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エリザベス[1世] エリザベス

百科事典マイペディアの解説

エリザベス[1世]【エリザベス】

チューダー朝イングランドの女王(在位1558年―1603年)。ヘンリー8世と2番目の王妃アン・ブーリンの子。異母姉メアリー1世の治世では王位継承権を奪われ苦難の日を送ったが,25歳で即位
→関連項目アイルランドエセックス伯エリザベス朝演劇キャムデンスペンサーセシル絶対王政タリス徒弟法ドレークバードメアリー・スチュアートレスター伯ローローリー

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世界大百科事典 第2版の解説

エリザベス[1世]【Elizabeth I】

1533‐1603
イギリス,チューダー朝の女王。在位1558‐1603年。ヘンリー8世と2番目の妃アン・ブーリンの子。1536年母が刑死し非嫡出子とされたが,44年には王位相続権を認められた。ルネサンス新学芸の影響下に成長し,幼時から聡明をもって聞こえた。弟エドワード6世治下では,王位をねらうノーサンバーランド公陰謀を排し,姉メアリーの即位を助けた。54年ワイアットの反乱では姉により連座を疑われて一時入獄したが,ほどなく釈放され,58年メアリーの没後即位した。

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世界大百科事典内のエリザベス[1世]の言及

【アングリカン・チャーチ】より

…ヘンリー自身は教義・礼拝様式上の変更を許さなかったが,エドワード6世の治世下ではクランマーが祈禱書と《42ヵ条の信仰告白》を作成し,教義上はプロテスタント主義を受け入れながら教会政治・礼拝面では中世教会との連続性を維持する教会の基礎を固めた。メアリー1世の時代に一時ローマ教会に復帰した英国国教会は,8年エリザベス1世の登位によって,ふたたびローマより独立した国民教会として確立した。エリザベスの教会・国家体制はローマ教会員とピューリタンによって厳しく批判されたが,16世紀末になるとフッカーが《教会政治理法論》(1594)を著し,神の法にも理性の法にももとらない英国国教会がその基礎を聖書と初代教会よりの伝統に置き,ローマにもジュネーブにも偏しない中道的立場に立つことを弁証した。…

【イギリス】より

…当時は好調だった経済や財政的余裕などを背景に,ロンドンその他の大都市部を中心にさまざまな組織・構造改革が労働党政権によって導入されたが,79年総選挙によって登場したサッチャー保守党政権は,労働党が支配する大都市自治体の〈浪費〉を批判し,路線を大転換させた。ロンドン都GLC(Greater London Council)など大都市広域自治体の廃止や,起源をエリザベス朝にさかのぼる自治体財源の固定資産税(レート)の廃止,それに代わるコミュニティ・チャージと呼ばれる均等割税制の導入など,一連の思い切った改革を順次導入した。しかし,コミュニティ・チャージに対する国民や保守党内からの反発が結局サッチャー退陣を招いたという事情もあり,後を継いだメージャーJohn Major(1943‐ )保守党政権はチャージを撤廃し,カウンシル・タックスという名称で従来のレートを大筋で復活するなど,一部で軌道修正を行うと同時に,日本でいえば都道府県―市町村という二層構造そのものの是非を含めた,地方自治構造全体の見直しに着手した。…

【宗教改革】より

カルビニズムは,伝統的社会秩序を重んずるルター派に比べると,資本主義的な営利活動の肯定,カトリックの君主に対する政治的抵抗を容認するなど,より自由主義的な性格をもっており,勤労者層のほか貴族の間にも支持を得て,フランスのユグノー戦争や,スペインの支配に対するネーデルラントの独立運動(八十年戦争)などで,その戦闘的なエネルギーを実証した。なお,イングランドでは,ヘンリー8世の時代に,もっぱら政治的動機から教皇権よりの独立,国教会体制の移行がはじまったが,プロテスタントの教義の受容はエドワード6世治下のことであり,主教制と独自の礼拝形式をもつアングリカニズムの確立は,メアリー女王のカトリック反動を経て,エリザベス1世の時代に持ちこされた。正統なカルビニズムの立場から,この国教会体制を批判する長老派教会は,さまざまな迫害をうけつつも勢力を伸ばし,ピューリタンと呼ばれる非国教徒の主流を形成してゆく。…

【女帝】より

…【直木 孝次郎】
[ヨーロッパ]
 ヨーロッパの場合,〈女帝〉をどのように定義するかはかなり微妙な問題をはらんでいるが,〈帝国〉の統治者という観点に立てば,8世紀ビザンティン帝国のイレネ(在位797‐802)の名前があげられる。しかし〈帝国〉という正式のタイトルはなくても,イギリス・チューダー朝の名声を担ったエリザベス1世(在位1558‐1603)はイメージからすればまさに〈女帝〉に近い存在であった。ヨーロッパ史で〈女帝〉というタイトルをもち,またそれにふさわしい政治的手腕を発揮するのは,神聖ローマ帝国のマリア・テレジア(在位1740‐80)である。…

【神仙女王】より

…第1~3巻は1590年,第4~6巻は96年刊,第7巻は未完。当時のエリザベス女王を,栄光に満ちた,貞節のかがみとしての神仙国の女王に見たて,これにイギリスの伝説の英雄アーサー王が騎士的思慕をささげる構想。当初のプランでは,叙事詩の伝統に則して12巻をたて,各巻の主人公として神仙女王に仕える12人の騎士のひとりひとりが割り当てられるはずであった。…

【星室裁判所印刷条令】より

…エリザベス1世が1586年6月23日,星室裁判所に出させた印刷・出版取締りの条令。絶対王政型言論統制法規の典型。…

【チューダー朝】より

…ウェールズ系のリッチモンド伯ヘンリー・チューダーは,その母がエドワード3世(在位1327‐77)の子ジョン・オブ・ゴーントの末裔であったために,ランカスター派の王位継承者とみなされ,ばら戦争最後の戦闘ボズワースの戦でリチャード3世を破ってヘンリー7世として即位。翌86年ヨーク家のエリザベス(エドワード4世の娘)と結婚し,ヨーク,ランカスター両家の対立に終止符を打つとともに,王位の安全性を確かなものとした。その長子アーサーの夭折によって王位は次子ヘンリー8世(在位1509‐47)に移り,その死後はヘンリー8世の子どもたち,エドワード6世(在位1547‐53),メアリー1世(在位1553‐58),エリザベス1世(在位1558‐1603)によって継承された。…

【ピューリタン】より

…通常〈清教徒〉と訳される。〈ピューリタン〉という名称は,最初イングランドの女王エリザベス1世のアングリカニズム(英国国教会中心主義)による宗教政策を不徹底な宗教改革とみなし,国教会をジュネーブの宗教改革者カルバンの教会改革のモデルに従って徹底的に改革しようとしたプロテスタントにつけられたあだ名であった。これは中世の異端カタリ派(英訳すればpuritan)を暗示する汚名であったが,やがて教会からカトリック的残遺物を排除し,聖書に従うことによってこれを〈ピューリファイ(浄化)〉することを求める人という積極的意味をもつようになった。…

【ヒリアード】より

…金工家の子としてエクセターに生まれ,その技術を習得した。1570年ごろにエリザベス1世の宮廷画家兼金工家に任ぜられ,77‐78年ごろフランスに滞在したのを除き終生イギリス宮廷周辺の仕事に携わる。細密画(ミニアチュール)の技法に優れ,手に取って愛玩できるような小型の肖像画を得意とし,エリザベス1世をはじめ宮廷人の肖像を描く。…

【ページェント】より

…ページェントの行われる日は,通りに面した家の正面にタピスリーが掛けられ,街角には,洋服屋,魚屋といったギルドごとの仮設舞台がつくられた。エリザベス1世はとくにページェントを好み,いつもイギリス中の都市を巡行し,市民はその訪問を歓迎してページェントを行った。また,ページェントは字の読めない民衆のための絵本であり,彼らはアレゴリー(寓意)という見える姿を通して,都市を読んだのであった。…

【無敵艦隊】より

…スペインとイギリスは16世紀前半までは良好な関係にあった。しかし,エリザベス1世が即位(1558)すると,やがてカリブ海域におけるそれまでのスペインの独占体制がイギリス船の進出によって破られ,加えてエリザベスはフランドルの反スペイン闘争を積極的に支援した。このために両国関係は一転して悪化の一途をたどり,その過程でエリザベスはフェリペ2世がスコットランドでのカトリック再興の希望を託していたメアリー・スチュアートを処刑した。…

※「エリザベス[1世]」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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