建礼門院(読み)ケンレイモンイン

デジタル大辞泉 「建礼門院」の意味・読み・例文・類語

けんれい‐もんいん〔‐モンヰン〕【建礼門院】

[1155~1214]高倉天皇中宮安徳天皇の母。平清盛の次女で、名は徳子。寿永4年(1185)壇ノ浦の戦いに敗れて安徳天皇とともに入水したが、助けられて京都にかえり、尼となって大原寂光院で余生を送った。
北条秀司による新歌舞伎。7幕10場。昭和44年(1969)4月、歌舞伎座にて初演。

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精選版 日本国語大辞典 「建礼門院」の意味・読み・例文・類語

けんれい‐もんいん‥モンヰン【建礼門院】

  1. 高倉天皇の中宮。安徳天皇の母。平清盛の次女。名は徳子。平家一門とともに西国に落ち、元暦二年(一一八五)安徳天皇に従って壇ノ浦で入水したが、救助される。のち出家して真如覚と号し、京都大原の寂光院に住んだ。久寿二~建保元年(一一五五‐一二一三

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朝日日本歴史人物事典 「建礼門院」の解説

建礼門院

没年:建保1.12.13(1214.1.25)
生年:久寿2(1155)
平安末期の女院。高倉天皇の中宮。安徳天皇の母。名は徳子。太政大臣平清盛と従二位平時子の娘。同母兄弟に宗盛,知盛,重衡らがいる。父の政治権力の拡大,後宮政策の一環として承安1(1171)年12月26日,後白河法皇猶子として高倉天皇の女御となる。翌年2月10日中宮。治承2(1178)年皇子(安徳天皇)誕生,4年皇子の即位により国母となる。翌養和1(1181)年1月14日高倉上皇崩御のとき,父清盛が徳子の後白河法皇入内を企むが,徳子の強い抗議にあって断念。11月25日院号宣下。寿永2(1183)年7月源義仲の入京,平家西走に安徳天皇を擁して従う。文治1(1185)年3月24日壇の浦での一門滅亡時に入水するが助けられて京都に戻り剃髪。法名真如覚。その秋に大原寂光院に移り,一門の菩提を祈る。翌年後白河法皇が女院を訪れるくだりは,説話集『閑居友』(1222)にも記事があるが『平家物語』「大原御幸」が有名で,女院は変転激しい人生を生きながら六道を経廻したと語る。が,近親相姦などを匂わせる『平家物語』の異本もあり,高貴な女性の栄光転落とともに,汚れた聖女の伝承もまつわる。鎌倉幕府は文治3年,平宗盛旧領の摂津国真井・嶋屋両庄を贈った。女院の没年は『平家物語』や諸記録に様々に記される。なかでも一方系『平家物語』では「灌頂巻」として女院の後半生をまとめ,女院の往生をもって全巻終焉として,一門鎮魂の意義をもたせている。『建礼門院右京大夫集』には女院の人生の栄華悲哀が惻々と描かれる。

(櫻井陽子)

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改訂新版 世界大百科事典 「建礼門院」の意味・わかりやすい解説

建礼門院 (けんれいもんいん)
生没年:1155-1213(久寿2-建保1)

生没年ともに異説がある。高倉天皇の中宮。名は徳子。平清盛の次女。母は平時子(二位尼)。1171年(承安1)従三位に叙され,後白河法皇の猶子として入内,女御宣下のうえ翌年中宮に冊立。78年(治承2)言仁親王(安徳天皇)を生み,81年(養和1)院号を与えられて建礼門院と称する。しかしこの間,諸国源氏の蜂起により内乱が勃発。83年(寿永2)平氏一門は安徳天皇と門院を奉じて西走。85年(文治1)長門壇ノ浦で一族滅亡のおり,天皇とともに入水したが,女院のみ救助されて帰京,吉田の律師実憲の坊に入り,同年5月落飾して法名を真如覚と称した。ついで吉田野津御所から大原寂光院に移り,終世仏に仕えた。後白河法皇が大原に女院を訪れたときの話は《平家物語》灌頂巻の名文で知られ,源頼朝も平宗盛の旧領摂津国真井・島屋両荘を彼女に贈って生活の資とした。没後は寂光院裏山の大原西陵に葬られた。
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百科事典マイペディア 「建礼門院」の意味・わかりやすい解説

建礼門院【けんれいもんいん】

高倉天皇の中宮(ちゅうぐう)。名は徳子(とくこ)。父は平清盛。母は時子(ときこ)。高倉天皇の中宮として1178年安徳天皇を産む。1183年平氏とともに西走,壇ノ浦の戦で入水したが,助けられて帰京。出家,大原の寂光(じゃっこう)院に閑居。
→関連項目建礼門院右京大夫集寂光院高倉天皇平家物語

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「建礼門院」の意味・わかりやすい解説

建礼門院
けんれいもんいん

[生]久寿2 (1155)/保元2 (1157). 京都
[没]建保1 (1213).12.13. 京都
高倉天皇の中宮。名は徳子。父は平清盛,母は平時信の娘時子。承安1(1171)年高倉天皇の女御として入内し,翌年中宮となった。治承2(1178)年言仁親王(→安徳天皇)を産み,養和1(1181)年門院宣下。元暦2(1185)年平氏が壇ノ浦の合戦に敗れると,安徳天皇とともに入水したが救助され,落飾して真如覚と号した。のち大原寂光院に閑居して仏に仕えた。陵墓は寂光院裏山の大原西陵。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「建礼門院」の解説

建礼門院
けんれいもんいん

1155~1213.12.13

高倉天皇の中宮。名は徳子(とくこ)。平清盛の次女。母は平時子。1171年(承安元)12月,後白河上皇の猶子(ゆうし)として入内。女御となり,翌年2月,中宮に立てられる。78年(治承2)安徳天皇を生み,81年(養和元)院号宣下。この間,源氏の蜂起による内乱が勃発。83年(寿永2)7月,平氏一門は安徳天皇と女院をともなって都を落ち,85年(文治元)3月,長門国壇ノ浦(山口県下関市)の戦で滅亡。女院は安徳天皇とともに入水したが,女院のみ救助されて京都に送還。同年5月出家し,大原の寂光院に移って余生を送った。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「建礼門院」の解説

建礼門院 けんれいもんいん

1155-1214* 平安後期-鎌倉時代,高倉天皇の中宮(ちゅうぐう)。
久寿2年生まれ。平清盛の次女。母は平時子。承安(じょうあん)元年(1171)女御,2年中宮となり,治承(じしょう)2年(1178)安徳天皇を生む。養和元年院号宣下。壇ノ浦の戦いで平氏が敗れたとき,安徳天皇とともに海に身を投じたが救助された。京都にもどり出家,大原寂光院にすむ。建保(けんぽ)元年12月13日死去。59歳。名は徳子。
【格言など】なべて世のはかなきことを悲しとはかかる夢見ぬ人やいひけむ

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旺文社日本史事典 三訂版 「建礼門院」の解説

建礼門院
けんれいもんいん

1155〜1213
平安末期,高倉天皇の中宮
平清盛の娘で名は徳子。安徳天皇の生母。1171年入内し,翌年高倉天皇の中宮となった。安徳天皇を生み,'81年院号宣下により建礼門院と称した。'85年平氏滅亡に際し,壇の浦で安徳天皇とともに入水したが,源氏の兵に救われ,出家して京都郊外大原の寂光院 (じやつこういん) に入り,余生を送った。『平家物語』の〈大原御幸〉で有名。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「建礼門院」の意味・わかりやすい解説

建礼門院
けんれいもんいん

平徳子

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世界大百科事典(旧版)内の建礼門院の言及

【寂光院】より

…寺伝では聖徳太子の創建という。平家滅亡後,建礼門院が当地に隠棲して一門の菩提を弔い,これを哀れんだ後白河法皇が臨幸した平家の哀話は,《平家物語》や能の《大原御幸(おはらごこう)》によって名高い。寺境は閑静で,境内にはいまも《平家物語》にちなむ種々の旧跡が残り,寺の背後に建礼門院陵(大原西陵)がある。…

【平清盛】より

…一門の人々は政界の有力者とそれぞれ婚姻関係を結んだが,とくに清盛の娘たちは,盛子(せいし)が関白藤原基実(もとざね)の室となり,基実が1166年に24歳で他界したときには,その遺領を室盛子に継がせ,清盛は盛子の後見として実質的に摂関家領を押領してしまった。盛子の妹寛子は基実の子基通(もとみち)の室となったほか,徳子(建礼門院)は高倉天皇の中宮となって安徳天皇を生んでいる。安徳天皇の即位(1180)により,清盛は天皇の外祖父の地位を得ることとなる。…

※「建礼門院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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