次長を歴任、1902年(明治35)第一次桂太郎(かつらたろう)内閣の陸相となり、第一次西園寺公望(さいおんじきんもち)、第二次桂内閣に留任。1906年には陸軍大将、翌1907年子爵を授けられた。1910年には陸相のまま韓国統監を兼任、同年韓国併合を行って初代朝鮮総督となり、武断政治をもって朝鮮統治を行った。1911年伯爵に昇叙、1916年(大正5)第二次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣の後を受けて内閣総理大臣となり、超然内閣を組織したが、1918年米騒動によって内閣を総辞職。約1年後の大正8年11月3日病没。山県有朋(やまがたありとも)、桂太郎に次ぐ長州軍閥の巨頭として軍政に力を発揮したが、その性格はきちょうめんで、重箱の隅をつつくような細かいところがあり、官僚タイプの軍人であった。長男の寿一(ひさいち)も元帥・陸軍大将。
[由井正臣]
『黒田甲子郎編『元帥寺内伯爵伝』(1920・同伝記編纂所)』▽『山本四郎編『寺内正毅日記――1900~1918』(1980・京都女子大学)』▽『黒田甲子郎編『伝記叢書40 元帥寺内伯爵伝――伝記・寺内正毅』(1988・大空社)』▽『御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書9 寺内正毅』(2005・ゆまに書房)』
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
明治・大正期の陸軍大将・元帥,政治家,伯爵 首相;陸相;朝鮮総督。
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(戸部良一)
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元帥陸軍大将,政治家。長州藩士宇多正輔の三男に生まれ,のち母方の寺内家を継ぐ。寺内寿一は長男。維新期御楯隊に入り第2次幕長戦争に参加,のち整武隊として箱館戦争に出陣。維新後山田顕義の推挙でフランス式歩兵術を修め,1871年(明治4)少尉に任官。85年から87年までフランスに留学。その後士官学校長,教育総監,参謀本部長などを歴任。1902年第1次桂太郎内閣の陸軍大臣となり,第1次西園寺公望,第2次桂内閣に留任。この間日露戦争では大本営で兵站(へいたん)部門を担当し,06年には陸軍大将,翌年子爵を授けられた。10年陸相在任のまま韓国統監を兼任して朝鮮併合を推進し,初代朝鮮総督となる。武断政策をもって朝鮮統治にあたった。11年伯爵,16年には元帥の称号を与えられる。同年第2次大隈重信内閣のあと内閣総理大臣となり,官僚内閣を組織したが18年の米騒動によって総辞職した。山県有朋,桂太郎に次ぐ長州軍閥の巨頭とみられたが,性格はきちょうめんで官僚タイプの軍人政治家であった。
執筆者:由井 正臣
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1852.閏2.5~1919.11.3
明治・大正期の政治家・陸軍軍人。長門国生れ。整武隊に入り第2次長州戦争の防衛戦と戊辰(ぼしん)戦争に従軍,維新後陸軍に入る。西南戦争に出征,フランスに留学後,日清戦争では運輸通信をつかさどった。1902~11年(明治35~44)第1次桂・第1次西園寺・第2次桂の3内閣で陸相を務め,陸軍省の機能強化と軍事参議院の設置にあたる。06年大将,10年初代朝鮮総督,16年(大正5)元帥。桂太郎没後は山県有朋(やまがたありとも)の後継者と目され,16年内閣を組織。はじめ与党なしの超然内閣で発足したが,臨時外交調査委員会を設けて各党の支持取付けに努めた。ロシア革命に際してシベリア出兵を行ったが,米騒動がおこり,すでに健康を害していたため辞任した。伯爵。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…この提案をうけた日本側でも出兵論議が高まったが,日本政府の態度は連合国の出方を見守るという方針であった。革命直後から寺内正毅内閣は,ロシア革命の圧殺,東部シベリアへの日本の勢力拡大,中国本土への圧力強化を企図しており,とくに陸軍参謀本部では〈居留民の保護〉を名目に,沿海州から北満(中国東北)方面への日本軍派遣を計画していた。政府内の出兵賛成論者は元駐露大使の本野一郎外相で,これに反対したのは外交調査会のメンバーである原敬や牧野伸顕であり,ロシア革命の日本への影響を憂慮する寺内首相や元老山県有朋もアメリカの出方を重視し出兵には慎重であった。…
…この条約によって1392年から続いてきた朝鮮王朝(李朝)は滅亡した。植民地統治機関の朝鮮総督府が置かれ,寺内正毅が初代総督となった。併合前の愛国啓蒙運動や義兵闘争によって強められた朝鮮人の民族意識をおしつぶすために,寺内はきわめて暴力的な統治方式を採用した。…
…幸運をもたらすマスコットとされ,日本には10年に伝えられ,とくに花柳界で金運招福の縁起物とされた。16年に総理大臣となった寺内正毅がこれに似た頭や顔をしていたのでビリケン首相と呼ばれた。【斎藤 良輔】。…
※「寺内正毅」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
期日前投票制度は、2003年6月11日公布、同年12月1日施行の改正公職選挙法によって創設された。投票は原則として投票日に行われるものであるが、この制度によって、選挙の公示日(告示日)の翌日から投票日...
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