翻訳|Apartheid
白人支配下の南アフリカにおける人種隔離・差別制度。1948年から法制化が進み「アフリカ民族会議(ANC)」の黒人解放闘争が本格化。デクラーク政権は90年、収監中のANC指導者ネルソン・マンデラ氏を27年ぶりに釈放し、アパルトヘイトは91年に事実上終結した。同氏は94年、南ア初の黒人大統領に就任、白人支配が幕を閉じた。
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英語の「分離」(apartness)にあたるアフリカーンス語(南アフリカ共和国の公用語)。かつての南アフリカ連邦、およびこれを継承した南アフリカ共和国における白人と非白人(黒人、インド、パキスタン、マレーシアなどからのアジア系住民や、カラードとよばれる混血住民)の諸関係を差別的に規定する人種隔離政策であったが、1994年白人国家体制の崩壊とともに法律上は廃止された。
[鈴木二郎]
その内容は基本的には17世紀以来のものであるが、1913年の原住民土地法に登場したこの用語が、同国の人種隔離諸政策を包括する用語として広く使われ始めたのは、国民党(NP)が人種差別を制度的に強化した1948年以降である。しかし政府はその後これを分離発展政策とよびかえた。その理由は、アパルトヘイトのもつ暗いイメージを軽減することにあった。政府によれば、伝統、文化、言語などの違う人種や種族は、それぞれ別の地域と社会に分離して、それぞれが固有の生活を営みつつ独自に発展すべきであると表向きには主張したが、その真のねらいは、少数の白人による政治的支配を維持し、安価な労働力を非白人から供給することにあった。1971年に実施されたバントゥスタン(ホームランド)政策は、絶対多数の黒人を、国土の13%にすぎない辺境不毛の地に設けた種族別の居住地域10地区に住まわせ、名目上の自治権を与えて、最終的には名目だけの独立国として南ア市民権を奪い、経済的には白人に依存せざるをえない黒人を外国籍の出稼ぎ労働者として扱おうとするものであった。黒人の反対にもかかわらず、トランスケイ、ボプタツワナ、ベンダ、シスケイの4地区は「独立」(1976~1981)させられたが、国際的には独立国として承認されなかった。そのほか、参政権、政党・組合の結成、居住、結婚と肉体交渉、就職、賃金、教育、医療、宗教、公共施設、娯楽、スポーツなど、日常生活の隅々にわたって非白人を差別する政策が、無数の法と慣行で制度化されていた。
[鈴木二郎]
もちろん国内での抵抗運動と海外からの支援は活発であったが、反対や違反は弾圧法規によって厳しく処罰されたり、慣行によって社会的制裁を受けた。抵抗組織の非合法化、弾圧による死亡・投獄、令状なしの拘留、亡命が日常茶飯事であった。これに対する国際世論は厳しかった。その一端は、国連における経済制裁決議、実質的な国連からの締め出し、および1960年のシャープビル大虐殺(シャープビル事件)を追悼する国連による「人種差別撤廃の日」(3月21日)制定、また南アフリカ連邦を、イギリス連邦からの脱退と南アフリカ共和国創建(1961)に追い詰めたイギリス連邦加盟諸国の政策、さらにスポーツ界の南ア・ボイコットなどに示された。
こうした国際世論と国内での抵抗が相まって南アの政財界を追いつめ、南ア政府は国際経済からの孤立を避けるためにアパルトヘイトを廃止する方向に踏み切った。この結果、制限職種、労働組合の登録、公共施設や娯楽施設の利用、教育費、スポーツチームへの参加などにおいてアパルトヘイトの一部が緩和され始めた。しかしこれも、アジア系住民、カラードと黒人を分断する方策がつねに講じられてきたのである。
[鈴木二郎]
南アフリカ政府は、1960年のシャープビル事件後アフリカ民族会議(ANC)とパン・アフリカニスト会議(PAC)を非合法化し、1970年の「バントゥ・ホームランド市民権法」、翌1971年の「バントゥ・ホームランド制憲法」により黒人の分離発展政策を推し進めた。一方、カラードとインド人に対しては1984年に人種別三院制議会を導入して参政権を復活した。この人種別三院制議会発足を契機に黒人の反政府運動は高まった。南ア政府は一部地域に非常事態宣言を発令して弾圧したため国際社会の非難が起こり、対南ア経済制裁が強化された。このためボータ国民党政権は1985年に雑婚禁止法、背徳法、翌1986年にはパス法を廃止したが、一方では非常事態宣言を全土に拡大し反政府運動を弾圧した。
1989年9月大統領となったデクラークは従来の国民党(NP)政権の方針を転換し、黒人との交渉により将来の南アフリカを決めてゆく「対話路線」をとった。この方針に基づき翌1990年2月にANC、PAC、南ア共産党を合法化し、ANC指導者(のち大統領)N・マンデラを釈放した。続いて同年5月南ア政府はANCと予備交渉を行い、6月には非常事態宣言を解除した。この結果、ANCは武力闘争停止を宣言した。翌1991年2月、大統領デクラークは国会開会演説ですべてのアパルトヘイト法を廃止すると宣言し、6月には人口登録法、原住民土地法、集団地域法を廃止した。南ア政府のこの動きに対して、EC(ヨーロッパ共同体、のちEU)、アメリカ、日本は次々と経済制裁を解除していった。
ついでアパルトヘイト廃止後の南アフリカの政体を話し合うため全18政党・組織が参加した民主南アフリカ会議が1991年12月と翌1992年5月に開催された。しかしこの交渉中、ANC系組織とズールー人を基盤とするインカタ自由党(IFP)との武力衝突がトランスバール州(現ハウテン州など)、ナタール州(現クワズールー・ナタール州)で頻発し多くの死傷者が出、交渉はしばしば中断・延期された。しかし1993年4月に多党交渉フォーラムが開かれ、26政党・組織が参加した。このフォーラムにより選挙までの移行期の政体として全政党・組織が参加した暫定政府が同年12月に発足し、同時に暫定憲法を制定した。この暫定憲法に基づき翌1994年4月、南ア史上初の全人種が参加した制憲議会選挙が実施され、5月にマンデラ新政権が樹立された。
[林 晃史]
暫定憲法の権力分与条項に基づきマンデラ政権はANC、国民党、インカタ自由党との連立政権となった。大統領マンデラは政治面では民族和解・協調を呼びかけ、経済面ではアパルトヘイト体制下で起こった白人・黒人間の格差の是正と経済制裁による経済不況からの回復を目ざした。民族和解・協調のためアパルトヘイト体制下の政治的抑圧や人権侵害の真相を明らかにし、被害者の復権を目ざす真実和解委員会が1994年12月に発足し、公聴会が開かれ、次々に真相が暴露されていった。一方、2年以内に新憲法を制定するという暫定憲法の規定に従い、1994年5月制憲議会が発足した。焦点は中央集権国家か地方分権国家かであり、後者を主張するインカタ自由党は制憲議会から脱退した。そして1996年5月に採択された新憲法では権力分与条項が削除されたため、国民党は連立政権から離脱した。経済政策では富の再配分と経済成長を両軸とする復興開発計画(RDP)が実施されたが、実施機構整備の遅れ、財源不足、人材不足からとくに再配分の実施は遅れ、黒人の新政権への不満は高まった。このため1996年6月、政府は経済成長を重視するマクロ経済成長戦略(GEAR)を発表、高い経済成長率によって再配分問題も解決しようとした。
この政策転換に対し、白人の南ア財界は歓迎したが、黒人はRDPからの逸脱として激しく非難した。一方、大司教ツツを委員長とする真実和解委員会の最終報告書は1998年10月に公表された。同報告書は人権侵害を行った人物や団体を指摘し、加害者に対し刑事訴追を要求した。
RDPとGEARの実施にもかかわらず南ア経済の回復は遅く、とくに黒人の失業問題は解決せず、このため社会犯罪が激化し、このことは先進諸国の対南ア投資、企業進出が進まない大きな原因となっている。このような状況下で1999年6月に実施された第2回総選挙で、ANCが再度勝ち、ムベキThabo Mbeki(1942― )政権が発足した。マンデラはこの総選挙を機に政界から引退した。ムベキは引き続きGEARを押し進めるとともに、冷戦終結後、周縁化が進むアフリカ大陸を、援助よりは貿易と投資を通じて活性化させようとするアフリカン・ルネサンス構想を打ち出した。
[林 晃史]
『ロジャー・オモンド著、斎藤健司訳『アパルトヘイトの制度と実態』(1989・岩波書店)』▽『ネルソン・マンデラ著、東江一紀訳『自由への道――ネルソン・マンデラ自伝』上下(1996・日本放送出版協会)』▽『伊藤正孝著『南ア共和国の内幕――アパルトヘイトの終焉まで』(中公新書)』
アフリカーンス語で〈隔離〉を意味する語。南アフリカ共和国で行われていた極度の人種差別の政策・制度を指し,通常〈人種隔離〉と訳す。南ア共和国は多人種社会で,512万人の白人が3423万人(1992)の非白人(アフリカ人,カラード,アジア人)を政治・経済・社会のあらゆる面で差別していた。たとえば,非白人には参政権がなく,最近までは労働組合の登録を認められていなかったため団体交渉権はなく,白人との労働条件の格差は大きかった。また人種間の婚姻も禁止され,教育は人種別に分けられた。その差別の主要な目的は,白人労働者を保護し,アフリカ人の安価な労働力を確保することにあり,同国の経済発展と人種差別政策とは密接に関連していた。
1867年オレンジ自由国のキンバリーにおけるダイヤモンドの富鉱の発見は,従来の農業・牧畜を主体とする南ア経済を一変させ,鉱業が経済の中心となっていった。続いてトランスバールのラントで金鉱が発見されると,イギリスはその割譲を要求し,99年ボーア戦争を起こした。戦争はイギリスの勝利に帰し,1910年南ア連邦が成立した。戦後,鉱山での労働条件の改善を要求する白人労働者のストライキが起こり,11年,政府はその対策として最初の人種差別法として知られる鉱山労働法を制定して,白人労働者の保護をはかった。第1次世界大戦によってイギリスからの輸入が閉ざされた南アは経済の自立を迫られ,製造工業が急速に発展した。工業の発達につれて人口の都市集中化が進み,とくにボーア戦争によって農場を破壊され都市に流出したボーア人農民(プーア・ホワイト)を労働市場でアフリカ人との競合から守るため,政府は〈文明化労働政策〉の下にさまざまな産業・労働上の人種差別法を制定した。一方,アフリカ人の土地に関しては,1913年に原住民土地法を制定し,原住民指定地として南ア全土の9%に限定した。36年の原住民信託土地法によって,それは13%まで拡大されたが,アフリカ人は原住民指定地内で自給農業を営むだけでは生活を維持できず,出稼ぎ労働者として白人地域に働きに出た。
第2次世界大戦後のアジア,アフリカに起こった反植民地運動および国内のアフリカ人民族運動の高まりに対し,国民党政府は白人に危機を訴え,白人と黒人の分離を主張するアパルトへイト政策の下に,さまざまな人種差別法を制定し,同時に反政府運動を弾圧していった。一方,戦後南アの製造工業は急速に伸び,60年代初めには国内総生産への寄与率で鉱業を抜いて第1位になった。工業化に伴い半熟練部門へのアフリカ人労働者の進出が目だったが,それに対し政府は1956年産業調停法の改正強化を行い,職種制限を導入するなど白人労働者を保護したため,アフリカ人労働者との賃金格差は拡大していった。
原住民指定地での人口増加と土地不足は,50年代初めから深刻化した。政府は委員会を任命して調査を行い,その勧告を受けて59年,分離発展の方針を明らかにし,同年バントゥー自治促進法を制定した。同法の意図は国内の白人とアフリカ人がおのおのの地域で別々に発展するため,アフリカ人地域を部族ごとの10地域(バントゥースタン。のちホームランドとも)に分け,各地域内では外交,防衛,治安などの重要な権限を除いてアフリカ人に自治を許し,将来その自治権を拡大して〈独立〉させることにあった。70年代に入り人種差別政策への国際的非難が高まり,周辺諸国で黒人支配移行への動きが強まると,政府はこれらのバントゥースタンに〈独立〉を付与していったが,このみせかけの独立に対し,世界のどの国も承認を与えなかった。
1976年のソウェトSoweto蜂起は,1960年代初めに非合法化された民族運動に代わって,学生・民衆の反人種主義運動の力を示すものであった。この事件を契機に政府は産業・労働分野での白人とアフリカ人の関係を再検討するため労働法調査委員会を任命し,79年にその勧告案に基づいて改正産業調停法を大幅に改め,アフリカ人労働組合の権利を認めた。
84年9月,アフリカ人を除外した人種別三院制議会が発足すると,これに反対する人々・組織は統一民主戦線(UDF)を形成し,黒人居留区を中心に反アパルトヘイト運動を激化させた。それに対し政府は85年7月非常事態宣言を発令して弾圧したため,国際社会の非難が高まり経済制裁が強化されていった。この過程で南ア財界は政府にアパルトヘイト法の廃止を要求,政府は86年4月にパス法を廃止した。
89年9月に大統領に就任したデ・クラークは,これまで国民党が進めてきたアパルトヘイト政策を転換し,アフリカ人との話合いを通して南アフリカの将来を決めていくという対話路線を打ち出した。そして翌90年2月にはアフリカ人民族会議(ANC),パン・アフリカニスト会議(PAC),南ア共産党を合法化し,マンデラを釈放した。またANCとの予備交渉の後,同年10月公共施設分離法を廃止し,非常事態宣言も解除した。さらに翌91年6月,残された集団地域法,土地法,人口登録法も廃止し,アフリカ人の参政権以外のすべてのアパルトヘイト法を廃止した。これによって国際社会の経済制裁は次々と解除されていった。その後,91年12月と92年5月に全人種代表からなる民主南アフリカ会議,さらに93年4月と7月に多党交渉フォーラムが開催され,93年末に選挙までの移行期の政体として暫定執行評議会と暫定憲法が制定された。そして選挙に向けて行政区の改革が行われ,これまでの4州に代わり新たに9州が設けられ,ホームランドは南アフリカに再統合された。さらに翌94年4月に南ア史上初の全人種参加の制憲議会選挙が実施され,民主南アフリカが誕生した。
新政権は格差解消の一助として95年12月に真実和解委員会を発足させ,アパルトヘイト期の政治的抑圧や人権侵害の真相を明らかにし,被害者の復権をめざしている。
執筆者:林 晃史
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アフリカーンス語で「分離」という意味。南アフリカに住む白人を優遇する社会を確立するためにとられた政策。1948年に国民党が政権を握って本格化した。49年に雑婚禁止法,50年に背徳法と人口登録法が制定され,個人を四つの「人種」(白人,インド人,カラード,黒人)に分類した。非白人は選挙権を剥奪され,身分証明書の携帯が義務づけられた。また政府の定めた10の居留地(ホームランド)に住むことが決められた。居留地は「民族」ごとに指定された。国際社会はこれらを人種差別として南アフリカを非難したが,同国はイギリス連邦を脱退,61年南アフリカ共和国と改称した。その後「分離発展」の名のもとに71年のバントゥー・ホームランド構成法によって,個々の居留地に「自治」や「独立」が認められたが,国際社会は承認しなかった。国内では1950年代からアフリカ人民族会議(ANC)をはじめ多くの黒人が抵抗運動を始めた。94年に完全廃止。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
(林晃史 敬愛大学教授 / 2007年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
…しかし人種差別制度といえば,17世紀半ばにボーア人が入植して以来しだいに強化されてきた南アフリカ連邦のそれに,指を屈せざるをえない。それが第2次世界大戦後になっていっそう強化され,アパルトヘイトと呼ばれる,より徹底した人種差別・隔離制度へと発展したことはよく知られている。ベルギーの場合も,その植民地統治の基本原理としては同化主義を唱えていたが,実際の政策は父権主義に傾斜し,同化主義はまったく空洞化したままであった。…
… 1959‐60年にナチズムの象徴ハーケンクロイツ(鉤十字)を書きたてたり,反ユダヤ主義を煽(あお)るような事件が続発し,国連人権委員会の差別防止・少数者保護小委員会がこの問題をとりあげ60年1月に非難決議をし,さらに人権委員会も,経済社会理事会も同旨決議を採択,国連総会が何らかの措置をとるよう要請した。また同年3月,南アフリカのシャープビルという町でのアパルトヘイト政策に反対する平和的集会に対し同国政府が強権で臨み,流血の惨事(シャープビル事件)が発生したため,国連安全保障理事会は,南アフリカの事態が国際的摩擦に発展し,継続すれば国際の平和と安全を危うくすると決議した。さらに60年には18ヵ国が植民地から独立し,アフリカの16ヵ国がその秋一挙に国連に加入した。…
…なお,〈人道に対する罪〉は戦後作成された諸条約によりいっそう一般化されるようになった。集団殺害(ジェノサイド)は,平時・戦時を問わず,国際法上の犯罪とみなされ(1948年〈集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約〉1条),さらに〈武力攻撃または占領による追立て〉および〈アパルトヘイト政策に基づく非人道的行為〉(1973年の〈アパルトヘイト罪の鎮圧及び処罰に関する国際条約〉1条)も人道に対する罪に含まれるに至っている。 通例の戦争犯罪についても,1949年ジュネーブ諸条約(赤十字条約)は次のような〈重大な違反行為〉を列挙した。…
…東部の一角にレソト王国を包み,ナミビア中西部のウォルビス・ベイ,はるか南東方インド洋上のプリンス・エドワード諸島を領有する。第2次世界大戦後,アフリカ人への主権移行がアフリカ各地で次々に実現している状況のなかで,少数白人による人種差別政策アパルトヘイトをつづけて譲らず,アフリカ統一機構(OAU)はもちろん,国連におけるたび重なる非難決議を無視し,世界から孤立した存在となった。しかし,長く,また多くの犠牲を伴った反アパルトヘイト運動と国際的な環境の変化にともなって,アパルトヘイトの廃止が進み,94年には初の全人種参加選挙による新政権が発足。…
※「アパルトヘイト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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