日親は永享一一年将軍足利義教への諫暁を行い、「立正治国論」を撰した。しかし翌一二年二月義教の怒りにふれ投獄された(日親上人徳行記)。日親は不受不施・専持法華・雑乱信仰淘汰を主張し、折伏伝道を強力に推進して信者層を拡大したが、将軍義教への諫暁は京での最初の権力に対する伝道であった。
新潟県三条市
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市上京区にある日蓮宗の寺。叡昌山と号する。〈なべかむり〉の法難で有名な日親が,康正年中(1455-57)に開創した寺で,もとは四条綾小路にあった。日親はこの寺を伝道活動の本拠とし,さらには諸地方に散在する一門の寺々の本山として位置づけた。1484年(文明16)には日親みずから〈本法寺法式〉を定め,87年には本法寺縁起を著してみずからの事跡を記し,伽藍の大改築を発願している。この後,京都をはじめとする日蓮宗の隆盛とともに発展し,京都二十一ヵ本山の一つとして重要な役割を果たす。16世紀の法華一揆が盛んなときには,本法寺の大檀那本阿弥家が法華の大将として活躍したが,天文法華の乱に敗退して堺に移り,間もなく一条堀川に再興され,1590年(天正18)豊臣秀吉の洛中整理策により現在地に移転。本阿弥家はこの後も本法寺と深いつながりをもち,江戸時代の初期に本阿弥光悦が出るにおよんで,一門をはじめ多くの芸術家が信者となった。
長谷川等伯の作をはじめとする近世初頭のすぐれた美術品が当寺に数多く伝わるのはこのためである。
執筆者:中尾 尭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
京都市上京(かみぎょう)区本法寺前町にある日蓮(にちれん)宗の本山。1436年(永享8)日親の創立で、初め東洞院綾小路(ひがしのとういんあやこうじ)にあったが、足利義満(あしかがよしみつ)の忌諱(きき)に触れて日親は投獄され、寺は破却された。その評判が後花園(ごはなぞの)天皇の耳に達し、1455年(康正1)四条高倉に官地を賜って再建したが、5年後東福寺の訴えによってふたたび破却され、三条万里(までの)小路に移建した。1587年(天正15)第10世日通のとき豊臣(とよとみ)秀吉の区画整理により現在の地に移転した。その後、紀伊(きい)徳川家の代々の保護を受け、また本阿弥(ほんあみ)家も菩提(ぼだい)所として外護(げご)した。本堂正面の扁額(へんがく)「本法寺」は光悦(こうえつ)の揮毫(きごう)、巴(ともえ)の庭は光悦の造園である。近世初頭の優れた美術品を数多く蔵する。
[浅井円道]
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