福浦(読み)ふくうら

日本歴史地名大系 「福浦」の解説

福浦
ふくうら

[現在地名]美保関町福浦

美保湾に面し、東は長浜ながはま山により三保関みほのせき、西は中船なかふね(高尾山)により森山もりやま村、北は玉井たまい(馬見山)小浜おはま(兜山)神高かむたか(高尾山)を境として雲津くもづ浦・諸喰もろくい浦に接する。東西に通称美保関往還が通り、途中、諸喰浦へ至る字小福浦こふくうらからの法田ほうだ越、字半手はんでからの諸喰道がある。当浦は大福浦おおふくうら輪・小福浦輪・元福浦もとふくうら輪・宮谷みやたに輪の四つの輪に分れ(文久二年「島根郡村浦有高輪切帳」広島大学附属図書館蔵)、いずれも浦西方に位置する。「出雲国風土記」所載の島根郡塩道しおじ浜は当地に比定される。藤原宮跡出土木簡に「出雲国島根郡副良里伊加大贄廿斤」とあるが、「副良里」が福浦にあたるかどうかは未詳(美保関町誌)

福浦
ふくうら

[現在地名]下関市彦島福浦町一―三丁目

ひこ島南西の入海にある小港。近世ひく(彦島)七浦の一。

今川了俊の「道ゆきぶり」に「ふくらの島よりつかひきたり」とある「ふくら」の地とされる。江戸時代には北前船の風待ち・潮待ちのための港となり、彦島西端の南風泊はえどまりとともに賑った。

福浦の西北の眺めのよい高台に金毘羅こんぴら宮がある。嘉永二年(一八四九)には吉田松陰が視察して「廻浦紀略」に「金毘羅祠ニ登リ、灯籠堂ノ側ノ台場ヲ検ス、台場未タ築カズ」とあるが、その後、台場は宮の下みやのしたに築かれ、元治元年(一八六四)四月、三条実美ら五卿が台場を巡覧、白石正一郎日記に「福浦へ御出農兵の小銃御覧金毘羅下台ばニて炮発」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「福浦」の意味・わかりやすい解説

福浦
ふくら

石川県羽咋(はくい)郡志賀町(しかまち)富来(とぎ)の一地区。能登(のと)半島外浦(そとうら)の能登金剛(こんごう)最南端にあり、現在は福浦港(ふくらこう)(大字)と称する。天然の良港で、古代渤海(ぼっかい)の使者が寄港し、能登客院が置かれたという。近世は北前船(きたまえぶね)の風待ち港、避難港として栄えた。現在は漁港。旧福浦灯台は江戸初期に建てられたといわれ、現存する木造灯台は1876年(明治9)の建造である。

[矢ヶ崎孝雄]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「福浦」の意味・わかりやすい解説

福浦
ふくら

石川県北西部,志賀町中部の旧村域。能登半島西岸にある。 1889年村制施行。 1954年富来町熊野村,稗造村,東増穂村,西増穂村,西海村西浦村合体して富来町になった。 2005年志賀町と合体。漁港を中心とした集落で,日本海の大和堆へイカ釣りなどに出漁する。良港として古代より開け,日本海から奈良,京都にいたる玄関口となって,高句麗渤海国の使者が訪れ,交易も行なわれたといわれる。江戸時代は北前船の避難港として栄えた。近くに能登金剛の景勝地がある。

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世界大百科事典(旧版)内の福浦の言及

【崎戸[町]】より

…行政の中心である崎戸の所在する蠣ノ浦(かきのうら)島は長崎市の北西約50km,佐世保市の南西約30kmの海上に位置し,蠣ノ浦島から西方約20km隔てて江ノ島,さらに西方に平(ひら)島がある。人口1000人程度の漁村であったが,1907年蠣ノ浦島の福浦で石炭採掘が始まると海底炭田の町として発展し,最盛期には2万6000人の人口を数えた。しかし68年炭鉱が閉山して急激に過疎化が進んだ。…

※「福浦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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