ギリシア共和国の首都。人口は2001年現在,アテネ市75万,近郊を含む大アテネ312万を数える。古代ギリシア語ではアテナイAthēnai。その都市としての起源は古代にさかのぼり,今日なお往時の遺跡を豊富に残している。古代においては,前8世紀以降,この町を中心に,中部ギリシアの南東端に突き出た半島状のアッティカ地方全体を領域として,都市国家すなわちポリスが形成され,前2世紀,ローマの支配に服するまで独立の国家としての存立を保った。古代史に関しては,したがってこの都市国家全体とその中心市とを,ともにアテナイ(アテネ)と呼ぶ。
アテネ市はアッティカ半島の西側,サロニコス湾に面し,同湾沿岸中央部より約5km北東に入った地点に位置する。南西方,サロニコス湾岸に外港ピレウスを有し,それを通して世界各地とつながる。現代ギリシアの政治・経済・文化の中心をなすとともに,古代においても,盛期ギリシア世界を主導する役割を演じた。後背地としてのアッティカは,日本の佐賀県にほぼ匹敵する広さをもち,北方・北西方は山脈をへだてて,それぞれボイオティア,メガラに接し,南方・東方および南西方は海に囲まれている。この地方は地味に乏しく穀作に適しないため,古代においてはオリーブなどの果樹の栽培が盛んであったが,他面,半島南東隅のラウリオン地区に地中海世界屈指の銀鉱山を擁し,そこから産出する良質の銀が盛期アテナイの経済的繁栄を支える一因となった。今日でも,半島南端スーニオン岬近傍におよぶこの地区一帯に,おびただしく残された鉱坑・選鉱場・溶鉱炉の遺跡が,古代における銀鉱採掘の実状を伝えている。
アテネ市は,北をパルネス山(1412m),北東をペンテリコン山(1109m),南東をヒュメットス山(1027m),北西をアイガレオス山(453m)に囲まれ,南西部をサロニコス湾に向かって開くアテネ平野のほぼ中央に位し,市の中心にけわしい石灰岩の岩山アクロポリス(156m)が,また北東部には同じく急峻なリュカベットス山(277m)がそびえて,この町の景観に著しい特徴を与えている。アクロポリスは古代アテナイ国家の城砦であると同時に,宗教的中心としての役割をも果たし,この丘の北西麓にある広場すなわちアゴラとともに市民生活の中心であった。アクロポリスは,今日パルテノンをはじめとする優れた神殿遺跡により古代の盛時をしのぶよすがを与え,アゴラもまた1930年代以降,アメリカ考古学界による組織的な発掘調査の結果,列柱廊,役所,会議場,神殿など,ローマ時代にいたる各種の遺跡が明らかにされて,古代の市民生活の復元に貴重な貢献をしつつある。古代の中心市アテナイは,このアクロポリスとアゴラを中心に広がり,町の周囲を城壁で囲んでいたが,現在の市街はその範囲をはるかに越え,ことに南・北と東に延びて,北はリュカベットス山の北麓におよび,南はサロニコス湾に達して,さらにピレウスと連なるまでにいたっている。現在,アテネ市の都心部はアクロポリスの北東に向け扇状をなして広がり,各種の公共施設もこの地域に集まっている。
アテナイの名とともにだれしも思い浮かべるのは,ペリクレス,ソフォクレス,プラトン,デモステネスといった人々に代表される,この都市の古典期(前5~前4世紀)の歴史と文化であろう。この時代は総じて古代ギリシアの盛期にあたるが,中でもアテナイは数あるポリスの間でスパルタと並んで政治的・軍事的に最大の勢力を誇るばかりか,文化創造の面でもひとり群を抜く存在であった。そして世界史上,まれにみる徹底した直接民主政を完成し,文学,哲学,歴史叙述,美術の諸領域で,現代にいたるその後の発展のあり方をすでに初発において決するかのような高度の達成を遂げた。この時期のアテナイを語ることは,ギリシアの栄光を語ることに通じるが,しかしそこにいたるまでにはアテナイにおいても,ポリスの成立と発展という他のギリシア諸地域と共通の歴史があり,前4世紀末以後のポリス衰退期や中世初頭から19世紀前半にいたるギリシア民族の雌伏時代についても,同じようにギリシア史そのものの歩みとの関連に注意が向けられなくてはならないであろう。
ギリシア人の第1の波がアッティカ地方に南下定住したのは前2000年ころと推定されるが,前2千年紀中葉には,たとえばペロポネソス半島のミュケナイやスパルタにおけると同様,この地でもアクロポリスに王城をもつ小王国が成立していた。このミュケナイ時代の王国は,史料的に詳細な推論が可能な同種のピュロス王国からの類推によれば,官僚制の萌芽ともいうべき役人組織と在地の豪族とを介して,王が民衆を支配する構造をとるものであったと考えられる。ミュケナイ時代の諸王国は,前1200年ころから前1100年ころにかけて外敵の襲撃を受け,次々に滅んでいくが,アテナイだけは外部からの侵入を防ぎきり,〈暗黒時代〉と通称される動乱と混迷の時期にあって,なおしばらく王政を維持し,また原幾何学様式や幾何学様式の陶器の生産において他を圧していた事実が示すように,経済あるいは文化の面でも,他の地域に比して高い水準を保ち続けた。
ミュケナイ時代末期から暗黒時代にかけての混乱は,しかしアテナイに対してもなにがしかの影響を与えている。崩壊した諸王国の住民が大挙してアッティカ領域内に移動して,この地方の人口が異常に増大した。そして伝承によれば,在来のアテネ王家に代わって,ピュロス王家のメラントスMelanthosという移住者がアテネ王となり,その孫の一人ネレウスNēleusは膨張したこの地の住民の一部を率いて,海路イオニアに植民し,他の一人メドンMedōnはアテナイの王位を引き継いだという。メドンの血統をひく人々すなわちメドン家が以後,暗黒時代のアテナイを指導するが,その初期にすでに王政のあり方に重大な変化が生じていたらしい。同じく伝承によれば,このころ王権は三分されて,軍事指揮者としてのポレマルコスpolemarchos,政治の実権を握るアルコンの二つの職が設けられ,王(バシレウスbasileus)には祭祀にかかわる権限が残された。のちのアルコン職の起源をなすこの三つの役職は,当初メドン家によって占められ,任期も終身だったと伝えられるが,このような制度上の変化が,王権の縮小と在地の豪族たちの地位の向上につながったことは想像に難くない。その結果,前8世紀半ばアルコンなどの三役に10年任期制が導入され,おそらくメドン家以外の人々にも就任の機会が与えられるようになるが,それとほぼ時を同じくして在地の有力者たちは,支配下の民衆に対する掌握を共同の力でより確かなものとするために,一斉に中心市アテナイに集住(シュノイキスモス)し,貴族としての連帯を固めた。メドン家は一有力貴族の地位に甘んずることになり,アテナイの王政は終りを告げて,多数の貴族が共同で政権を握るポリスとしての新しいアテナイ国家が誕生する。
この貴族政ポリスの制度的完成を示すのが,前683年のアルコンなど三役への1年任期制の導入である。その人の名でアテナイの暦年が呼ばれるならわしとなったアルコンは,国家の筆頭職として,こののち前5世紀前半まで政治的に重きをなした。アルコンなどの三役に加えて,前7世紀前半から法律担当の6人のテスモテタイthesmothetaiが任ぜられるようになり,ここに9人から成る広義のアルコン職が成立する。これらアルコン職の経験者のなかから任期終身の貴族政的評議会が選ばれ,その集会の場がアクロポリスの西につらなるアレオパゴス(アレイオス・パゴス,軍神アレスの丘)であったところからアレオパゴス会議と呼ばれて,以後,前5世紀半ばまで貴族支配の拠点となった。
古代ギリシアにおける貴族支配は,しかしながら貴族と平民との身分差が小さいところに特色がある。この事実を示すのがボイオティア生れの詩人ヘシオドスの作品《労働と暦日(農と暦)》(前700ころ)であって,それによれば農民たちは貴族の政治的支配に服しながらも,社会的には土地および奴隷の所有者として,ほぼ対等の立場にあった。ヘシオドス自身が示すような平民による仮借ない貴族批判も,このような社会的状況のたまものであり,またそこにこそポリス民主政成立の歴史的前提があった。
アテナイの貴族支配に初めて動揺の兆しが見られるのは,前632年のキュロンの反乱である。名門貴族出身のキュロンの目的は,当時アテナイ国内に醸成されつつあった平民たちの不満を背景に,貴族の集団支配を倒して非合法の独裁政権すなわち僭主政を樹立しようとするものであったが,この企ては失敗におわった。しかしこの頃すでにアテナイでも確立されていた重装歩兵制では,平民の働きに依存するところが大きかったので,貴族たちも平民の政治的要求にしだいに応じざるをえなくなった。その第一段階をなすのが前624年のドラコンの立法で,この法はそれまでの慣習法を集成し,明文化することによって,貴族による法の恣意的解釈に歯止めをかける効果をもたらした。
アテナイ民主政の成立にとり,より大きな画期をなしたのは,前594年のソロンの改革である。この頃アッティカでは多数の農民が経済的苦境に陥って貴族・富裕者への借財に頼らざるをえなくなり,その際抵当として自らの身体を供したために,それまでの所有地を耕しつつ収穫の6分の1を債権者に納める義務を負うとともに,それを果たしえないときは奴隷として売られる事例が頻発した。貴族・富裕者と一般農民との間に生じた深刻な社会的亀裂を救うべく,市民たちの輿望を担ってアルコンに就任したソロンは,借財の帳消しを断行し,そのうえ以後,市民の間で身体を抵当として借財することを禁じた。これによって当面の危機が回避されたばかりでなく,こののちアテナイ市民がアッティカ領域内で奴隷に転落する道が断たれて,ポリス市民団の枠組みが確立した。ソロンはさらに市民を家柄でなく財産の額によって4等級に分け,それぞれについて政治への参与の権利を定めた。この制度は,上層の平民にも貴族と並んで積極的に国政に参加する可能性を分け与えるものであった。
ソロンの改革は貴族と平民とを共に満足させるにいたらず,その後もアテナイでは三つの党派による苛烈な党争が展開されるが,それはしかし貴族政から民主政への着実な前進の過程であった。その第1の節目は,山地党の領袖ペイシストラトスによる僭主政の樹立である。前6世紀中葉,再度にわたる追放にも屈せず僭主としての地位を確立したペイシストラトスは,貴族の共同支配を否定し,一般市民に対しても武器の取上げを図るなど,非合法的な独裁者としての側面を示す一方,中小農民の保護育成に努め,国家の祭祀を盛んにし,また中心市アテナイの整備に尽力するなど,その治績は大いにあがった。とくに農民育成策は,彼ら農民の実質的な地位の向上につながるものとして,ソロンの政策をさらに一歩前進させたものと評価することができる。
ペイシストラトスの僭主政に次ぐ節目をなし,しかもアテナイ民主政成立史上,ソロンの改革とともに最大の転回点を形づくるのが,前508年のクレイステネスの改革である。前510年,ヒッピアスの代にペイシストラトス家の僭主政が倒れたのち,激しい党争をへて,海岸党を率いるアルクメオン家のクレイステネスが政権を掌握し,多数の市民の支持の下に一連の改革を行った。その根幹をなすのが,旧来の四部族に代わる新たな十部族制の創設である。独特の工夫をこらし,地縁的原理に立脚したこの十部族制は,アテナイ市民団の抜本的な編成替えによって在来の貴族支配の基盤を掘り崩す役割を果たしただけでなく,こののち古典期を通じて軍隊の編成や役人同僚団の選出にさいし,基本的単位として用いられて,国制の骨格を形づくることになる。僭主となるおそれのある有力者を市民たちの投票によって10年間の国外追放に処した陶片追放(オストラキスモス)の制度も,クレイステネスの創案によると伝えられる。
前7世紀から前6世紀にかけ政治・経済・軍事の諸分野でスパルタ,コリントス,アイギナなどの諸ポリスにむしろおくれをとっていたアテナイを,前5世紀前半にギリシア第一の地位にまで押し上げたきっかけは,ペルシア戦争での勝利である。平民の政治参加に制度上の道を開き,市民団の団結を固める前提を整えていたこと,有力な重装歩兵集団を擁したばかりか,ラウリオン銀山での大鉱脈の発見によって国庫が潤い,艦船の増強に成功したこと,ミルティアデス,アリステイデス,テミストクレスといった人材に恵まれたことなどの諸条件が幸いして,アテナイはこの戦争で抜群の働きを見せた。ペルシア軍がギリシア本土から撤退したのち,前477年にエーゲ海周辺諸市の輿望を担って対ペルシア攻守同盟すなわちデロス同盟の盟主の地位に就いたアテナイは,以後,前5世紀末までペロポネソス同盟に拠るスパルタと並んでギリシア世界を支配し,その上に立ってアテナイ民主政を完成させ,かつ文化的創造力を縦横に発揮した。
アテナイ民主政の完成は,前462年のエフィアルテスの改革によって遂げられる。前5世紀に入っても,アテナイでは名門貴族の支配の維持を目ざす寡頭派と,民衆の意向を背景に国政の主導権を握ろうとする民主派との争いが続いた。政争の中心には家柄と富裕を誇る貴族たちがいたが,この時期になると一般市民の発言力がいよいよ増し,彼らの動向を掌握する者が時代を主導していく。重装歩兵たりえた中堅市民の地位はすでに固く,下層市民の発言権も,彼らがサラミスの海戦で三段橈船の漕ぎ手として大きな働きを示したことから,著しく増していた。このような趨勢に棹さして民主政の徹底化を成就したのが,テミストクレスに続いて民主派の指導者となったエフィアルテスとペリクレスである。前464年のスパルタ大地震の直後,ヘイロータイの反乱を鎮圧するための援軍派遣要請を受けて,寡頭派の領袖キモンがアテナイ重装歩兵数千を率いてスパルタに赴いたその留守を突き,エフィアルテスらは,前462年,アレオパゴス会議の実権を奪って,貴族支配の最後の牙城を落とした。エフィアルテス暗殺ののちは,ペリクレスがキモンあるいはその後継者トゥキュディデス(同名の歴史家とは別人)と争い,彼らを陶片追放に付して,前443年ついに民主派に最終的勝利をもたらし,以後,前429年その死にいたるまでペリクレスによる単独指導の時代が続く。
ペリクレス時代を頂点とするアテナイの繁栄に転機をもたらしたのが,ペロポネソス戦争であった。敗戦の結果,アテナイはデロス同盟を失い,国内的にも市民数の減少や田園の荒廃など未曾有の打撃を被るが,前4世紀に入ると急速な立直りを見せ,とりわけ前377年にはアテナイ第二海上同盟を結成して,再びエーゲ海に覇を唱えるにいたる。しかし前4世紀半ばになると,北方のマケドニアの勢力が伸びてギリシア本土をうかがい,前338年,カイロネイアの戦でテーバイと組んで敗れたのちは,アテナイもコリントス同盟の一員としてマケドニアの政治的・軍事的指導に服することとなった。ギリシア世界はその様相を大きく変えて,ヘレニズム時代へと移行する。
前5世紀から前4世紀にかけてのアテナイは,政治・経済・文化のすべてにわたって,ギリシア世界の頂点にあった。アテナイにはギリシア各地から学者・芸術家が集まり,学芸の花が開いた。商工業も発展を遂げ,ピレウス港は地中海交易の中心となった。しかし都市国家アテナイをその根底において支えたのは,城壁外の村落に住む市民身分の農民たちであった。彼らこそ重装歩兵として国防の中堅をなし,政治的にもポリス民主政の社会的基盤を形成した。ペロポネソス戦争直前における成年男子市民の人口3万~4万,その過半は城壁外に住んでいたと推定される。国政はすべて成年男子市民全員を成員とする民会の決定により,裁判も30歳以上の男子市民6000人から成る審判人が,そのときどきに一定規模の個別法廷を構成して行った。市民たちはまた各種の役職に交代で就任し,行政の任を分担したが,その際,1年任期制・同僚制・抽選制によって特定人物への権限の集中が周到に避けられている。クレイステネスによって創設された500人から成る民主政的な評議会が,立法と行政監督の両面で大きな役割を担ったのも,直接民主政を円滑に遂行するうえに必要な工夫であった。
アテナイ民主政には,しかしながら二つの限界が認められる。一つは婦人の社会的地位が著しく低かったこと,今一つは奴隷の使役が市民生活のあらゆる面に浸透し,ポリス存立の基盤の一つにまでなっていたことである。ペロポネソス戦争直前のアテナイの奴隷人口は8万~10万と推定され,農業・商業・手工業・鉱山業の各分野で盛んに使役されたほか,家内の雑用,公文書の記録・保管,市中警備などにおいても,奴隷の働きにまつところが大きかった。
市民と奴隷に加え,第3の中間的な身分として古典期アテナイの社会構成に重要な意義を有したのが,在留外人(メトイコイ)である。彼らは自由身分の非市民で,アテナイ以外のポリス出身者のほか非ギリシア人をも含み,参政権はむろんのこと,不動産所有権からも疎外されながら,同時に人頭税を課され,さらに市民と同様の軍役に服した。その人口は,ペロポネソス戦争直前,1万~1万5000と推定され,商工業や学芸の分野でアテナイの繁栄に著しい貢献をなした。彼らへのアテナイ市民権の賦与は,原則として認められなかった。これはポリス市民団のきわめて閉鎖的な性格を物語る事実であって,古典期のアテナイが市民相互の間では貴族・平民の別を解消し,政治的にも社会的にも自由で平等な関係を作り上げたのとは裏腹に,市民団の外に対しては特権的な支配者集団として臨んだことを,はからずも示している。
古典期のアテナイは,悲劇,喜劇,歴史叙述,哲学,弁論,壺絵,彫刻,建築の諸分野で,世界史上,容易に類例を見いだせぬほど多産な創造をなし遂げた。そのなかにあってアイスキュロス,ソフォクレス,エウリピデスの悲劇は,簡潔な構成のなかに人間存在の根源にかかわる問いを提出し,ソクラテス,プラトン,アリストテレスによって展開された哲学的思索とともに,その後のヨーロッパの文学と思想に深い影響を与えた。この時代,各分野にわたって産み出された古典的作品には,ポリス民主政のあり方が深く刻み込まれている。その端的な事例がイソクラテス,デモステネスの作品に代表される政治演説・法廷弁論で,これらは政治と裁判が多数の市民から成る民会と民衆法廷で決定された,当時のポリスの機構を抜きにして考えられない。史家の個性的な史観に裏打ちされたヘロドトス,トゥキュディデスの歴史叙述,痛烈な政治批判や社会風刺に彩られたアリストファネスの喜劇,ソクラテスにはじまる人間と社会とを正面から見据えた哲学的思索,あるいはまた神殿・劇場など公共建築物の圧倒的優位を印象づける遺跡の態様などにも,公共性と市民の自由とを重んずるポリス民主政の特質が刻印されている。総じて,ギリシア古典文化はポリスの産物であった。
前323年,アレクサンドロスが死去すると,アテナイは他のギリシア諸市とともにマケドニアに反旗をひるがえすが,翌年クランノンの戦で敗れ,以後,完全にマケドニアの支配下に立つこととなる。アテナイ民主政も事実上,終りを告げ,これよりのち〈デモクラティアdēmokratia〉は党争のためのスローガンと化して,マケドニアの,そしてまた前2世紀中葉ローマがギリシア本土を制すると,ローマの後ろだての下に富裕市民が国政を専断する。ヘレニズム時代からローマ時代にかけて,アテナイは独立の国家としてのかつての栄光を失うが,しかしながら古代末期にいたるまで,なお地中海世界における学芸の都として人々の尊敬を集めた。
395年,ローマ帝国が東西に分かれると,アテナイは東ローマ(ビザンティン)帝国に属し,以後,急速に都市としての衰えを見せることになる。スラブ人の侵入,十字軍の支配といった試練をへたのち,15世紀中葉から19世紀前半まで400年近く,オスマン帝国の支配下に置かれて,苦難の道を歩んだ。1821年,ギリシア独立戦争が勃発すると,アクロポリスを中心にアテネは攻防の的となり,それが完全にギリシア人の手中に帰したのは33年のことであった。翌34年,アテネは独立ギリシアの首都となり,以後,近代都市として再生と発展の道をたどって,現在にいたっている。
→ギリシア
執筆者:伊藤 貞夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
古代ギリシアの都市国家(ポリス)。古典期ギリシアではアテーナイとよばれた。都市国家アテネは、中心市アテネを含むアッティカ全体を領域としていたが、アテネの名は守護神である女神アテーネー(アテネ)AthēnēまたはアターナーAthānāの名に由来するものと考えられ、ギリシア人の祖先がこの地に移住してきた紀元前2000年ごろより前に居住していた非インド・ヨーロッパ語族の女神名がもとになったと推定されている。ミケーネ時代のギリシア語を表した線文字B文書には、すでにアタナポトニア(大女神アタナ)の神名がみえている。
[太田秀通]
古典期のアテネ人は、しばしば「われわれは土地生(は)え抜きのものだ」と考えたが、もちろんそうではなく、他の東方言群に属するギリシア人の祖先とともに北方から移住してきたのである。先住民を征服したり放逐したり混血したりしたであろうが、確かなことはわからない。アクロポリスには王宮が営まれ、巨石を積んでつくった城壁(「キクロペスの」とよばれた)を巡らせていた。当時アテネ国家がどのようなものであったかはわからないが、前1600年ごろから500年ぐらいの間のミケーネ文明はここにも及んでおり、線文字B文書を多数出しているピロス王国の構造と大差ない社会と国家の特徴をもっていたものと推測される。すなわち、アテネ王の支配領域は多分アッティカ全土に及び、支配下の多数の村落に農産物、畜産物などの貢納義務を課していたものと思われる。伝説上の前13世紀のアテネ王テセウスによってアッティカが統一されポリスが形成されたという伝承は後世の発明であり、ポリスとは異質の貢納王政がここにあったと考えられる。
[太田秀通]
前1200年前後東地中海世界全体にわたって民族移動が起こり、この大変動の時代にトロヤは滅び、ヒッタイト帝国も滅亡し、攻撃はエジプトのデルタにまで及び、ギリシア本土でもテッサリアのイオルコス、ボイオティアのテーベ、オルコメノス、ペロポネソスのミケーネ、ティリンス、ピロスなどミケーネ文明の中心地は破壊され、ミケーネ文明は以後100年ぐらいの間に滅亡した。この激動の時代のなかで、アテネのアクロポリスも攻撃されたが、完全に破壊されることなく生き残った。しかし王国の衰退は免れず、ミケーネ時代の貢納義務村落の首長はなかば独立国を形成したものと推測される。この間、西方言群に属するドーリア人に追われたギリシア人諸族のなかには、アッティカに移住するものも多く、前8世紀に入ったころからアッティカの人口は急激に増加し、従来から存在した貴族、平民の対立も深刻となり、同世紀中葉にはアッティカ各地の評議会を中心とする貴族層がアテネの統一評議会に結集することによって、地方小共同体の平等を原則とする統合を実現し、ここにアテネを中心市とするポリス国家が形成されたと推測される。このポリスの形成を伝説の王テセウスに帰したのが、シノイキスモス伝説であったと考えられる。これが貴族政ポリスの成立であった。これに対応して貴族政ポリスの役人として3人のアルコンが選出されるようになり、前683年以後、任期1年となり、さらにのちに6人追加され、9人のアルコンを最高の役人とする独特の国制ができあがった。このころ、アテネ市民は貴族、農民、工匠などの身分に分かれ、役人は富と家柄によって選出された。
[太田秀通]
前8世紀なかばからギリシア諸市は、南イタリア、シチリア海岸ならびに地中海、黒海沿岸への植民市建設活動を盛んに行い、独立のポリスが多数存在するギリシア世界が現出した。これらのポリスは、市民の土地所有に基づく共同体をなしていたが、ポリスとポリスとの間にも、ポリスと先住民の後背地との間にも通商、交通が盛んとなり、前7世紀には小アジアのリディアから導入された貨幣使用がギリシアにもしだいに普及してきた。このころアテネには自国の貨幣はなかったが、穀物の輸入やオリーブ油の輸出を通じて貨幣経済の影響を受け、平民の上昇と没落を生み出すこととなり、これが貴族政の動揺を招いた。前7世紀末にキロンが僭主(せんしゅ)政樹立を企て、さらにドラコンが初めて慣習法を成文化したことは、キロンの企てが失敗したとはいえ、貴族に対抗する共同体の一般大衆の動向が背後にあったことを示唆している。前7世紀には、前9~前8世紀の幾何学様式の壺(つぼ)の後を受けて、初期アッティカ黒絵の壺が生産された。
前7世紀末から前6世紀初頭にかけてのアテネ社会の最大の問題は、中小土地所有農民のなかに、借財の返済不能によって名門、富裕者に隷属する者が多数現れたことであった。隣国メガラとの戦争という差し迫った状況のもとで、アテネはこの事態を放置しておくことはできなかった。前594年、賢者ソロンがアルコンに選ばれ、改革の全権を与えられると、彼は借財の帳消しを断行し、かつ身体を抵当とする借財を将来にわたって禁じ、小土地所有農民の復活を図った。このことはアテネの将来にとって大きな意味をもった。それは貴族政変革の第一歩であったと同時に、隷属労働力を必要とする人は外部からの奴隷に頼るほかなくなったことを意味し、奴隷制発展の刺激となった。ソロンは、市民を土地財産からあがる収入の多寡によって4等級に分かち、等級ごとに市民の権利・義務を定めたが、民会と裁判の一部に無産市民をもあずからせることによって国制民主化の基礎を築いた。しかし彼の改革は貴族、平民双方を満足させず、市民の内部抗争は党争の形をとって展開し、富裕市民は平地党に、中流市民は海岸党に、貧農は山地党に結集して争った。
こうした党争のなかから山地党を率いたペイシストラトスは、前561年ついに僭主政を樹立した。反対派の勢力も強く、僭主政は動揺したが、ペイシストラトスは国法を変えることなく、小農を保護し、手工業を進め、外国貿易を盛んにし、国力の充実に努め、巧みに民心を獲得した。ペイシストラトスの死(前528)後、その子ヒッピアスが後継者となり、しばらくは事なきを得たが、弟ヒッパルコスHipparchos(前600ころ―前514)がハルモディオスとアリストゲイトンの決起によって殺される(前514)と、僭主政は民衆にとって耐えがたいものとなり、貴族の名門アルクメオンとスパルタの軍事介入によってヒッピアスは追放、約半世紀にわたる僭主政は終わった(前510)。アルクメオン家のクレイステネスは民衆の支持のもとに国制改革を始めた(前508/507)。彼は、従来貴族の勢力地盤となっていた四部族制を解体し、アッティカ全土を都市部、内陸部、海岸部に分け、各部をそれぞれ10のトリッテュス(3分の1の意味)に分け、各部のトリッテュスをくじ引きで結合して部族とし、合計10部族を編成して、これを行政、軍事の基礎とした。この部族制度の最小単位としては区または行政村落としてのデーモスdēmosが設けられ、アテネ市民はデーモスの名簿に正式成員として登録されることになった。また、外国出身または奴隷あがりの在留外人の一部にも市民権が与えられた。そして従来の評議会(400人)は改められ、各部族の選出する50人、合計500人からなる評議会が新設された。各部族の評議会議員は、デーモスの人口により比例代表式に選出された。彼はまた、僭主の出現を防ぐためにオストラキスモス(陶片追放)とよばれる人民投票を定め、またたぶん貨幣財産を一定の比率で土地財産と対等に扱うこととしたため、商工業者で第三級市民(農民級とよばれ、重装兵の中心部分をなした)に上昇する者が出現したと推測される。こうしてクレイステネスの改革によって民主政の枠組みが与えられた。
[太田秀通]
前6世紀中葉から小アジア西海岸のギリシア人諸市はアケメネス朝ペルシアの支配に入っていたが、前5世紀に入ると、ミレトスを中心とするイオニア諸市はこれに反乱を起こし、アテネは海軍を送って反乱を援助したが失敗した。ペルシアのダリウス大王はアテネの反乱援助を懲らしめるためにギリシア遠征軍を送り、ペルシア軍は、もとのアテネ僭主ヒッピアスを帰国させるためにマラトンに上陸した。これを迎え撃つ約1万のアテネ市民軍はほとんど独力でこれを撃退した(前490)。その後、ラウリオンで発見された銀鉱は、テミストクレスの発案によって大海軍の増強に使われ、これによってサラミス海戦の勝利(前480)の基礎を築いた。前479年アテネはスパルタと協力して、プラタイアイの戦いでペルシア大軍に勝利し、またアテネ海軍はイオニアのミカレ岬においてペルシア海軍を破った。ペルシア戦争におけるこれらの勝利は、東方的専制に対するポリス的自由の勝利を意味した。しかし、ペルシア軍の再来に備えるためにできたアテネを中心とするデロス同盟は、実質的にはアテネ帝国と今日よばれるようなアテネ支配圏を意味するようになり、同盟諸市の支払う貢租はアテネの国家財政を豊かにし、アクロポリスを公共建造物をもって飾ること、下層市民でも役人になれるように日当を支給することを可能にした。民主政はいっそう徹底して、市民ならだれでもアルコンになれることになった。ペリクレス指導下にアテネ民主政は完成し、保守派の牙城(がじょう)アレオパゴス会議の政治権力は奪取され、評議会、民衆裁判、民会の権限が拡大し、民会は名実ともに国家意思の最終決定機関として機能した。
しかし、アテネの強大化はスパルタとの対立を深め、ついにギリシア世界を二分しての大戦争、ペロポネソス戦争(前431~前404)が起こることとなった。ペリクレスは中心市の城壁(ピレエフスと長城をもって結ばれていた)内に立てこもってスパルタが支配するペロポネソスを海軍で襲う作戦をたてたが、開戦2年目にピレエフス、アテネを襲った悪疫に自らも倒れた。以後クレオン、ヒペルボロス、クレオフォンなどがデーマゴーゴスdēmagōgosとなって好戦的拡張主義をとったが、アルキビアデスの企てたシチリア遠征(前415~前413)に完敗し、スパルタはペルシアと結んでアテネに対抗し、前404年ついにアテネは無条件降伏し、デロス同盟も崩壊した。この年アテネに進駐したスパルタ軍の後援のもとで「三十人僭主」が恐怖政治を行った。翌年民主派が決起して民主政を回復し、テーベ、コリント、アルゴスと結んでスパルタと対抗し、前378年には第二海上同盟を結成したが、アテネの専制的支配は同盟市の批判を浴びて同盟市戦争(前357~前355)が起こるに至った。
こうしたときに北方マケドニアが興起して南下政策を推し進めると、アテネには反マケドニア派と親マケドニア派の争いが起こった。反マケドニア派のデモステネスは愛国的雄弁をもってマケドニアの野心を説き、市民に決起を訴えるとともに、テーベと結んでカイロネイアでマケドニアのフィリッポス2世の軍と戦ったが敗れた(前338)。それはポリス的自由の墓場であった。以後アテネは長く外国の支配下に置かれることとなった。
古典期アテネでは、民主政を基盤として、文化もまた極盛に達した。古拙期ギリシアで栄えた叙事詩、抒情詩の後を受けて、酒神ディオニソスの祭典で競演された悲劇、喜劇が繁栄し、三大悲劇詩人アイスキロス、ソフォクレス、エウリピデス、喜劇詩人アリストファネスが活躍した。哲学ではソクラテス、プラトンを経て、アリストテレスにおいて総合的な哲学体系が完成された。歴史記述ではペルシア戦争史を書いて「歴史の父」と後に称せられたヘロドトス、ペロポネソス戦争史を書いたトゥキディデスが出現した。造形美術ではパルテノンを建てた建築家イクティノス、パルテノンやオリンピアのゼウス神殿に妙技を振るった彫刻家フェイディアスが出現した。こうしたギリシア文化の開花期は奴隷制のもっとも発展した時代であり、鉱工業分野で数十人の奴隷からなる製作所が発展し、1000人の奴隷を擁する奴隷貸業者も現れたばかりでなく、中小農民の大部分に至るまで2~3人の奴隷を農業生産の前提としていた。そのことは、アテネの人口構成にも現れ、市民たる成年男子は3万から4万ぐらい、その家族を含めて12万から13万ぐらい、在留外人1万ぐらい、そして男女の奴隷の総数は10万を超えていたと推定してよかろう。それは奴隷制社会と規定してよい社会であった。
[太田秀通]
マケドニアのアレクサンドロス大王による征服以来、ギリシア人は多数マケドニア人とともに東方に移住し、ギリシア風の都市を建設し、これを中心としてギリシア文化とオリエント文化が混合し、いわゆるヘレニズム文化が生まれたが、アレクサンドロスの死後分裂してできたヘレニズム三王国(マケドニア、シリア、プトレマイオス朝エジプト)のうち、後二者の伝統社会は根強く維持された。この間、ギリシアにはアカイア同盟、アイトリア同盟が結成され、スパルタを含めて抗争を繰り返したが、前2世紀にはローマが進出し、前1世紀には小アジア西岸やクレタ島とともにギリシア本土もローマ属州となり、アテネは自治都市として学芸の一中心をなし続けたが、繁栄の中心は東方に移動した。ローマ帝政時代にはハドリアヌス帝の保護のもとにアテネは飾られたが、3世紀後半にはゲルマン人の一派の攻撃を受け、このときはなんとか持ちこたえた。さらに396年ゴート人の王アラリックがアテネを攻撃したとき、城壁に迫った彼はアクロポリスに立つ武装したアテナ女神像におそれをなして立ち去ったという。しかし、アテネの町は彼の軍隊によって略奪された。
ローマ帝国が東西に分裂し、キリスト教が普及するなかで、プラトンが創設したアカデメイアは非キリスト教的学問の伝統を維持したが、6世紀には非キリスト教的な信仰や学問、芸術を圧迫したユスティニアヌス帝によって閉鎖され(529)、やがてパルテノンはキリスト教聖堂に転用された。それは古代アテネの終焉(しゅうえん)を象徴する事柄であったといってよい。
[太田秀通]
『村川堅太郎訳『アリストテレス アテナイ人の国制』(岩波文庫)』▽『伊藤貞夫著『古典期アテネの政治と社会』(1982・東大出版会)』▽『太田秀通著『スパルタとアテネ』(岩波新書)』
ギリシアの首都、およびアッティカ県の県都。また、古代ギリシアのアッティカ地方を占めたポリス(都市国家)の名称。「アテネ」は日本の慣用で、古称はアテナイ、現代ギリシア語ではアティネまたはアスィネと発音され、英名はアスィンズAthens。市名は古代における市の守護神「アテーネー女神」に由来する。この項目では現代ギリシアの首都としてのアテネを、6世紀以降の歴史とともに扱い、ポリスのアテネについては別項を参照。
現代ギリシア第一の都市で、政治、経済、文化の中心地。外港ピレウスを加えたアテネ大首都圏の人口は約310万、アテネ市街のみでは74万5514(2001)。アッティカ半島中央のサロニカ湾に面した平野部に位置する。東はヒメトス(イミトス)山、北東はパルネス山、西はアイガレオス山に囲まれ、ケフィソス川とその支流イリッソス川に挟まれている。市内にはアクロポリス(標高156メートル)を中心として、リカベトス(277メートル)、フィロパポス(147メートル)、プニックス(109メートル)、アレオパゴス(115メートル)など、いくつかの小丘がある。古代にはアクロポリスの周辺、ことに北側が市の中心であった。1834年にギリシアの首都となる以前は人口5000人ほどの寒村であったが、同年以降、国王オットー1世Otto Ⅰ(1815―1867、在位1832~1862)の命により、ババリア出身の建築家によって首都としての体裁が整えられ始めた。その後、共和国政府の首都としても発展を続け、いまや大都市圏を形成してさらに新市街、住宅地区がつくられつつある。今日、旧市街のおもかげはアクロポリス北側のプラカ地区に残っている。
市の南12キロメートルにヘレニコン国際空港があり、ギリシアの各主要地と定期航空便で直結している。市の北西部のラリッサ、ペロポネソス駅からは南北に通じる鉄道、バスが発着する。その近くのオモニア駅からの鉄道はピレウス港に通ずる。オモニア広場と議事堂(旧王宮)に面するシンタグマ(憲法の意)広場、および両者を結ぶスタディオウ通りと大学通り(またはベニゼロウ通り)周辺が中心部で、そこには大ホテルや商店が立ち並ぶ。アテネ大学、ギリシア国立図書館をはじめ、西欧諸国の考古学研究所などの文化施設も市内に集中している。パルテノン神殿など古代の遺跡が多く、考古博物館、ベナキ博物館などもあって海外からの観光客を集めている。外港ピレウスはギリシア第一の港で、これを含む大アテネでは、製鉄、繊維、衣服、機械、化学、食品などの諸工業が発達している。1960年代以降は大気汚染など都市問題が表面化している。
[真下とも子]
6世紀中葉以来、ギリシアには南スラブ人が南下、移住するようになった。ギリシアのスラブ化が進行するなかで、ヘラクレイオス朝のもとにビザンティン帝国は法令および布告にギリシア語を使用するようになり、ギリシア古典文化の伝統とキリスト教を中核とするビザンティン文化の成熟をみた。9世紀以来ギリシアはイスラム教徒、ブルガリア人、さらにはノルマン人やベネチア人の侵略を受け、13世紀には第4回十字軍の侵略と分割支配を受けた。1453年にはオスマン・トルコ帝国によってコンスタンティノポリス(イスタンブール)が占領され、アテネも1456年に征服された。そして以後400年にわたってトルコの支配が続いた。この間パルテノンはイスラム寺院となっていたが、1687年ベネチア人がアテネを攻撃した際に大きな破壊を被った。
18世紀末のフランス革命ののち、ヨーロッパには自由主義、民族主義が高揚しつつあったが、この動向のなかでギリシア独立の運動もさかんになり、外国の援助もあって、1821年ペロポネソスでトルコ支配に対する反乱が起こり、翌1822年エピダウロス付近で、自由、解放の憲法が宣言された。トルコは反乱の鎮圧に努め、エジプト太守メフメット・アリーの増援を得たが、1827年、イギリス、ロシア、フランス3国の艦隊はトルコとエジプトの艦隊をナバリノの海戦で破り、ギリシアの独立を承認させ、1832年バイエルンの王子オットーを迎えた。1834年に首都をアテネと定め、1844年憲法を制定してギリシアは立憲王国となった。
ギリシアはその後、強国の利害によって動揺を続けたが、領土をしだいに広げ、1924年国民投票によって王政が廃止され、ギリシア共和国が生まれた。しかし1935年にはクーデターによって王政が復活し、第二次世界大戦中はドイツ軍占領のもとでゲリラの抵抗も続いたが、1944年イギリス軍の援助のもとで解放され、1946年イギリスの支持する右派政府が王政の存続を決定した。しかし、ギリシアの政情不安は続き、1965年にはクーデターによって軍事政権が成立した。同年国王コンスタンティノス2世Konstantinos Ⅱ(1940―2023、在位1964~1974)は逆クーデターに失敗して亡命し、軍事政権は安定したかにみえたが、圧制下に成長した社会主義的諸勢力が1981年政権の座についた。この間アテネは近代的国際都市として成長するとともに、ヨーロッパ文明の源流をなす古典文明を象徴する都市として世界の観光客をひきつけている。
[太田秀通]
ギリシア神話の、知識、技芸、武の女神。ギリシアの主神ゼウスと海神オケアノスの娘メティス(思慮)との娘。ゼウスはメティスが身ごもると、その子が王座を奪うという地神ガイアの預言を恐れて彼女を飲み込んだ。しかし、やがて激しい頭痛に襲われたのでヘファイストスに斧(おの)で自分の額を割らせると、そこから完全武装した姿のアテネが生まれ出たといわれる。おそらくアテネはギリシア先住民族の神で、この伝説は、その古い崇拝と、ゼウスを主神とする征服者ギリシア人の新しい信仰との融合の結果であろう。
オリンポスの十二神に加わった女神アテネは、母親譲りの賢明さを発揮して巨人族と戦い、アッティカの地をめぐって海神ポセイドンと争った。ポセイドンは三叉(さんさ)の槍(やり)でアクロポリスを撃ち、塩水の泉を湧(わ)き出させたが、アテネがオリーブを芽生えさせると、神々は女神に勝利を授けてアッティカを彼女のものとした。その後、アテネはアッティカの守護神として多くの英雄たちを助けた。
さらにアテネはさまざまな技術、工芸(織物、陶器、冶金(やきん)、医術など)の保護神となり、またフルートを発明して音楽の神にもなったが、一般には戦(いくさ)の神として、武装した威厳のある処女の姿で知られている。しかし、アテネはアレスとは違って狂暴な戦闘を好まず、選ばれた英雄たちをつねに知性的な面から指導した。そのためホメロスの物語では、とくに知謀にたけたオデュッセウスの守り神として活躍している。なお、アテネはしばしばパラスともよばれ、ローマではミネルバ、エジプトではネイトと同一視されている。
[小川正広]
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古代ギリシアの都市国家(ポリス)のうち,スパルタと並んで最も強大,文化史的にも比類を絶して多方面の天才を生んだ都市。その領域はアッティカと呼ばれ,一般のポリスのそれに比較して大変広く,多数の集落を含んでいた。中心市アテネの名は,女神アテナにちなんでおり,前2千年紀にミケーネ文明が支配した時代,そのアクロポリスには王城があった。前2千年紀末にドーリア人が北方から侵入したとき,アッティカのみは征服を免れた。それに続く暗黒時代にこの地方は多数の独立の集落に分かれていたが,前8世紀の半ば中心市アテネに集住した貴族たちが政権を握って,ポリスとしての統一が完成された。前6世紀初め借財による小農民の没落の危機がソロンの改革により回避され,また名門の支配に代わって財産に応じて参政権を認める制度となったが,政争が続き,前561年以来ペイシストラトス家の僭主(せんしゅ)政治をみた。これを倒したクレイステネスの改革により民主政治への基礎が置かれ,前5世紀初頭のペルシア戦争に際しては,アテネの重装歩兵軍と海軍とが外敵撃退に非常な手柄を立てた。その結果,アテネはデロス同盟の盟主として,ギリシア第1のポリスとなり,ペリクレスの指導のもとに民主政治を実現し,また文運の華を咲かせたが,スパルタとの間のペロポネソス戦争に敗れて以後は昔日の力を失った。前4世紀末マケドニアに屈してからは完全な独立を失い,学芸の都として知られた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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※「アテネ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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