新聞に連載される小説をいう。
[高橋春雄 2019年2月18日]
明治初年に新聞が創刊されるとまもなく紙面に取り入れられ、「新聞小説」ということばも、すでに1890年(明治23)ごろには成立している。内容は小説一般と変わりないが、しいて目だった傾向をあげるなら、商業主義とのかかわりが強く、多数の読者を対象とするために通俗的な作品が多いこと、毎日の興味をつなぐために1回ごとに特別のくふうが払われること、時事性に富むこと、などを指摘できる。しかし一方では、近代文学史の展開との関係も深く、また普通、挿絵が添えられて、それ自体も一つの歴史をもっている。
[高橋春雄 2019年2月18日]
明治初年来の、政論を中心とした知識人相手のいわゆる「大新聞(おおしんぶん)」に対し、1874年(明治7)ごろから『読売新聞』『平仮名絵入新聞』『仮名読新聞』など、庶民を対象とした「小新聞(こしんぶん)」の創刊が相次いだ。それら小新聞の社主、主筆、記者の多くは江戸戯作(げさく)者の出身で、社会記事は読者層の要請から平易な文章の実話風読み物に改められ、とくに大衆の興味をひきそうな事件は「続き物」として連載された。これがやがて、フィクションを加えて小説風に膨らみ新聞小説を生んだ。無署名の『岩田八十八(やそはち)の話』(1875)や、久保田彦作(ひこさく)(1846―1898)の『鳥追お松の伝』(1877~1878)などが、その原型とされる。
[高橋春雄 2019年2月18日]
1880年代になると、自由民権運動の高揚を背景に、自由党系の『自由新聞』『絵入自由新聞』、改進党系の『改進新聞』『郵便報知新聞』などをはじめとする政党新聞は、民権思想宣伝のために競って政治小説を掲げ、桜田百衛(ももえ)(1859―1883)の『西の洋(うみ)血潮の暴風(あらし)』(1882、単行本は『西洋血潮小暴風(にしのうみちしおのさあらし)』)、宮崎夢柳(むりゅう)(1855―1889)の『自由の凱歌(かちどき)』(1882~1883)、須藤南翠(すどうなんすい)の『雨窓漫筆緑簑談(りょくさだん)』(1886)などが好評を博し、大新聞も小説連載に踏み切って、本格的な新聞小説時代を迎えることになる。山田美妙(びみょう)は『武蔵野(むさしの)』(1887)で新聞小説の口語化に道を開いたが、1890年代に入ると『読売新聞』での坪内逍遙(しょうよう)、尾崎紅葉(こうよう)、『国会』での幸田露伴(こうだろはん)の活躍が目覚ましく、紅葉の『多情多恨』(1896)、『金色夜叉(こんじきやしゃ)』(1897~1902)、露伴の『五重塔(ごじゅうのとう)』(1891~1892)などが紙面を飾った。また、『萬朝報(よろずちょうほう)』の黒岩涙香(るいこう)は『正史実歴鉄仮面(てっかめん)』(1893)などの探偵小説で新生面を開き、広津柳浪(ひろつりゅうろう)の『変目伝(へめでん)』(1895)や徳冨蘆花(とくとみろか)の『不如帰(ほととぎす)』(1898~1899)などは、それぞれ深刻小説や家庭小説として、当時の文学史の流れを反映した。こうして1910年前後の明治末年には、夏目漱石(そうせき)の『虞美人草(ぐびじんそう)』(1907)以下の諸作をはじめ、泉鏡花(きょうか)の『婦系図(おんなけいず)』(1907)、島崎藤村(とうそん)の『春』(1908)、『家』(1910~1911)、田山花袋(かたい)の『生』(1908)、徳田秋声(しゅうせい)の『新世帯(あらじょたい)』(1908)、『足迹(あしあと)』(1910)、永井荷風(かふう)の『冷笑』(1909~1910)、森田草平の『煤煙(ばいえん)』(1909)、長塚節(たかし)の『土』(1910)等々、近代文学史上に特記される名作が相次いで、新聞小説の全盛期を迎えた。
[高橋春雄 2019年2月18日]
大正期にも、なお徳田秋声の『爛(ただれ)』(1913)や『あらくれ』(1915)、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)の『地獄変』(1918)、島崎藤村の『新生』(1918~1919)などのほか、夏目漱石を擁した東京・大阪『朝日新聞』に対抗する形で、『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』を舞台に、森鴎外(おうがい)が『渋江抽斎(ちゅうさい)』(1916)以下の史伝ものを連載して気炎を吐いた。しかし一方では中里介山(かいざん)の『大菩薩峠(だいぼさつとうげ)』(1913~1914、『都新聞』、のち1925~1935、数紙に断続発表し、1944年介山の死により未完)の連載が始まり、また第一次世界大戦を契機にした新聞ジャーナリズムの急激な発展を背景に、久米(くめ)正雄の『蛍草(ほたるぐさ)』(1918)や菊池寛の『真珠(しんじゅ)夫人』(1920)が、従来の家庭小説を更新して成功し、ついで吉屋信子(のぶこ)が新聞懸賞小説『地の果(はて)まで』(1920)で華々しくデビューするなどして、通俗小説が新聞小説の主潮となるに至った。
昭和に入ると、大仏(おさらぎ)次郎の『赤穂浪士(あこうろうし)』(1927~1928)、山本有三(ゆうぞう)の『波』(1928)、直木三十五(さんじゅうご)の『南国太平記』(1930~1931)などが広く読者に浸透したが、なお谷崎潤一郎(じゅんいちろう)の『蓼喰(たでく)ふ虫』(1928~1929)、川端康成(かわばたやすなり)の『浅草紅団(くれないだん)』(1929~1930)、横光利一の『寝園(しんえん)』(1930)、武田麟太郎(りんたろう)の『銀座八丁』(1934)なども記憶される。第二次世界大戦後、1940年代後半から1950年代にかけては、太宰治(だざいおさむ)の『パンドラの匣(はこ)』(1945)、織田(おだ)作之助の『土曜夫人』(1946)、石坂洋次郎の『青い山脈』(1947)、大仏次郎の『帰郷』(1948)、石川達三(たつぞう)の『風にそよぐ葦(あし)』(1949~1951)、谷崎潤一郎の『少将滋幹(しげもと)の母』(1949~1950)、佐藤春夫の『晶子曼陀羅(あきこまんだら)』(1954)、山本周五郎の『樅(もみ)ノ木は残った』(1954~1958)、井上靖(やすし)の『氷壁』(1956~1957)などが、新聞小説に活気を与えた。しかし、1960年代なかばからはしだいにテレビに圧倒される傾向が強まってくる。そういうなかで1000万円懸賞小説に当選した三浦綾子(あやこ)の『氷点』(1964~1965)なども話題をよんだが、松本清張の『砂の器(うつわ)』(1960~1961)、水上勉(みずかみつとむ)の『湖笛(こてき)』(1963~1964)、司馬遼太郎(しばりょうたろう)の『坂の上の雲』(1968~1972)などが、収穫といえるだろう。その後も、有吉佐和子、遠藤周作、井上ひさし、曽野綾子、田辺聖子、渡辺淳一、高樹(たかぎ)のぶ子(1946― )、宮尾登美子、椎名誠、乃南(のなみ)アサ(1960― )、宮部みゆき、奥泉光、真保裕一、島田雅彦等、その時代を代表する作家が登場している。筒井康隆(やすたか)の『朝のガスパール』(1991~1992)は、パソコン通信等によって読者の意見が物語にフィードバックされるという実験小説的な新聞小説であった。1995年(平成7)には渡辺淳一の『失楽園』(~1996)が中年男性の話題をさらった。この年には久世光彦(くぜてるひこ)の『卑弥呼』(~1997)も連載された。ほかにも、宮部みゆきの直木賞受賞作『理由』(1996~1997)、1990年の芥川賞作家辻原登(1945― )の『翔(と)べ麒麟(きりん)』(1997~1998)、三田誠広(まさひろ)(1948― )初めての新聞小説『恋する家族』(1997~1998)、重松清(しげまつきよし)(1963― )の山本周五郎賞受賞作『エイジ』(1998。単行本化にあたりイラストの全部を収録した新聞連載版も刊行)、高橋昌男(1935―2019)『饗宴(きょうえん)』(1998~1999)、児童文学作家今江祥智(よしとも)の新聞小説『袂(たもと)のなかで』(2000)、高橋源一郎『官能小説家』(2000~2001)などがある。
[高橋春雄]
フランスにおける最初の日刊新聞は1777年発刊の『パリ新聞』Journal de Parisであるが、19世紀に入ると、パリの人々は新聞を読むことを重要な日課とするようになってきた。そのため、日刊新聞は急速に発達し、新聞事業は商業ベースにのるようになり、事業主は発行部数を伸ばすことに努力するようになった。発行部数を伸ばすための目玉商品は最初は文学・演劇の批評欄で、その代表が『デバ』紙Journal des Débats連載のサント・ブーブの『月曜閑談』(1849~1861)であった。
しかし、1836年に創刊された『ラ・プレス』紙La Presseの主幹エミール・ド・ジラルダンは、部数を急速に伸ばすために、親友のバルザックに連載小説の執筆を依頼。バルザックは山師ビドックFrançois Vidocq(1775―1857)の『回想録』を小説に仕立てることを計画したが、結局、『老嬢』(1836)以下1ダースほどの小説を連載した。この作品が新聞小説feuilletonの第一号と考えられる。こうして、最初のうちはゴーチエの『ミイラ物語』(1858)、サンドの『ラ・プチット・ファデット(愛の妖精(ようせい))』(1849)など比較的高級な内容のものが連載された。ところが、1842年『デバ』紙に連載されたウジェーヌ・シューの『パリの秘密』(1842~1843)は、前科者、脱獄犯、インチキ医者、泥棒、その情婦たちがパリを舞台に織り成す波瀾(はらん)万丈の物語で、読者をはらはらさせ、大当りをとった。以後、この種の大衆的大河小説が連載小説の特質となり、「新聞小説」と銘打たれるようになった。シューの原稿料は、2万6500フランから10万フランに跳ね上がったという。この大成功により、各新聞はこぞってこのような作品を連載し始め、新聞小説の黄金時代を迎えた。シューの第一の後継者はA・デュマ(父)で、『モンテ・クリスト伯』(1844~1845)、『三銃士』(1844)、『ジョセフ・バルサモ』(1846~1848)、『パリのモヒカン族』(1854~1855)などの歴史小説、復讐(ふくしゅう)小説、悪漢小説などで新聞小説の特色を定着させ、ユゴー、ラマルチーヌらも、シューの作風をまねるようになった。シューやデュマに続いて新聞小説の読者を熱狂させたのは、ポンソン・デュ・テラーユPonson du Terrail(1829―1871)の義賊小説『ロカンボール』(1859)、エミール・ガボリオの「ルコック探偵シリーズ」、ポール・フェバルPaul Féval(1816―1887)の民衆復讐小説『ロンドンの秘密』(1843~1844)などである。
なお、日本とフランス以外では新聞小説という形式はほとんどみられない。
[榊原晃三]
『高木健夫著『新聞小説史』明治篇、大正篇、昭和篇Ⅲ(1974、1976、1981・国書刊行会)』▽『長谷川泉・武田勝彦編『現代新聞小説事典』(1977・至文堂)』▽『高木健夫編『新聞小説史年表』新装版(1996・国書刊行会)』▽『本田康雄著『新聞小説の誕生』(1998・平凡社)』▽『山下浩編『漱石新聞小説復刻全集』全11巻(1999・ゆまに書房)』▽『「特集・新聞小説家としての漱石」(『小説TRIPPER――週刊朝日別冊4315号』所収・1999・朝日新聞社)』▽『鶴見俊輔著『限界芸術論』(ちくま学芸文庫)』▽『小野俊太郎著『日経小説でよむ戦後日本』(ちくま新書)』
新聞に連載される小説。
通常,挿絵入りで,1回1200字から1600字ぐらい,連載期間は100回から300回ぐらいである。内容は多数の読者が予想されるので,一般的,大衆的な作品が多い。したがって普通の小説と特に異なるところは少ないが,毎回見せ場を作りながら全体としてのまとまりを持たせるために,独特の工夫が必要といわれる。おもしろい筋立て,軽快なテンポ,巧みな場面転換,登場人物の出し入れ,洒脱な会話などに特徴がある。また新聞の性格と関連して,季節感や時事性も重視されていた。たとえば尾崎紅葉の《金色夜叉(こんじきやしや)》(1897-1902)の有名な歌留多取りの場面は松の内に読まれるように工夫されており,夏目漱石の《虞美人草(ぐびじんそう)》(1907)では,連載直前まで開催されていた上野の勧業博覧会がストーリーの展開のかなめになっている。これらは新聞小説のアクチュアリティとしてきわめて効果的であった。
新聞小説の始まりは,明治10年(1877)前後の小新聞(こしんぶん)(大新聞(おおしんぶん)・小新聞)の雑報続き物である。これはニュースを脚色して連載したもので,今日のニュース・ストーリーにあたる。やがてこれらの中から,小説の構成を持った久保田彦作《鳥追お松の伝》(1877-78)などが生まれてくる。明治10年代後半になると,自由民権運動の高まりを背景に,桜田百衛(ももえ)(百華園)の《西の洋(うみ)血潮の小暴風(さあらし)》(1882)などのような翻訳政治小説も登場してくる。明治20年代に入ると,《読売新聞》が坪内逍遥,尾崎紅葉,《国会》が幸田露伴をそれぞれ擁して,自社の小説・学芸欄の充実を売り物にするようになってくる。こうして明治末期に至り新聞小説の黄金時代を迎える。漱石の《虞美人草》以後の小説,二葉亭四迷《平凡》(1907),泉鏡花《婦系図(おんなけいず)》(1907),島崎藤村《春》(1908),《家》(1910-11),田山花袋《生》(1908),徳田秋声《新世帯(あらじよたい)》(1908),永井荷風《冷笑》(1909-10),長塚節《土》(1910)など,芸術性の高い新聞小説の時代が訪れる。しかし第1次世界大戦をさかいに,有力紙は明治末の40万部前後から一挙に2倍以上の発行部数となる。そこへ久米正雄《蛍草》(1918),菊池寛《真珠夫人》(1920)などが現れ成功を収めると,通俗小説が主流を占めるようになり,吉屋信子のように懸賞新聞小説出身の作家も現れた。また,すでに新聞の出発から挿絵が大きな比重を占めていたが,大正末以降,多くの洋画家,日本画家が挿絵を手がけ,新聞挿絵がイラストレーションの一ジャンルとして確立するとともに,挿絵によって小説の人気が高まる現象も現れた。通俗小説や時代小説の氾濫する昭和戦前の新聞小説の中では,山本有三,岸田国士,横光利一らの作品が目立った。第2次世界大戦後の昭和20年代は第2次黄金時代であった。織田作之助《土曜夫人》(1946),石坂洋次郎《青い山脈》(1947),石川達三《望みなきに非ず》(1947),谷崎潤一郎《少将滋幹の母》(1949-50),川端康成《舞姫》(1950-51),山本周五郎《樅(もみ)ノ木は残った》(1954-55),佐藤春夫《晶子曼陀羅(あきこまんだら)》(1954)などの話題作が次々と発表された。1960年代半ば以後,テレビや週刊誌に押されて新聞小説の閲読率は低下しているが,松本清張,遠藤周作,水上勉,司馬遼太郎といった作家の活躍が目立つ。
執筆者:浅井 清
新聞に小説を連載する試みは,産業革命に伴う近代ジャーナリズムの勃興に促されて生まれた。イギリスの小説家デフォーの《ロビンソン・クルーソー》(《ロンドン・ポスト》1719-20)が最初といわれるが,ヨーロッパで爆発的に流行するのは19世紀以後のことである。輪転機による新聞の安価な量産,教育の普及がもたらした読者層の拡大などがその要因で,イギリスではサッカレーが《コーンヒル・マガジン》を刊行,トロロープやジョージ・エリオットの小説を掲載して評判をよんだ。新聞小説がもっとも人気を博したのはフランスで,《プレス》《シエークル》の2紙を草分けとして,はじめは埋め草用だった短編分載がやがて本格的な長編連載へと発展する。バルザック(《老嬢》),デュマ(《三銃士》)ら大作家と並んで,やがてポンソン・デュ・テライユPonson du Terrail(1829-71)のような新聞小説専門の文学者が登場し,小説ひいては文学の大衆化に貢献した。19世紀末になると質が低下して,ハッピー・エンドで締めくくる感傷的な恋愛ものが増え,低俗文学の代名詞と化した。とはいえ,厖大な読者大衆を対象とした創作が文学をより親しみやすいものにした功績は大きい。また読者の期待を次回までつなぎとめるサスペンスの技法にも工夫が凝らされ,それが探偵小説隆盛のきっかけを作り出した。フランスではガボリオGaboriau(1832-73)を始祖として,ガストン・ルルーの《シェリ・ビビ》をはじめ,《ルパン》《ファントマ》など探偵小説の傑作はすべて新聞連載である。現在,新聞小説の形式は,シリーズ物の映画,テレビの連続ドラマといった形で広くマス・メディアに利用されているが,新聞小説そのものは,アメリカに見られるように,よりなじみやすい連載漫画,連載劇画にとってかわられつつある。
執筆者:鷲見 洋一
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(井上健 東京大学大学院総合文化研究科教授 / 2007年)
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…また若い画学生の渡辺(宮崎)与平(1889‐1912)と竹久夢二が雁行してコマ絵を描き,甘美な抒情性で人気を集めた。 新聞小説における挿絵は,大正中期までは必ずしも同伴するものではなく,新時代が画されたのは関東大震災前後である。従来の木板版下絵から写真製版への変換がなされ,新聞のみならず,大衆雑誌,少年少女雑誌が多種多様に創刊されることによって,浮世絵系の挿絵が衰退し,日本画家,洋画家がともに続々と登場した。…
…サスペンス的な手法とあいまって,それが当時の大衆から圧倒的人気を得たゆえんであろうが,今日,文学的には必ずしも高い評価を与えられていない。しかし,デュマ(父)とともに新聞小説の開祖として大衆文学の誕生をもたらしたといえる。【高山 鉄男】。…
…36年には政治新聞《プレス》紙を刊行したが,同紙の購読料を大新聞の半額にし,その欠損を広告収入で埋めるという,当時としては画期的な経営方針をとった。また新聞小説を掲載して読者層を大幅に拡大した。他の大新聞もこれにならい,ここに新聞小説の流行が始まった。…
※「新聞小説」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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