デジタル大辞泉
「本地垂迹説」の意味・読み・例文・類語
ほんじすいじゃく‐せつ〔ホンヂスイジヤク‐〕【本地垂×迹説】
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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ほんじすいじゃく‐せつホンヂスイジャク‥【本地垂迹説】
- 〘 名詞 〙 神は仏が世の人を救うために姿を変えてこの世に現われたとする神仏同体の説。法華経の本門・迹門の理解に負うもので、すでに九世紀ごろから神仏習合説が行なわれ、平安末期から鎌倉時代にかけて、すべての神社の本地仏が定められるほど盛んとなり、明治の神仏分離まで続いた。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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本地垂迹説
ほんじすいじゃくせつ
神仏習合に関する説。本来は仏教教学上の術語,『法華経』の本迹二門の説などに基づく。『法華経』の構成を本地,垂迹の二門より成るとし前の十四品を迹門の法華,あとの十四品を本門の法華とし説法の主体である仏身そのものに歴史上の人格としての釈迦と,久遠実成の法身の区別をみようとした。この説は早くインドで仏教がインドの諸神を摂取するのに用いられ,中国で道教と接したときにもその例にならったといわれる。日本においても,神仏提携はすでに奈良時代に現れていたが,平安時代に入って,菩薩や仏陀がかりに神の姿をとって垂迹するという本地垂迹説が生れ,神は権現 (ごんげん。すなわち「かりのあらわれ」) と呼ばれるようになった。天台宗から山王一実神道,真言宗から両部神道が生れた。鎌倉時代になると逆に神祇を本位とし,仏陀を従属的地位におく反本地垂迹説が現れ,室町時代に入って,吉田神道,伊勢神道などは,如来は天皇の垂迹である,あるいは仏教は花実,儒教は枝葉,神道が根本であるとする根葉花実論を発展させた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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本地垂迹説
ほんじすいじゃくせつ
本体である仏・菩薩が衆生救済のため,仮に神の姿をとってこの世に現れるという教説。淵源は仏教の仏身論で垂迹は神に限らないが,日本では仏教伝来当初から神仏関係が問題とされた結果,神を護法神と位置づけ,または仏によって救済されるべき存在とする段階をへて形成された。一般的思想としては「三代実録」貞観元年(859)8月28日条の恵亮(えりょう)の表などが初見。平安中期からは八幡宮の本地は阿弥陀仏(釈迦仏とも),伊勢神宮の本地は大日如来といった個別諸社について本地仏を特定するようになり,平野・春日・日吉・北野・熊野・祇園など主要神社であいついで本地の仏・菩薩が定められ,それらを祭る本地堂が建立された。中世に入るとこの関係を絵画化した神道曼荼羅(まんだら)も現れたが,一方で天台本覚思想の影響で神仏ともに本地とする説もうまれ,鎌倉中期には神仏関係を逆転させた伊勢外宮神官度会(わたらい)氏の反本地垂迹説も登場した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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本地垂迹説
ほんじすいじゃくせつ
本地である仏が衆生救済のため,仮に日本の神となって現れたと説く神仏習合思想
奈良時代に成立し,平安時代に発展し,両部神道・山王一実神道となった。この思想により,僧形八幡像・神宮寺などがつくられた。鎌倉時代には,神を本地とする反本地垂迹説も現れたが,明治初期の神仏分離令まで存続した。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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