海道下り(読み)カイドウクダリ

デジタル大辞泉 「海道下り」の意味・読み・例文・類語

かいどう‐くだり〔カイダウ‐〕【海道下り】

昔、京都から東海道を通って東国に旅をしたこと。あずまくだり。
中世歌謡の一群。叙情的な歌の中に、東海道を京都から東国へ下る道中地名景物を詠み込んだもの。閑吟集などに所収。
狂言小舞2の一つを地としたもの。本狂言では「越後聟えちごむこ」「蜘盗人くもぬすびと」などで舞われる。のち、歌舞伎にも入った。
歌舞伎舞踊3を取り入れたもの。江戸市村座家狂言で、承応元年(1652)初演

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改訂新版 世界大百科事典 「海道下り」の意味・わかりやすい解説

海道下り (かいどうくだり)

東海道を京から東国へ向かってくだる情景を描写した文芸,または芸能。形式は道行文に発しているが,鎌倉に幕府がおかれ,東海道が交通の第1の要路となった時代から,文芸の上に多く見られるようになる。《海道記》《東関紀行》《義経記》などの海道下りが残るが,ことに《平家物語》およびその影響下に作られた《太平記》巻二〈俊基朝臣関東下向事〉などがよく知られている。一方歌謡には,鎌倉中期以降に流行した宴曲(えんきよく)を集めた《宴曲集》(1296成立)に載る〈海道〉上中下,室町時代の流行歌集《閑吟集(かんぎんしゆう)》(1518成立)の〈面白の海道下りや〉で始まる放下(ほうか)歌などが残っている。この放下歌の系統が,のちの芸能の中に伝承されているのであるが,中世の回国の芸能者である放下師(放下)を通してひろく諸国に伝わったのであろう。曲舞(くせまい)に《東国下》があり,能狂言でも《蜘(くも)盗人》の小歌に用いられている。さらにこれが狂言の小舞謡(こまいうたい)として用いられ,ここから歌舞伎に採り入れられる。女方の祖とも称される右近(うこん)源左衛門がこの曲を得意とし,1648年(慶安1)ころ江戸村山座に下ってこの舞で評判をとったと伝えられる。のち,村山座の後身である市村座の寿狂言(家狂言)として《海道下り》が定められるが,右近源左衛門が村山座に下ったゆかりによるのであろう。狂言仕立のこの台本では,伯母役として海道下りを舞うので,源左衛門が万治・寛文(1658-73)に江戸にあったころに作られたものであろう。
執筆者:

平曲の《海道下》は平物(ひらもの),フシ物。一ノ谷の戦で生け捕られた平重衡(しげひら)は,東海道を鎌倉へ護送されることになった。四宮河原(しのみやがわら)を通るときは,延喜の帝の第4皇子蟬丸の昔がしのばれた。蟬丸がここに住んで琵琶を弾いていたのを,博雅三位(はくがのさんみ)が毎日立ち聞きして秘曲を伝承したという言い伝えのある地なのである(〈中音・初重〉)。逢坂山,勢多の唐橋,野路(のじ)の里,鏡山,伊吹が岳,不破の関,鳴海潟(なるみがた),三河の八橋(やつはし),浜名の橋と過ぎて,池田の宿に着いた(〈三重・初重〉)。ここでは長(ちよう)の熊野(ゆや)の娘侍従の家に宿泊したが,この侍従は,もと都で平宗盛に愛された女で,老母の病気に帰国を願ったが許されなかったため,和歌を詠じて宗盛から許しを得たという女だった。重衡は,春も暮れ近い道中の風物を見るにつけても,身の宿業の悲しさに涙が絶えない日々だった(〈中音・初重〉)。道はやがて,小夜(さよ)の中山,宇津の山,蔦(つた)の細道と移り,手越(てごし)の里を通るころには甲斐の白根山が遠望された(〈中音・初重〉)。こうして清見が関,富士の裾野,足柄山,大磯などを過ぎ,鎌倉に入ったのである(〈三重〉等)。

 道行の曲なので,初重,中音,三重などのゆるやかで旋律的な曲節が大半を占め,逆にフシのないシラ(素)声の部分がまったくない。能《盛久》,曲舞《東国下》,狂言の小舞謡《海道下り》などに影響を与え,また能《蟬丸》《熊野(ゆや)》の原拠ともなっている。
道行
執筆者:

狂言の小舞および小舞謡の《海道下り》は京都から不破の関までの道行を謡いこんだもの。本狂言では《越後聟》の勾当や《蜘盗人》のシテ盗人などが舞う。詞章は《閑吟集》にも放下歌として収録されている。
執筆者:

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「海道下り」の解説

海道下り
かいどうくだり

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
初演
慶安1(江戸)

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